3 医療講演会
「いつかお礼をさせてくださいね」
彼女はそういうと、ポケットから名刺を一枚抜き取っておれに渡してくれた。そこには、車のドアにプリントされているのと同じ「訪問看護ステーション でいご」という会社名とともに、連絡先と住所、さらには彼女が持っているらしいPHSの番号が書き記されていた。右隅には小さな赤い花びらが何枚も重なったような花の絵。
しげしげと名刺を眺めているおれに彼女はいった。
「それがデイゴの花なんです。沖縄の県花ですけれど、この島でも咲くんですよ。初夏が花の季節なので今年はもう終わりましたけれど」
「へえ、そうなんだ。おれ、東京からきたからまだ知らないことが多くて。次のシーズンには気を付けてみてみるようにするよ」
「とても綺麗な花ですよ。この夕日みたいに燃えるように真っ赤な色をしてるんです」
「そういえば、夕日を見に来て車、止めちゃったんだったね。夕日、好きなんだ?」
そういうと、彼女は少しだけ寂しそうに目を伏せた。おれが思っていた反応と違っていて、むしろおれのほうが何かきいてはいけないことだったのかと少し困惑してしまった。
「好きというよりも、見送る。という感じなのかなって」
「見送る?」
静かにうなずくと彼女はいった。
「訪問看護に行く患者さんってね、病院にも通えない、末期の癌にかかっている方が多くいるの。都会だったら、癌にかかったらきっと大きな病院で最新の設備で最後の最後までドクターが様々な治療を施してくれるんでしょうけれど、この島では決してそれが普通というわけではありません。自宅で心安らかに最期のときを迎える方が少なくないんです。そんな方たちの命が燃えて海の彼方の楽園へと旅立つときの色、それがあの夕日には映り込んでいるように思えるのです」
「海の彼方の、楽園?」
おれの疑問には、にこりと目を細めただけで、彼女からの明確な返事はなかった。そのとき、おれには彼女が何をいいたかったのか、まるで理解できなかった。だって、海の彼方の楽園なんて、今までおれの生活の中には登場することのないワードだったし、彼女のいう「命が燃える」ということがどういうことかさえ、想像も及ばなかったんだ。おれはまだ、誰かの「死」というものと、はっきりとむき合ってきた経験がなかったんだからな。けれど、看護師であるミサキは多くの「死」とむき合ってきたのだろう。そんな彼女だからこその感性だったのかもしれない。そのとき、おれはそう思っていた。
ミサキと別れるとおれはそのまま事務所へと戻り、今日の仕事の日報を書き上げた。日報というよりもほとんど日記みたいなものだ。その日出会った人のこと、その人たちから聞いた話。身につけたこと。そんなとりとめもないことを書き記していく。もしいつかおれがおれ自分自身のことを忘れてしまっても、そのノートがおれの記憶を助けてくれるかもしれない。そんなことを思いながら。
もちろんこの日の日報の最後にはミサキのことも書き加えておいた。彼女のいう、命の燃えたときの色。そんな風に夕焼け空を見たことはなかったなあと、考えながらノートを閉じる。
今日の仕事を終えたおれはデスクから立ち上がると、事務所を出て一つ下のカフェ「あしびば」へとむかう。夕方から夜の時間帯にもあしびばは営業している。よく考えたらここの店長でもあるマコトは、一体いつ休んでいるんだろう?
そんなことを微塵も感じさせない笑顔で、マコトはいつものように「いらっしゃいませ」とおれを出迎えてくれる。今日、二人目の天使発見。
「よう、遅かったな」
そういってカウンターから振り返っているのは市役所職員のコウジだ。この島におれが来てからどういうわけか、やつとはよく一緒にいる。なんだかんだと彼とは気が合うのかもしれない。カウンターチェアに腰掛けながら焼酎のロックを注文すると、まるで用意していたかのようなスピードで、おれの前にグラスと味噌ピーナッツが差し出された。味噌ピーナッツはこの島の郷土料理で薄皮付きのピーナッツに味噌を和えたものだが、これがまた酒のつまみには最高なのだ。おれはグラスを手に取ると、コウジの持っているグラスにかるく当てる。チンという甲高い澄み切った音がなった。今日も一日お疲れ様。
「今日の仕事は西の端のほうだったんだ。それに夕日が綺麗だったからな、ちょっと夕日見物をしてたんだよ」
「へぇ、そんなセンチメンタルな趣味を持ち合わせていたのか?」
「随分ないい方だな。けど、お陰で看護師さんの知り合いが一人増えたよ」
おれがそういうと、コウジは「おい」といいながら、おれの肩をぐいっと掴んで、力任せにやつの座る方へと振りむかせる。やつの目にはギラギラとした光が灯っていた。
「それで、その看護師さんとの合コンはいつやるんだ!?」
「なんでそうなるんだよ……」盛大にため息をついて、おれは焼酎を一口あおる。「それに看護師さんといっても、病院のナースじゃなくて訪問看護だったよ。車が動かなくなったって困ってたんだ。それで、ちょっと人助けをな」
「美人だったのか?」
おれは一瞬返答につまりながらも「まあ、な」と曖昧な返事をして言葉を濁した。なんとなくマコトにはきかれたくなかったんだ。
「いいなぁ、お前ばっかり。俺のところに回ってくるのなんて、出がらしみたいな……」
「おいおい」と、おれは慌ててやつのおしゃべりを止める。誰がきいているかなんてわかったもんじゃないからな。おれは別の話題を探そうとして、ふとミサキの言葉を思い出した。
「なあ、コウジは夕日を見て、それについてなにか感じることはあるか?」
「夕日? うーん、そうだなあ。今日は思いのほか早く帰れたなあとか?」
「……それ、夕日見て思うのか?」
ああ、とコウジはおれのつまみを横取りして焼酎を一口あおる。
「俺にはお前みたいなセンチな趣味はないからな。でも、なんでそんなこと聞くんだ?」
「その看護師の女の人が、夕日を見て『命が燃えて海の彼方の楽園へと旅立つときの色』だといってたから、変わってるなあって……」
「ああ、それな」
コウジはまるでなにか知っているかのような口ぶりでいった。おれは素直に驚きの声をあげた。
「知ってるのか?」
「知ってるっつうか、俺の担当先でそれを口にするばあちゃん、たまにいるよ。光の福音とかいったかな。新興宗教って程じゃないけど、既存の宗教の分派みたいなもんで、わりと有名なのは戒律が厳しいって話かな。例えば輸血しちゃいけない、みたいなやつな」
「輸血がダメってそんなのあるのか?」
そんなものがあるとは初めて知ったおれは、おうむ返しにコウジにいった。そのおれの質問にはコウジではなくカウンターの中にいたマコトが答えた。
「もともとは、みだりに血を取り入れるべきではない、だったかしら。古い時代に肉ばかりを食べることへの戒めだったみたいなの。人が幸福に生きるには、質素な生活をすることが大切、という教えだったのよ。それが時代とともに変わってきて、医療行為としての輸血も『血を取り入れる行為』だと曲解しだしたというのが、最近の学者さんたちの見解ね」
へえ、とおれが感嘆の声をあげる隣で、なぜかコウジが得意気に腕組みをしながら何度もうなずいている。まあ、今回はコウジがいいパスを出したから、奴のポイント1にしておいてやる。それにしても、あのミサキという看護師はその宗教を信仰しているのだろうか。それとも、どこかでそんな話を聞いてきたのだろうか。そもそも、そんな輸血を拒否するような宗教を信仰する人が看護師になんてなるだろうか?
そんなことを考えているおれのよこで、コウジが呑気な声をだす。
「それはそうと、アキオは土曜日の昼間、時間あるか?」
「今週の? まあ、予定は今のところ入ってないけど」
「そうか、助かった。実はさ、地区公民館で医療講演会が入っているんだけどさ、ウチの音響に強い職員がなんでもウィルス性胃腸炎だかなんだかで休んでてさ。あとは機械音痴なオッサンばっかりだから、困ってるんだ。アキオ、そういうの得意だろ?」
「ああ、簡易のPAを組むくらいなら大丈夫だけど、でも医療講演会ってそんな難しい音響のセッティングいらないだろう? マイクの音が出ればいいんだから」
おれがそういって眉を寄せると、カウンターのむこうでマコトが「それ、もしかして安田先生の講演じゃない?」と、手のひらを胸の前に組んでいった。心なしか声も弾んでいるようにきこえる。
コウジは、マコトにむきなおると「ご名答。マコトもおいでよ、昼の一時からだけど」といって、小皿の上からふたたび味噌ピーナツをひとつつまんだ。
「ランチが暇だったら行ってみようかな」
まるで芸能人のトークショーにでも誘われたかののように、マコトが目を輝かせるので、おれは意外に思ってマコトにたずねた。
「マコト、医療関係の話に興味があったんだ?」
「ううん。そうじゃなくて、安田先生ってこの島ではちょっと有名なドクターなのよ」
「有名?」とおれが首をかしげると、コウジがニヤリと口元を吊り上げていった。
「そう。シンガーソングドクター、安田昇」
は? とおれが顔中にハテナマークを飛ばしているのを面白そうに眺めながら、やつは「とにかく、土曜日の十時ごろに地区公民館まで頼むぜ」といって、そのあとコウジは看護婦と出会う方法をテーマにマコトとの意見交換に移っていた。