2 タイラミサキ
九月に入って半ばも過ぎようとしているのに、この島を照らす太陽というのは、どうやら季節感やら空気感というものに全く無頓着なようで、連日三十度超えの真夏日が続いている。加えて、太平洋と南シナ海に挟まれたこの南の島では、秋雨前線の北上が本土よりも少し早めに訪れるため、週の半分は雨が続き、まるで巨大な蒸し風呂に放り込まれたような暑さと湿度なのだ。ところが、今日みたいに雨上がりにカラリと晴れると、島を取り巻いている空気もどこか、磨かれて透明度が増したような爽やかさを感じさせてくれる。
この日、おれは島の西部での手伝いをひとつこなしてから、市内にある事務所にむけて車を走らせていた。
仕事がだいぶ順調に廻るようになり、なんでも屋業の傍らで、普通にアルバイトなんかの収入や、フリーの仕事も入るようになったこともあり、おれは意を決し、スクーター生活を脱して中古で車を手に入れたのだ。
おれが買ったのは、もう三十年近くも昔のコンセプトカーだ。天井がキャンバストップになった空色のレトロな車で、愛嬌あるふたつの丸いヘッドライトが古めかしくも、どこかこの島にあっているような気がして、衝動買いしてしまったのだ。(しかも最近ではネット注文で車が購入できるんだ!)
車を購入したおかげで月々の出費は多少膨らんでしまうが、まあやっていけないことはない。なにより、この雨の多い島でスクーターでの移動はかなり過酷だったからな。快適さは金で買えるというのは、間違いではないのだ。
東シナ海沿いの県道を市内にむけて走っている内に、かなり日も傾き始め、久しぶりに茜色に染まる西空が見れそうだったこともあって、おれは県道沿いのビーチを見下ろす岬に作られた展望公園の駐車場へ車を入れて、久々の夕焼け見物としゃれこむことにした。
そこはこの島でも有数の夕日スポットにもなっている美しいビーチで、展望公園のある岬からは大きく湾になった砂浜と、そこにひろがる集落の屋根が朱く染められていく様子が、まるでジオラマを眺めるような気分で見下ろすことができるのだ。観光客も少なくなったこの時期なら、運が良ければこの夕焼けを独り占めすることもできるかもしれない。
しかし、そんなおれの思いとは裏腹に駐車場にはすでに一台の車が停まっていた。シルバーの軽自動車で、車のサイドには「訪問看護ステーション でいご」という、社名がプリントされていた。
おれはその車から少し離れた場所に車を停め車外へ出ると、転落防止用の柵に両手をついて、湾のむこうに延びる島影をかすめながら沈み行く夕日をじっと眺めていた。
そのとき何を考えていたかは、まああんたたちの想像にまかせるにしても、そんな状態で突然、後ろから声をかけられたら普通、誰だって驚くよな?
おれの後ろで、女の声がしたのはまさにそんな状況。
「あの、すみません」
「ッ!」
完全に無防備だったおれは体をビクンとさせて振り返った。心拍数が一気にあがった気がする。というか、あがっているのは間違いない。どきどきと脈打つ鼓動を悟られないように、いかにも平静を装って声の主へと視線をおくる。
そこに立っていたのは、髪を後ろでひとつに束ね、さらにそれをぐるりと団子状にして留めている細身の女性だった。身長は高くもなく、かといってとりわけ低いわけでもない、一六十センチメートル弱といったところだろうか。
ただ、そこに立つ彼女の違和感を拭えない理由は、彼女が着ていた服装のためだ。
彼女の着ている真っ白のハイネックシャツは、体の正面ではなく、左肩あたりから真下にむかって重ね合わせられており、さらに腰のあたりには何本ものペンのさしてある大きなポケットがついていて、パンツや靴にいたるまで真っ白だ。おれがそんな格好の女性を見るのは、こんな夕日の綺麗な景勝地なんかじゃなく、あの無機質でどこか冷たいリノリウムの床にうつる蛍光灯が作る空間。そう、彼女は看護師の格好でそこに立っていたのだ。真っ白なナース服が夕日を受けて滲むような赤に染められていた。
女性がひとり、ナース服でこんな場所にいる理由を一瞬考え、ちょうどそのとき、さっき停まっていた車のサイドに「訪問看護ステー-ション でいご」というプリントがされていたことを思い出す。そして、なんとなく直感で彼女がなにか困難に直面しているのではないかと、そう感じ取った。
もっとも、現時点でも逆ナンパである線も捨てがたいが。
とにかく、おれは彼女にはなんの動揺も見せないようにと、つとめて冷静にいった。
「はい、何かありましたか?」
「すみません、突然。実は、車が故障したみたいで……わたしあまり詳しくなくて……」
もじもじとしながら彼女は、恥ずかしげに顔を伏せる。その仕草におれはほんの少し、頬に熱がこもるのを感じた。よく見れば、愛らしい大きな瞳に、長いまつ毛がくるんと上を向いて、ありていにいえば、とても美人だ。まあ、例えおれが彼女に対して顔を赤らめていたとしても、夕日に照らされてそんなことも感じさせはしなかったに違いない。それはとにかく、おれの直感は間違ってはいないようだった。おれは彼女が乗ってきたであろう、軽自動車をちらりと横目で見る。
「故障? 車が動かなくなった?」
「はい。ここまでは問題なく動いていたんです。夕日が綺麗だったので、少し寄り道をしようとしてここで車を停めたあと、いざ帰ろうとしたらうんともすんとも……」
「わかった。ちょっと見てみるよ。鍵は?」
「車についています」
小さくうなずきながら、おれは自分の車のそばを離れ、十メートルほどむこうに停めてあった彼女の軽自動車へと歩いていった。
ドアを開けると、キーが付きっぱなしであることを知らせるアラームが鳴る。おれは運転席に座って、ブレーキを踏みイグニッションキーを捻る。確かにうんともすんともいわないが、バッテリーからの通電はしているようだ。
おれはもう一度手順を踏みなおそうと、シフトコラムに手を置いて、つい苦笑いを浮かべる。
おれのちょっとした動作のあと、もう一度エンジンをスタートさせると、今度は何の問題もなかったかのようにエンジンはあっさりと始動した。
「ええー!? なんで?」
大きな口を開けて、呆れたように驚く彼女に、おれは運転席のドアを開けて降りていった。
「シフトレバーがドライブにはいったままキーを切っていたんだ。レバーをパーキングに合わせてなかったから、エンジンがかからなかったんだよ。大丈夫。故障じゃないよ。むしろ、安全装置だ」
「そうなんですね。よかったぁ。今からステーションに帰らないといけないのに、すっかり途方に暮れていたんです。ありがとうございました」
そういって深々と頭をさげた彼女におれはたずねた。
「えっと、君は看護師さんなの?」
「はい、訪問看護をしている平美咲といいます。本当に助かりました。あなたのお名前は?」
「おれは、大澤アキオ。市内でなんでも屋をやっているんだよ」
なんでも屋と聞くと彼女は一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐににっこりと、小首をかしげる仕草をしてみせた。そのとき、おれは確かに見たんだ。「白衣の天使」ってやつをね。