15 ミサキの過去
おれとミサキつい先日コウジの仕事で訪れたばかりのゴミ屋敷の住民、トシおばに会うために市街地から国道を南下していた。
待ち合わせ場所からは二十分程度の行程。助手席に座って開け放った窓から入り込む風に、気持ちよさそうに髪をなびかせるミサキにおれは「そういえば、ミサキはどうして看護師になろうと思ったの?」とたずねた。
実はこれまで少し気になっていたことがあった。それは、前にコウジがいっていた光の福音という宗教をミサキが信仰しているのかということだった。おれはその宗教について別に深く調べもしなかったし、特に興味を惹かれたわけでもない。その人の信仰によって、何かを判断しようと思うこともない。ただ、単純に輸血をしてはいけない、などという医療と真っ向から対立するような教えを説く宗教とミサキが関わっていたのなら、なぜ看護師になろうと思ったのか、それが不思議だったからだ。
「そうですね。この島に残って仕事を探すと、女性は特に仕事がすくなくて、看護師や介護士という仕事につく人は多いですから」
「でも、それならミサキだって島を出るという選択肢もあったはずだろ? わざわざ看護師を選んだ理由があったんじゃないの? それに……」
質問をすべきかどうか悩んでおれはいい淀んで言葉をのんだ。ミサキのことを宗教によって判断していると思われるのが嫌だったのかもしれない。しかし、ミサキはふわりと頬を緩めていった。
「私が光の福音の信者だから、ですか?」
きっと、彼女はこれまでにも何度もそうたずねられてきたのだろう。別段、気にする様子もなくそういってのけた。おれは止めていた息を吐き出しながらいった。
「うん、別にそれでミサキのことを判断するつもりじゃないけど、ただ、どうしてあんな厳しい戒律があるにもかかわらず、それでもミサキは医療の道を志したのか不思議だったんだ。光の福音は形は違うけど、フォトンマトリクスのように医療と真っ向から対立する教義じゃないのか?」
どこかいい訳がましいなと自分でも思いながら、それでもおれはミサキにそう問いかけると、ミサキはずっと遠くのほうへ思いを馳せるような、どこか視線の定まらないような目をフロントガラスのむこうの景色に送っていった。
「私、妹がいたんです」
いた、という言葉に引っかかった。過去形にする理由があるのだろうか。おれは、黙ってミサキの続きの言葉を待った。
「両親は光の福音の信者でした。私たちはまだ小さくて、そんなことはよく知らないまま、それでもときどき両親が出席する会合などに連れていかれていました。信者のみんなは穏やかで優しい人が多かった印象がありました。ところが、それがある日を境に変わりました」
「変わった? 態度がきつくなったの?」
ミサキは首を横に振って否定すると、膝の上に組んだ両手に視線を落として、呟くような声でいった。
「あるとき、私たち家族の乗った車が衝突事故に遭いました。私と両親は軽症だったのですが、車がぶつかった側に座っていた妹が大けがを負って、病院に運ばれたんです。先生は内臓に損傷があって、すぐに手術をしないといけないといっていました。けれど、両親が手術に同意しなかったんです。手術には輸血が必要で、両親はそれを拒否したんです」
おれは言葉を失った。我が子の命がかかっている、そのときにまで自分の信仰の戒律が優先されるなんて、正気だとは思えなかった。
「両親にとって、生活の中で最も優位にあるのは神様の教えです。自分たちは神様に奉仕する立場であり、それは家族よりも優先されることなんです。両親は特に熱心な信者でしたから、妹の生命が脅かされていてもそれを神様が定めた運命だととらえて、それに逆らおうとはしませんでした。でも、私は違った。両親や先生に縋りついて妹を助けてほしいと、泣きながら何度もお願いをしたんです」
幼いミサキには信仰についての理解もなく、ただ、助けられるかもしれない命が消えてしまうことへの漠然とした恐怖しかなかったのだろう。もしおれがその場にいたとしても、おれもきっと同じことをしたと思う。「それで、どうなったんだ?」とおれがたずねると、少しだけミサキは表情を柔らかにした。
「結果的に、妹の手術は行われました」
「どうやって、両親を説得したんだ」
「説得したのではないんです。当時の病院の先生たちが児童相談所と家庭裁判所に通告して、親権停止措置が取られたんです」
親権停止というのは、両親から虐待を受けたり育児放棄されたりした子供を守るために、一時的に親権を制限する措置のことで、ミサキの話だと病院から通告を受けた児童相談所が彼女の妹の生命の危険があるとして、緊急措置をとり、それに家庭裁判所が異例のスピードで請求を受理、即日結審して、彼女の両親の承諾を必要とせずにミサキの妹の手術が行われたということだった。
「けれど、それだけでは終わりませんでした。両親は、神様の運命に逆らって戒律を破ったとして、妹を虐待するようになったんです。そのうち、完全に育児放棄をしてしまい、最終的には妹は再び児童養護施設にひきとられ、私たち家族ともそれきりになってしまいました」
おれは自分のほんの小さな好奇心のせいでミサキを傷つけたのではないかと、少し後悔していた。しかし、ミサキはおれの思いとは真逆ににこりと笑顔を作っておれにいった。
「でも、私はそれでもあのとき妹の命を救ってくれたドクターや看護師さんに心から感謝しています。だから、私もそんなふうに誰かを助けてあげられるようになりたいって、そう思って看護師になったんです」
「そうだったんだ。それで、ミサキの両親は今は?」
「父は数年前に。母も昨年他界しました。両親はかつては、この島ではその集落にだけ自生している木を使って草木染をしていたんです。このシュシュも昔、母が染めてくれたものなんですよ」
そういってミサキは体を捻って左肩をおれのほうにむけて、まるで黄色いハイビスカスのように鮮やかな色をした髪留めに視線を落とした。
「その木で染めると、こんなに鮮やかで深い黄色に染まるので、昔はよく染物の依頼もあったんです。けれど、今は着物もすっかり着なくなりましたし、私も今は看護師になりましたから、その技術も両親の代で途絶えてしまったんですけれど……」
「なあ、看護師の仕事って、大変?」
何気なくおれがたずねたその言葉に、ミサキはすっと真顔を作って凛とした声でいった。
「現代の医療と私たちの宗教に確執があるのは確かです。だけど、私だからこそ、そういう人たちにも、終末期を自分たちが求めるかたちに少しでも近づけられるお手伝いが、医療者の立場からできると思っています。けれど、あの民間療法はそれを阻害してしまいます」
ミサキの決意に満ちたその表情は、なんだか薄っぺらのおれの人生とはまるで対極にあるようで、急におれとミサキの座席の距離がはるか遠く、海を隔てたむこうにあるような錯覚に陥っていた。おれはそれまで誰かのために、そこまで一生懸命に生きてこられただろうか。そんな自問自答を何度も繰り返していると、ミサキがそっとシフトレバーを握るおれの左手の上に彼女の右手を重ねた。
「それでも、アキオさんがいなければ、今日だって私は前に一歩踏み出すことすらできませんでした。だから、ありがとうございます」
このとき対向車がいなくて本当に良かった。ほんの数秒の間だけど、そのときのおれは海の彼方の楽園とやらにトリップしていたんだから。




