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13 それをデートというのなら

 翌朝。窓から差し込んでくる強い朝の光に目を覚ましたおれが窓の外に目をむけると、当初の予報とは真逆の青空が雲間にのぞいていた。タイマーで電源の入っていたテレビが流す朝のニュースでは、台風は進路を東にそれていったらしく、この島への上陸の心配はなくなったと伝えていた。ただ、台風から吹き込む風の影響なのか、風の強い日になるようだった。

 まあ、率直なおれの感想としては、なにもあの豪雨の中を先生のところに行く必要はなかったのかなあという、その一点につきるのだが、それでも雨がやんで気分が良くならない人なんていないだろ?

 そういうわけで、この晴れ間におれはすこしだけ爽快な気分を感じながら、事務所の扉にぶらさげてある「本日の業務は終了しました」の札を「ご用の際は、2階のカフェ あしびばへ」と書いた文言に変えて、誰にいうでもなく「よし」と呟いた。おれの毎朝の儀式だ。

 テナントビルの階段をひとつくだり、地中海のリゾート地をイメージしたというナチュラルなウッドのドアをくぐると、中は落ち着いたオフホワイトの内装。流れる音楽はまるでRPGのオープニングにでも流れていそうな、壮大でファンタジックなオーケストラ。そして、おれを迎え入れてくれるのは「いらっしゃいませー!」という無駄に元気な……


「そこで、なんでヒメコなんだよ」


 額に手をやって大きなため息をついたおれにむかって、あからさまに不機嫌な声の刃が飛んでくる。トシおばに負けないほどのヒステリックさだ。もっとも、声の質は比べ物にならないくらい若い。


「なんでとは何よ! 今日はあたしが早番なの! 文句ある?」

「文句はない。ただ出鼻をくじかれた気分なだけだ」

「何それ、ひどい。アキオのくせに」

「くせにとはそれこそ何だよ! ヒメコもマコトがいないとリードはずした犬と一緒だな! あちこちひっくり返して、キャンキャンと吠えるだけだ。だいたい、なんだこの選曲は。朝からこんな壮大なオーケストラじゃゆっくりコーヒーを楽しむ気分にならないだろう?」

「なんでよ? これだってマコトさんのクラシックのコレクションのCDから選んだのに」


 ヒメコがいうように、たしかにクラシックには違いないのだが、なんというかボリューム感というか、音のがいつものストリングスカルテットとは違って、オーケストラの圧倒的なパワーがある。とはいえ、壮大な演奏のあとには、静かなパートがやってきて、ふたたび曲が盛り上がったりと、まるで一つの物語のように音楽が構成されている。いわゆる交響詩という音楽によって絵画的描写をする技法を用いた作品だ。ある意味では、非常に完成された物語を聴いている(・・・・・・・・)ような気分になるが、いかんせん朝からでは重たすぎる。


「そうはいっても、ヒメコはこの音楽が誰のなんていう曲かも知らないんだろ?」

「それは、まあ。なんとかヤンっていう変わった名前の人のCDが目についたから流しただけだし」

「これはカラヤンが指揮をした、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『死と変容』という曲ね」


 おれとヒメコがいい争っている横から、柔らかな声が響いて、おれたちはその声のほうへと視線をむけた。そこには溶けだしそうなほどの笑顔を湛えたとびきりの美人がひとり。そして、おれはそこに座っていた女性にあっと短い驚きの声をあげていた。

 コーヒーのカップを手にしていた彼女の笑顔は、あの夕日の展望公園でおれをすっかり虜にしていたミサキのものだった。あしびばを自分のホームグラウンドだと思いこんで、すっかり油断していたおれは、ミサキに完全に素の状態の自分を見られてしまい、ありとあらゆる綻びを取り繕うことすらできず、ただただミサキとヒメコの間で、大型の回遊魚ようなスピードで目線を泳がせていた。

 いいか、ひとつ教えてやろう。もしもあんたが誰かに対して格好をつけたいのなら、いついかなるときも油断しちゃいけない。ターゲットは時と場合を選んでくれるとは限らないんだからな。

 

「へえー。お姉さん、クラシック音楽詳しいんだ?」


 もごもごと口ごもっていたおれの横から、窓際のテーブルに座っていたミサキにむかって、ヒメコは馴れなれしくたずねる。あとでマコトに電話してちゃんと接客を教えるようにコンプレをつけておいてやる。


「詳しいというほどではないけれど、まあ、好きよ。特にこんなドラマチックな展開のオーケストラは好きなの。そういえば、大澤さんも音楽をやってらしたんですよね?」


 ミサキはそういうと、目を細めたまま小首をかしげておれのほうを見た。ヒメコは、おれとミサキを交互に見たあと「ふぅん」と短く息をついて「まあ、ごゆっくりどうぞー」と棒読みでいいながらカウンターの中へとさがっていった。


「私、何か余計なことをしてしまったかしら?」

「いや、全然。ただ……」


 おれはポケットに突っ込んであった煙草に手をやろうとして、その手を引っ込めた。この場所は禁煙席だが、煙草と美女。どっちがおれにとって価値のあるものか、比べる必要もないだろう?


「ただ?」

「なんでもない。あの、ここ、座ってもいい?」

「ええ、もちろん」


 ミサキがうなずくのを確認して、おれは毎朝の煙草を諦めて彼女の座っているむかい側、窓際の禁煙席に腰をおろした。


「ここで会うのは初めてですね」とおれが切り出すと、ミサキはすっと柔らかな表情を作ってうなずいた。


「さっき、上の事務所にいったら『本日の業務は終了しました』ってでていたから、早く来すぎちゃったんだと思って、時間を潰そうとここに立ち寄ったの」


 ほんの一瞬、おれの頬が引き締まった感じがした。おれの事務所に立ち寄ったということは、ミサキからおれになにか仕事の依頼があったのだろうか?


「大澤さんはいつもここに来るんですね? なんだかさっきの会話がとても仲良しみたいだったから」

「いや。あいつとは仕事を通じて知り合っただけで、別段仲がいいわけでもなくて……」


 そんな言い訳じみたことをいっていると、おれの横から乱暴にコーヒーカップが差し出されて、カシャンと陶器のぶつかり合う音が響く。目を半目にしておれを見下しているヒメコと目が合った。


「はい。どうぞ」


 ぶっきらぼうにそういうと、ヒメコはおれの前に伝票を叩きつけるようにして、ふたたびカウンターの中にもどっていく。おれはそれを目で追いながら盛大にため息をついた。


「ごめん。なんだかみっともないところを見せたみたいで」

「いいえ」くすくすと小刻みに肩を揺らしながらミサキは笑う。「なんだか羨ましいな。あんなに素直に自分を表現できるなんて。きっとあの子は大澤さんのことが好きなのね」

「やめてくれよ。あんなひと回りも年下の子供には興味ないんだから」

「あら? 恋する乙女に対して歳のことを引き合いに出すなんてちょっと卑怯なんじゃない?」


 そういってミサキは真顔になって声の調子を硬くした。おれがミサキのいう「卑怯」という言葉に眉をしかめていると、ミサキは呆れたように首を振った。


「歳を重ねることは誰にも平等に訪れるけれど、その距離はどれだけその人が頑張っても縮めることなんてできないのよ。それを盾にして人の心を自分との距離のようにすり替えることがずるいといっているの。それこそ、あなたはあの子と向きあうことを初めから諦めているってこと。でもそれじゃあ、あの子が可哀想……」


 ミサキの視線が寂しそうに沈む。おれは彼女が叩きつけた伝票に目を落としながら、この微妙な沈黙に用意する答えを必死に探し求めていたが、おれの脳みそは相変わらず肝心なときには全く冴えてくれない。お互いに黙り込んでいると、ミサキがはたと気づいたように「ごめんなさい!」と両手で口元をおさえながら視線をあげた。


「いきなり来ておいて説教みたいに……」

「いや、全然! それよりも、なにかおれに仕事の依頼があったんじゃないの? そのためにここに来たんだろ?」


 ミサキは、あっと小さく声をあげると、胸の前で両手を合わせてふたたびあの柔らかな目元でおれに微笑んでみせた。


「忘れるところでした。大澤さんって、なんでも屋さんなんですよね」

「ああ、犯罪になることと、達成できないと思うこと以外ならなんでもやるよ」とおれの定型文が口をついて飛び出す。

「それじゃあ……」


 そういってミサキはぐっと言葉を飲み込むように、かすかに目を伏せる。そして、もう一度意を決したように真っ直ぐにおれに見つめながらいった。


「明日一日、私に時間をいただきたいんです」


 ミサキはいったい何をいっているのだろうか、と考えているおれの肩口に、真うしろから痛いほどに突き刺さる鋭い視線を感じて、おれはミサキに「とりあえず、詳しい話は事務所で伺います」といって、ほとんど口をつけていないコーヒーをそのままにして、二人分の伝票を掴んで立ち上がった。この場で彼女の依頼を受けるにはあまりにも危険が多すぎる気がした。

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