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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

感染世界

人間狩り

作者: 鱈井 元衡

人間狩り


 あの日々はもう終わった。

 あの平穏な日々はもう、どこにもない。

 喜びも、幸せも、ともに見えなくなってしまった。

 それが、終わったわけではない。

 かつて、人々は安らかな日々を奪われた。奪われ、代わりに苦しみに満ちた日々を与えられた。

 だがそれに対して、人々は熱心につとめたのだ。

 苦しみの日々を、それでもなんとか生きがいのある日々に変えるために。

 悔いのない日々にするために。

光奈(みつな)!」

 青年が小さな家へと近づいてきた。肩に銃、両手で手押し車をおしながら。

 車の上には大きな袋。得体のしれない怪物のように、もぞもぞ動いている。近く下方では、長い川が静かに流れる音。

 家の隣には、申し訳程度に畑。そこにうずくまって、土をたがやす少女の姿。

 それは青年の声を聞くと、すぐに立ち上がって彼に振り向き、

「良かった、戻ってきてくれて」

 笑顔で応える。

「感染者に襲われはしなかった?」

「大丈夫。数発だけでしとめられた」

 少年と少女はたがいに歩みを近づける。

「それ、持って帰ってきたわね?」

「ああ、幸い肉は結構残してあるから」

 この二人は、一体何を話しているのだろう。人の……肉だと。

「それはよかった」 日常的な言辞のように、少女はほっとする。

「もちろん、人間だけじゃないぞ」 自慢のごとく。

「イノシシも数匹捕まえてきた。だんだんこのあたりも動物が増えてきたらしい」

「なら、もっといいわね」

 少女は親指をもたてる。

「それ以外の収穫は?」

「銃弾がいくつか見つかった。多分あいつらが残してったんだ」

(たま)が尽きたら、大変ですからね……」

 少女が車に向かって歩き出すと同時に、少年は袋の口を開け始める。

「ほら、視ろよ。犬とか猿とか! そして――」

「――大人二人!」

 猪飼(いかい)信二(しんじ)はすでに食人(カンニバル)に抵抗を感じなくなっていた。


 戦争が終わっているのか、終わっていないのか、猪飼は知らない。

 人間を殺人鬼に変える例のウイルスに対して、人々が恐怖と猜疑を抱いた末に始まったあの戦争は、今どのようになっているのか猪飼は知らない。

 そもそも、知る必要などないことだ。日々をどう生き延びるか、それだけが彼にとって唯一の問題なのだから。

 戦争よりも、ウイルスが自分の身の回りのどこで徘徊しているか考える方が少年にとっては恐ろしかった。

 少年のウイルス――及びそれに感染した人々――に対する大きな恐怖は相当なものだった。ウイルスの存在は、獰猛な野獣やこの上ない策略と復讐心をめぐらす知能犯などよりも、よっぽど手に負えないのがウイルスだった。ウイルスは、この世界のどんなものより不気味でおぞましいのだから。

 何がそこまで猪飼を激しい感情に駆り立てるのか。

 あまりにも単純なことだ。

『感染者は理由もなく、人を殺す』

 ただそれだけであった。

 恐怖だけでなく、憎悪も感じる。ウイルスこそが、全ての元凶なのだ。あの世界を破滅に至らしめた諸悪の根源なのだから。

 ウイルスに感染した人間が憎いわけではない。むしろ、ウイルスの魔手にかかった人間には深い憐憫をささげる。できることなら、自分の命を犠牲にしても彼らをもとの姿に戻したい。喜んだり悲しんだり、怒ったり、笑ったりするようなあの姿に。

 でも、そんなことは無論ならない。

 だから彼らにできることは、彼らを食べてあげること。

 少女がそう語ったのだから、当然だ。

 

 最初猪飼は、人間の肉を食らうことに対して激しい嫌悪感を抱いていた。それが可能な池野(いけの)光奈(みつな)に、惹かれると同時にこれをうとんでいた。

 敵国の兵士を生きたまま解体しようとしていた時の、あの深い憎悪で覆われた顔を眺めた今、兵士の体に刃を突き刺したりすることに抵抗はなくなっていたが、――それにしてもだ。

「食べなさい!」

 叫ぶ光奈。

 猪飼は吐いていた。ちょうど、ふくらはぎの肉をあぶって口にしていたのだが。

 やはり、人肉など食うに値することではない。

「あなたは、それくらいの量で明日やっていけると意ってるの!?」 光奈はあまりにも厳めしい顔を猪飼に向ける。

「野良犬とか畑の作物だけじゃ毎日の体調を保つことなんてできないわ」

「分かってる! でも、人の肉なんて食えるもんじゃない」

「食うのよ!」

 猪飼は慈悲を彼らにかけるつもりなどなかった。むしろ猪飼は彼らになぜこのような慈悲を自分がかけるのか、分からなかった。

 はっきりいってその心は屈辱だった。

 あいつらの体を傷つけることにはためらいがなかった一方、あいつらを食うことには抵抗感があるなんて。

「今の内に栄養をたくさんとって、体を頑健に保たなくちゃ、感染者に襲われた時に立ち向かえない」

 光奈は箸をつかむと、むりやり人肉のかけらを猪飼の口につめこむ。

 一瞬どうしようもない不快感を、少年は少女に感じかけて――

「いい? こいつらを胃液で消化することは、こいつらへの復讐なの」

 少女の言葉が、少年の心に一つの要素を呼び戻す。

 そうだ。こいつらはみんな、鬼畜の類。許すべからざる(まむし)末裔(すえ)。消えることのない憎しみが、猪飼の頭をもたげる。

 彼は思い出していた。今までに見た、非道の数々を。

 奴らは何も言わずに、俺たちの平和な世界になだれこんできた。湧き立つ炎やがれきや銃声や無慈悲な叫び声を何度目にし、耳にしたことか。

 奴らに奪われた情景を思い出そうとすれば、ふと目がやけどを帯びそうになる。

 こいつは、感染者よりもなお罪深い存在だ。

「より強くかみなさい! こいつらの肉をより引き裂け! 粉々に!」 光奈は猪飼に顔を近づけると、眉をするどくつりあげてにらまえる。

 今俺が食っているのは、人の肉じゃない。獣の肉だ。

「いいわね。あなたが食っているのは動物の肉よ。私たちを裂き殺す獰猛な動物……」

 猪飼は光奈とその感情を共有していた。それを共有すればするほど、自分が『人間の』肉を食っているという感覚は消えていく。

 心の遠くで、誰かがささやいているようだ。

 お前がそんな風にすごんでいること自体が、お前の未熟さの証明(あかし)なんだよ。

 良心の呵責。であるとしても、こいつらは人間に似ているじゃないか。人間にそっくりな奴らを食うなんて、ちょっと気味わるいと思わないのか。

「なぜ嫌な顔をしているの? 人間が動物を狩って食べるのは当たり前じゃない」 すでに、光奈はもう一つの人肉を口にしていた。こっちはまだ、小さな肉のかたまりにまだてこずっている。

 まだ咀嚼しきれていない。いや、それがいい。こいつを……その形がとどまらないくらいにかみくだいていやる……。

 ああ、こいつらの名前は『テキ』。俺たちが食い尽くすべきものだ。

 うまい。猪飼は全力でそう思いこんだ。

『テキ』の肉がここまでうまいとは知らなかった。無意識的に、そのままこの肉を飲みこんでいた。

 今度は、人間の唇『だったもの』が口に押しこまれた。光奈は笑っていた。

 自分と意識が共有していることに喜んでいるのだろう。だがはた目から察れば――それは、猪飼が下もなく愚劣な人間へと堕ちていくのを悦んでいるようでもあった。

 いつの間にか、光奈が目の前で肉をかじっていた。ごく短い腕の骨についた、肉を。それはオレンジや赤に近い色をしていたが、小さな筋模様がついていた。まるで、触ったらざらざらしていそうな……。

「自分で食べられるようになったわね?」 光奈はどすぐろくほほえむ。

 猪飼は憎しみをふりしぼってうなずいた。猪飼は、涙を流してはいなかった。だが下手をすれば、また哭きそうだった。

 ややもすると、また人肉を食っていることの羞恥心に打たれそうだったから。

「飲みこみなさい。奴らを胃腸の中に送りこめ。消化しろ!」

 まるでヒステリーを起こしたように咆哮を上げる光奈。怒りと憎しみを越えたものがそこにはあるかのよう。

 猪飼が勢いでもう一つの肉塊を、皿からつかみ上げる間、彼女は骨をしゃぶり続けていた。

 少年は自分が、自分以外の何かとなっていくのを感じる。この異様なまで恐怖と快楽の紙一重となった気持ちは――あるいはナイフを取ってあいつらに復讐した時の感情。

「本当は骨も丸飲みしちゃうのが望ましいんだけど、残念ながら私らにはそうするだけの余裕がない。でもこいつらを土に埋めることなんて、できない」

 光奈はまさに、理性的狂気の(とりこ)であった。猪飼はその言葉を聴いた時、ようやく自分がもう肉をこれ以上食べることはできないことにきづく。

 この時、部屋の隅にはわらでできたむしろが敷かれてあり、そこに『肉の元』がおいてあった。

 生物としてのなごりさえ喪失したさまざまな色の血管と臓器と細胞の塊、もはやそれは人間と呼べ得ないだろう。

 げっぷを出し立ち上がる光奈は、わずかに残った体の一部を、一つの袋の中につめ始める。

「何をするんだ?」 人肉を食したばかりの猪飼は、激しく気が動転していた。自分の精神状態がどうなっているかも把握しかねる状態だった。ショックを感じずにはいられなかったのかも。

 またもや感じる――罪悪感、そして恥辱。

 体の中に肉がつまっている感触で、身動きもままならない。

 少女は上もなくがっかりした声で

「もうこいつらの体には何の用もない。残念だけど、頭や性器の方は全然食用にならないのね。だから他のやり方で処理しなきゃならない――だけど」

 人肉ぐらいにいかなる抵抗もない光奈は、猪飼よりもずっと多くの肉を胃に送ったはず。

 だがその様子は、明らかに猪飼よりも健康そう。

「こいつらをこの日本の土地に埋めることなんて許されない」 確かに、そうだろう。

 まだ頭(ただし脳髄の一部が食らわれていた)、足、赤々とした肋骨や腸が生える胴体の半分(正面から察て)、目などが残存している。普通に生きていれば、人間のこんな姿は一生見かけないだろう。

 それを見つめながら、不敵に笑む少女。

 この肉の破片たちに、生命としての誇りは、もうどこにもない。

 猪飼は決して心の強い人間ではない。いや誰だってこの光景には、気を失ってしまうだろう。だが湧き上がる喜禍心(シャーデンフロイデ)はかろうじて猪飼をそのような物体を視界にとどめさせていた。

「最後は焼却炉で燃やさないとね。……灰の一つも残らないように」

 光奈の最後の言葉に漂う、異様な妖艶さ。一瞬マゾヒズムのようなものを感じる。

 いやこれは、自分がそう錯覚するだけか。

「こいつらをつつんでくれないかな。気持ち悪いと思うけど」

 その物言いには、確かに変なものはない。

「ああ、分かったよ」 猪飼はうめくように答える。

「糞が出てきたら、それも燃やすわ。やっぱりあいつらなんだから」

 納得してしまう。こう感じている自分は狂気を発しているのだろうか……?

「まだ気が抜けているの?」

 いや、これは狂気なんかじゃない。れっきとした正義心だ。

「分かった、やる! やる!!」

 猪飼は人の変わったように大声で返事。

 むしろをたたんで、肉の一部をその内側に覆い隠す。

 待てよ……。まだこいつらは俺たちを(わら)ってんじゃないのか。これくらいの仕打ちじゃ足りないんじゃないのか……。

 またもやそんな疑問が差した。いや、そんなことはいい。どうなってもこいつらは劫火で焼かれるんだから……。

 二つの気持ちが猪飼の中で争いだす。だが光奈はそんな感情には苦しめられる様もなく、むしろの中の物体をそのまま、家の裏にある焼却炉で運び出した。

 すると、また別の感情が猪飼を打ちひしぐ。お前は何と愚かなことをしたんだ! 愚かどころじゃない。人間の道に外れる行いだ!

 お前は、外道の先を行く人外に過ぎん。

 黙れ、貴様の物の考え方こそが俺を腐らせるんだよ……!!

 

 

 だがその苦しみは、霧消した。

 

 

 焼却炉にむしろを投げ入れ、点火した時、光奈は狂ったように笑い出した。なかば、人間的な要素を捨てたごとき笑いだった。笑いは、とても大きい声だった。

 炎の燃えたつ渋い音が、少女の笑い声を通り抜けて少年の鼓膜にたどりつき、彼の脳内に一大衝撃を及ぼした。もうその時点で、少年は一つの感情に統一されている。

 母さん、視てよ。俺たち、こいつらに復讐してるよ。こいつらを最大限の方法でさげすみ、はずかしめ、貶め、傷つけ、ぶち壊してるよ――。

 ああ、気持ちがいい! これまでに感じたことのない、素晴らしい気分だ!

 猪飼は全身悦にひたっていた。

 

 この感覚に、意味なんてあるのか。

 

 彼女は、その日も人間を捕まえて帰ってきた。

 この時初めて、猪飼は家を出る光奈を視た。少女がいわく、動物の肉を狩りに行くつもりだった。だが彼女が家を出ようとすると、少年はその腕をつかんでいた。

 少年は恐れていた。

「私は数年間こんな生活を続けてきた。今さら恐れるものなんてないわ」

 と少女が言っても、少年は納得できない。

 少年は強く、こわがっていた。

 偶然にも手に入れられた救済(すくい)を、失ってしまうことを。

「もし、……君が『彼ら』に……」『感染者』などという言葉はたやすく言えるものじゃない。

 光奈は、ほとんど感情のない口調で答える。

「大丈夫よ。私は今まであいつらと何回も殺しあってきた。それでも生き延びてきたんだから」

 感染者が自分たちと同じ人間を襲う光景を、思い出したくはない。それをまのあたりに、少女は何回となく生き延びてきた。

 今回も大丈夫だ、とでも言うのだろうか?

 猪飼の不安は消えない。

「でも! それでも、もしそうだったら!」

「その時は、あなたが代わりに生き延びなさい!!」

 それは少年にとっていささかきつい口調だった。

 失うことを恐れているのに、失ったらおぎなえばいい、とでも言わんばかりの光奈の言葉は、猪飼には辛い。残酷なまでに簡潔な表現なのだ。

 光奈は自分の命が羽毛のごとく軽いことを認識している。もう、人間の生命が何よりも特別視される世界の住人ではない。

 途方に暮れたような表情となった少年に、だが少女は少し顔をゆるめる。

「でも、まだあなたは火器の扱いにも慣れていないし、闘うこともできやしない。まだ足手まといなのよ。だから私が今のところあなたを、それができるように鍛えてやる。――そんな時が来るのはまだずっと先でしょうし」

 その何かを思わせる様子に、猪飼はわずかな間考え込んでしまった。光奈は、自分が死ぬことを少なからず予期しているような口ぶりだ。いや、まるでそれを望んでいるかのようにさえ思えた。

「私はもう行く。もし『あいつら』が近づいて来たら銃で一発撃てばいい。あと手榴弾とかも二階にあるし」

「本当に、生きて帰ってきてくれるか?」

 光奈が何を考えているのか、猪飼は知りかねた。この少女がただよわせる厭世的な気配は、一体なんなんだろう。

「なぜあなたがそれを気にかけるの? まず自分の身の安全を考えるべきでしょ」 光奈は笑った。不可解な笑いだった。

「この世界はもう壊れた。壊れた世界で正しく生きることは正しくない」

 不愛想な声で返事をして、彼女は疑問に答えることはしなかった。そのまま家の外に出ていってしまい、振り返ることもなく。

 一人になった時、猪飼はただ光奈が生きて帰ってほしいと、願っていた。

 もしここで彼女がいなければ、自分は野垂れ死にしてしまう。まだ自分は、この世界で生きたい。今はもうこんな浅ましい世界になってしまったけれど、まだ生きたい。少なくとも感染者に襲われて死ぬようなまねは見たくない。

 しかし心のどこかで、投げやりな感情もあった。

 今さら自分に生きている意味があるのだろうか。今はもう、何をしてもこの世界に対して意義を見出し得ないのに。なぜ、生きる必要がある。

 大体、そんなことにこだわっていても何の利益もない。絶望しかないから、そこから目を隠そうとしているだけじゃないか。

 はっとして、猪飼は頭をたたいた。

 だめだ。僕は人間なんだ。人間として生き、死ななくてはならない。生きる意味が見つからないといって、人間であることをやめてはならない。それが僕の生き方にかかっている……!

 

 その時猪飼は、驚きを隠せなかった。

 彼が少し前までに抱いていた不安感をけし飛ばすほど、それは強烈であった。

「ただいま」 歩く音を聞いた瞬間、猪飼は家を出て光奈が帰ってきたのを喜ぼうとした。

 だがその気持ちはもう消えていた。

 光奈は、ねじれたりくねったりする袋を引きずっている。

「それは、一体――」

「人間だって、分からないのね」 不思議がった声。

 そこに秘められた意味を理解する時間も、猪飼には与えられなかった。

 ためらわず、袋の口をあける光奈。

 袋の中から出てきたのは、赤い服を着て、いくつもの縄でしばられた一人の女性。身なりからして、普通の人間『であった』ようだ。

 それは、目を横に向けて、しかめ面を浮かべていた。猪飼には、その顔がまるで今の状況を少しばかり不快に感じているように見えた。

 正気だったら、これ程度の表情ではない。

「……感染者なんだな」

「銃を向けても反応がなかった。発砲しても何を言わなかったしね。実際、『かかってた』」

「この……(猪飼は大いに迷った)人を殺しはしなかったのか」

「殺すことはできない。だって私たちの同類じゃない」

 光奈は憐憫(あわれみ)に満ちた声で叫ぶ。

「いや……おかしいだろ」 理由は明確。

 殺しもせず、ここに連れてきた。

 感染者だというのに。

「どうして……ここに」

「とむらいよ。この人の魂を、とむらうために」

 彼女は異常だ。直感でそう判断した。

「とむらうって……何をするんだ」

 次の言葉に、猪飼は驚きを隠せなかった。

 心細そうな声で、

「食べる。食べてあげなきゃだめ」

 女は、身をよじらせた。

「食べる!? 何でそんなことをするんだ!」 同じ国民である人間を、なぜ食べなければならぬ?

 光奈は女の顔をのぞきこんだ。女は光奈の視線に気づくと、口を大きくひらけてかみつくような様子を見せる。

「もし彼女を捕えないでほうっておいたら、きっとまだ『感染』していない人を殺していたに違いない。けれど、結局同じ日本人を私たちが殺すのは忍びない。かといって抵抗しないこともできない。だから捕まえる。捕まえて『とむらう』……」

「理解できない……異常だ」 猪飼はつぶやいた。

 人間を食べてはずかしめるのは理解できる、だが人間を食って弔うとは何事だ。

「人間を食って殺すのは、そいつが敵であることに限って許されることだ」

 光奈はその時、優しげな――あるいは心ぼそげな声で、答えた。

「確かに、『あいつら』に対してはそうでしょうね。でも、『この人たち』にとっては違う」

 分かってほしい、と懇願する目で猪飼を見つめる。

「もし私たちがこの人を殺したままほうっておいたら、体はそのまま腐りはて、肉や骨の欠片をカラスや犬がしゃぶっているでしょう。そんな光景を想像できる?」

「そんなの……」 少年は絶句した。光奈はこの点、価値観を根元(ねもと)からたがえて生きている。

「できない! そんなおぞましい光景、現出させるわけにはいかない! 人間が何もわからないまま、ウイルスに殺され、それまた動物に殺されるなんて、嫌!」

 猪飼は返事に困った。彼女自身、この矛盾に気づいていないのかどうか。女は光奈の叫びなど聞き流しているようだ。

 なおも何かを強く願う光奈の瞳におされ、少年はひかえめにこう言う。

「……前、僕に言ったはずだろ。ウイルスに感染した時点で、そいつは人間じゃないって」

 あの時の光奈が、芝居であったはずなんて。

 だが光奈は、その考えを曲げることはなく。

「確かに、実際はそうよ。でもそれじゃ納得できないの」

 一体、彼女は何を考えているのだ。少女はわずかな間、得体のしれない物体として少年の目に映っていた。

「もう彼らは二度と戻らない。私たちが何度叫んでも、彼らは決して帰ってこない」

 女は口を大きく広げる。光奈をかみつかんとする勢いで、顔を上に突きだそうとするが、何にもなりはしなかった。

「もう死んでいるのと同じ状態。かつてのあの人たちとは違う。でも、もともとは私たちと同じ人間だったのよ! 笑ったり、怒ったり、泣いたりしたのよ! でも彼らはウイルスによって全てを奪われてしまった……奪われて、全く違うものに姿を変えられてしまった……。今度は私たちをウイルスに感染させようと躍起になる。完全にウイルスの手先になっている」

 そう、奴らはウイルスの手先だ。

 だが、なぜ食わなければならないのだろう。

 光奈は目をつむった。目をつむって、慙愧に満ちた表情でそこに立ちすくんだ。

 けれども、少年はこれの感情を理解できない。心の中に浮かぶのは、ただ意味不明な、後味の悪さだけ……。

「この人は同じ日本人だ。殺すだけでいいんだ。殺して食べるなんて、もっとひどい!」

 奴らは人間じゃない。鬼畜の類。奴らを食うのは動物の肉をくらうことと大差ない。

 この人は人間だ。人間が人間を食うなんて、あるべき道から外れている。

「違う。彼らを殺して食わないのは、彼らを殺して食うよりもずっと重い罪なのよ……」 光奈の答えは、またもや予想外。

「同じ、私たち日本人だからこそ、食べなければならない」

「あんた、おかしいんじゃないのか?」 光奈に対し、激しい恐怖心を抱きつつ。

 光奈は静かに問うた。

「……だったら、敵国人を食うのを、なぜためらわなかったの?」

 当り前だろ、そんなの。そうじゃないのがおかしい。

「それが奴らに対する最高の復讐だからだよ。奴らは俺たちの腹を満たしてくれる、極上の食材なんだ」 猪飼はまさにそうであると信じていた。

 だが、この光奈の言葉は何であろうか。

「そう、それでいいの。私たちは憎むべき敵を食らうことで奴らに最大の屈辱を与える。そして同胞の人間を食べることで、彼らを弔う」 光奈の言葉が本意かどうか、猪飼は知りかねた。

「それはただの狂気だ」

「違う。今この人を食べなければ、この人は動物に食べられることになってしまう」

 光奈は本気でそれを望んでいるかのようだった。だが、猪飼は決してそんなことを望みはしない。

 永遠に。何があろうと。

「お前がしようとしていることはただの共食いだ。何の意味もない」

 ――ではあいつらを食うことは何だ? 一つの思念が、信二の頭にさした。

 いや、何を考えているんだ俺は。それがいいことなんだよ。……いいことなんだ。

 光奈は黙っていた。猪飼をまるで道理に外れている人物とみなしているかのように、黙って猪飼を見つめていた。

「日本人が日本人を食うことは恕されるのか」

 猪飼は理解しあえない激情をなんとか押し隠して、

「そうよ」

 光奈は猪飼の偏屈な精神に憤って、

「なぜだ!?」

「考えなさい! この人はウイルスに操られている。自分がしたいとも思わないことを、無理やりさせられているのよ。その苦しみがどれほどか分かる!?」

 光奈のしゃべり声に、歯の合わさる音が重複。

「野に棄てられ、鳥や獣についばまれ、察るに堪えない姿になっていく――そこに人間としての尊厳はない。そんな姿を私は視ることができない。

 そうなる前に、あいつらがこの人を手にかけるかもしれない! それはもっと恐ろしいわ。想像するさえおぞましい。同じ人間がそうなるのを、なぜ止めるな、と言うの?」

 なぞこんなことを言い争わなければならないんだろう。

 虚しい論争に反駁する自分に、不可解な倦怠感がさす。猪飼の頭に湧き上がるいらだちがそれをかき消す。

「違う、そんなことじゃない! なんで、食べることまでしなきゃだめだ? 弔うにも他にやり方があるはずだ、墓を造ってあげるとか……」

 それさえも、光奈はがえんじず。

「墓? つまり体を大地に埋めろってこと? そうやって誰にも看取られないまま土の中で腐っていくの? 何も残さずに?」 少女は、侮辱を感じたかのごとく顔をしかめた。

「それなら、野ざらしになることと何も変わらないじゃない! 私たちは彼らに有益な方法で葬らなきゃならないのよ。彼らに生きててよかったって思わせなきゃならないのよ。そのために私たちのできるのが、みんなを食べてあげること!!」

 狂ってる――直感でそう覚える。

 しかし光奈は理性的な表情であった。あくまでもそれが理性的に考え、最善であると信じているらしかった。

「彼らを食べてあげたら、私は生き残っている人たちにこう言ってあげるのよ。大丈夫よ、あの人たちの魂は無駄になってない。あの人たちの命は私たちの命になって生きている。一体になっているのよ。彼らの命が私たちの中に含まれている……あなたたちの家族の力を、私たちが受け継いでいる……」

 いつの間にか穏やかな声になり、遠くを眺めていた。

 猪飼はもう、こらえきれない。

「間違っているぞ。そんなの」

 再び現実にまきもどされ、光奈は再び、怒りを発した。

「あなたが、間違っている!」

 その時、ほとんど無視されていた女の苦しげなうめき声。

「うるるぅ! うっ……るるぅ!」

 気づくと、縄のはち切れそうな音さえも、小さながら聞こえてきた。

 しまった。このままでは、俺たちに――

 猪飼が危惧した瞬間に

「ごめん、なさい」

 光奈はナイフを抜き放ち、女ののど元に突き刺していた。

 それは、殺しているのと、同じじゃないのか。

 猪飼は違和感を感じたが、言い出すことはできなかった。

 女は何も言わない。そのまま黙りこんで、静かな状態に戻る。

 苦しいとさえ、感じてはいまい。今二人が目にしている、ウイルスに侵された人間は、ウイルスそのものだった。

 その肉体の中で抑圧されている、善良な――はずの――魂、など存在するのか?

 いやそもそも……こんな世の中で昔みたいな物の考え方に束縛されている僕は何なんだ?

「どうするんだ」

 猪飼は虚脱感に沈みながら、光奈に問うた。

 先ほど自分が放った言葉が自分の本意なのか、確かめようとしながら。

「さっき言ったでしょ? 食べてあげるのよ」

 もはやこれ以上、抗議しても意味はない。

「あなたは、もうこの人たちによく似てた『何か』を食ってるから、今さら抵抗は感じないはず」

 それが当然であるかのような、光奈の口調。

 猪飼は、この少女は頭がおかしいと確信していた。一方では、その確信にささやかな罪悪感を抱きながら――不快そうに彼は頭を下げる。

 

 光奈は家の二階で女の体をバラバラにした。下でこれをやると、血なまぐさいにおいが部屋中にただようというのが、その理由。

 猪飼はその光景に、不思議なほど恐怖を感じなかった。あるのだ、ただしようのないけだるさだけ。

 以前からこのような地獄には慣れていたのだ。思えば不思議――蟻やとんぼの体をしいたげていた人間が、なぜ今さら人間がそんな風にねじまげられるのを見て気を失うべきだろう?

 そんなことをしてしまった人間に、人間のしいたげられた姿におののく権利があるのか。

 猪飼は人間がごみのように扱われているのを何度も目にしてしまった。兵士によって民間人が虐殺されていく光景など、物の数ではない。それどころか、本来なら善良なはずの人々が殺しや盗みに走り、心を屍のようにしていく様だって観てきた。それに、こうだって意う。

 ……ウイルスにかかった人間だって同じことだ。

 だから女を十全には、哀れには思ってやれない。心の中で、必ず何かがその感情を阻害する。

「夜になったら、十分に召し上げてあげますからね」

 光奈はナイフを揮いながらしかと語る。その声には弱きものをいつくしむ慈悲ばかりがある。

 彼女は狂っているはずだ。それなのに、あの理性的な態度と来たら何だ。

 黒ずんだ、太い形状の刃が人間の肉を分断し、二つの存在に変化させる音を聴いて、猪飼は気味の悪さを感じた。

 僕は、彼女を止めるべきか? 彼女を後ろから殺してでも?

 何を愚問を。

『それ』はもう生きていない――精神的にも肉体的にも――はずなのに?

 結局。

 結局猪飼は感染者の肉を食べた。最初、兵士の肉を食べた時のおぞましい嫌悪感がふたたびよみがえり、食うことをやめようとはした。

 だが、ふと気づいたのだ。

 自分は、光奈に何を望んでいるのだ。

 光奈は僕を救ってくれた。僕を助けてくれて、しかも今は僕を生き延ばしてくれる。僕は彼女に感謝しなければならない。

 それなのに、僕は今、彼女の言うことに反対し、彼女を嫌おうとさえしている。これは、許されないことではないのか。

 数時間が経った。

 目の前で、光奈がみそ汁にひたされた人肉を食っている。

 光奈は何の不快感も感じていない。何のためらいもない。彼女には決断力がある……使命感がある……それが正しいかはともかくとして、正しいと信じて『これ』をやっている。

「何を、黙っているの?」

「君は……」

 猪飼は、ためらいながらも、こう尋ねる。

「人を食べることに、恐さを感じないのか?」

 同時に猪飼は、もう一つ不可解な感じに襲われていた。

 もし光奈が感染者のようになって今、自分に手をかけたとしても、自分はもしかしたら抵抗しないかもしれない。理由は解しかねるが、そのような気がしてしまった。

「恐くないわ。だってこれは、当然の行為(おこない)じゃない」 光奈が猪飼をそしっているのは明らかだ。

「ああ、そうだよな……」

 同じ日本人であれば、食うことは許されない。許されるのは、『奴ら』だけだ。

「残さずに食べるのよ。それが彼らのためになるから」

 第三者に対して言っているみたいだ。そして食われるのは、僕自身ではないのか。

 ……なぜ僕は、そのように感じている?

「それができないあなたには、優しさがない」

 この言葉も、恐らくは本心だ。

 その言葉に少しからず傷つきながらも、やはり猪飼はこのような思いに囚われる。

 そうなることを自発的に考え、なぜ恐れていないのだろうか。この可能性が全くないはずがないのに。

「分かった、食べるよ」 光奈をこれ以上不快にさせたくはない。

「口先じゃないのね?」 もちろん、彼女のやっていることが間違いだと分かってはいる。全体とは違う、その一部が。

 であるにしても、この数年間、一人で生き延びてきたこの少女だ。

 その行為に何らかの誤りがあるわけじゃないはず。何か意図(かんがえ)があってのことだ。

「今の」

 こんなことに悩んでいるひまはない。明日、生きれるかどうかさえ不確定だというのに。

「結局、生きるためだからな」と猪飼は言い切った。

 それからは自分の食器に入っている肉を、激しく口の中にかきこんだ。

 これが正しいかどうかなんて関係ない。今、こんなことで物思いにふけっているひまなどないんだよ。

「そう、生きるためよ。人間として」

 彼女の言っていることは正しい、彼女のしていることは正しい――と心の中で反復。

 これは人肉じゃない。他の動物の肉なんだよ。そう自分自身をだましこもうともした。

 心を鬼に、意を決して肉の欠片を口の奥にのみこむ。

「吐かないようにね」

 今食っているのが人間でないとするなら、これは一体何なんだ。

 他に多くの雑念を交えながら、もうこれが『普通の動物』の肉であるということばかり、一心不乱に念じていた。けれどやはり湧き上がる呵責の念で、どうにかなりそうだった。

 再びおそいくる雑念。

 人間なら、これを食べちゃいけないんだ。今すぐ吐かなきゃならないんだ。それが人間たるものの使命じゃないのか。

 そう考えていても、猪飼はなぜか、肉を食らうことをやめられない。

 なぜ、それでも食べ続けている? こんなにも嫌な気持ちになっているのに?

「その調子よ」 光奈には顔も向けず、食らい続けた。

 すると、こんな感情も湧いてくる。

 人間だろうが人間じゃなかろうが関係ない。それを言い争う時代じゃない。

 すると、本当にそう思えるようになってきた。

 大体、なぜ食べている肉を人間だと思いこんだりするのだろう。

 肉だったら、人間じゃないんだ。動物でもない。そこに理由を考えるなど、狂気の沙汰でしかない。

 

 それでいいはずがない。

 猪飼はやはり、光奈の狂的な思想の受け入れを拒否した。

 この子が正しいなんて、とても思えない。

 猪飼は、またもや彼女を狂っていると考えるようになった。彼女の全ては間違っているのだと。

 今すぐ、彼女から逃げなければならない。そうでなければ、僕は本当におかしくなってしまう。

 けれど、待てよ。

 こんな世界で、そんな風に悩んでいることがおかしいのかもしれない。悩んでたら、本当におかしくなってしまうのかもしれない。光奈が言ったように。

 もしかしたら狂っているのは、僕の方なのではないか。

 僕が狂っている――いやそんなことがあってたまるか! 狂っているのは彼女の方だ、彼女が狂っている!

 ……と平然たる精神で決めつける僕は正しいのか? 僕が今、正しいと思っているものは本当に正しいのか? そもそも正しいって何だ……!?

 あの時、なぜ人肉を食べてしまったのだ。自分は彼女にあらがってでも、肉を食うべきじゃなかった。あんなことをしてしまった僕は人間以外の何か、道を踏み外した鬼畜……、

 思惟する猪飼に光奈は渡した。

 手の方を視ると、ひらの上に横たわる一丁の銃。

 動揺する少年に、少女の言いけらく、

「今日は、あなたにも狩りに行ってもらうことにする」

 猪飼は少しまごついたように顔をしかめた。

「けど、僕は……」 僕に人を狩れと言うのだろうか。同じ人間を狩り、食えと言うのだろうか。

 そんなことを、また僕にしろと言うのか。

 ここで光奈は言った。

「あなたは、人を撃つのが恐いのね?」

「ああ……そうだ」 うそをつくのは良くない。

「大丈夫よ。人間を捕まえるのは動物を狩るより珍しいから」

 どこか無念そうに。当然だ、彼女は人間を狩ることを本分にしていたのだから。

「動物なら、まだいいんだけど」

「だったら、あなたはそいつを狩ればいい」 光奈は腕を組む。

「動物なら、もう少し嫌だと思う気持ちがなくなるんでしょうね」

「そうだな」

 それ以外に答える用がない。

「これって――弾、入ってるのか?」 すかさず、話題を変えようとした。

「入ってない。その方法は後で教えてあげる。私はもう一つ違うのを持ってくし」

 しかれどもいまだ晴れない猪飼の顔を視て、こう加える。

「単に動物を狩りに行くだけじゃない。弾薬を取りにも行く」

 どちらにせよ、命をかけてやる行為に変わりはない。

「さあ、行くわよ」

 二人は外へ出て、山のふもとの方向へと歩きだした。猪飼は家の中ではない空気を吸う中で、この感覚が相当久しぶりなものではないか、と感じ始めていた。

 同時に、脳髄に寄ってこう考える。

 人間を狩る……。

 以前女の肉を食った時、猪飼はあまり罪悪感を覚えていなかった。あの時の感情のほとんどが、人間を食らうことに対するおぞましさだった。彼女を食ってしまうことへの呵責などではなく。

 もしかしたらそれは、ウイルスこそが彼らの正体だから――と意うかもしれない。

 同じ人間? ウイルス? おかしくはないか。

 なぜ、外見からそれを判断しようというのだろうか。

 ウイルスにかかった人間と敵兵に何かの違いがあるというのだろうか?

 はっとした。時を同じくして、『獣の肉』を食らった時と『人間の肉』を食った時の感覚が挟撃。

 どっちも同じ状況であるはずだ。それなのに、感覚は全く違う。

 あの時は快楽しか感じなかった。逆にその時は不快感に激しくうちのめされた。それを万物に対する無関心によってのりきったものだ。

 だが結局、あの獣どももウイルスにかかった民間人も、ひょっとして同類じゃないのか?

 いつの間にか、それが口に出ていたらしい。

「何を……、なんで僕は……」

 馬鹿げている。今さらなぜ、えせ慈悲を起こそうというのだろう。

 奴らにこんな感情を見せる意味はない。

「そうだ、違う……そんな考えは」

「違う。同じ日本人を食ってはならないという考えは違う」 猪飼の心理を知ってか知らずか、光奈はあいづちをうつ。

「私は彼らを、とむらうために食ってあげるのよ。日本中にいる、ウイルスにかかった人たちを、私たちの手で食いつくさなくてはならない!」

 一度あふれた思念の奔流は、もれ出すともう止めることはできなかった。

 この言葉は……正しい。いや間違っている。

 人間を食うなんて、まちがってる。

 頭が急に重くなってきた。頭が全身を酷使しているような感じだ。

 正しかったら、僕はこの少女同様……おかしい人間だ。この少女は狂っている。今すぐにげなくてはならない。

 けど逃げたらどうするんだ……野垂れ死にするだけじゃないのか。もうここ以外のどこにも、僕の居場所はのこされていない。それにこの子は僕の恩人ではないか。それなのにこんな……。

 目の前がやけに陰っている。

 光奈の考え方を受け入れなければ、この悩みからは決して逃げ去ることができない。光奈と同じ考えを持たなければ、頭が爆発しそうではないか……。そんなことはだめだ! そうすれば僕は僕でなくなる! 僕じゃない僕がこの僕を支配する! 僕は死んでしまう!

「ここらへんは、侵略軍の前哨基地がおかれてたのよ」

 光奈は振り返りもせずにつぶやく。

「規模はそれほど大きくなくて、あくまでとりでとしての役割しかなかったみたい。奴らの中に『発症』した奴がいて、そいつが自爆したせいでその基地は破壊されたらしいわ(彼の行為をあざわらっているようだった)。でもそこには、かなりの量の弾や武器が残っていて、たまにそこまで出かけていくのよ」

 この少女は狂っている、狂っているにも関わらず正気だ。一体何者なんだ。

 じゃあ、今この悩みに頭が狂いそうになっている僕は、正気なのか? もしかしたらすべての感染者を食ってもいいという考えに支配されかけている僕は、それに心をゆだねるべきか?

 だがその時、僕は狂気の道を走るのではないのか? 仮にそうなったとしても、また元の道に引き返しそうになるのではないのか?

 結局僕は、崩壊するしかないのか?

 心臓が疾く脈を打つ。世界の万物が無価値なものに映ってくる。自分の存在意味が少しずつ失われていく。

 そうやって悩むことへの馬鹿馬鹿しささえも感じられてきた。何を考えているんだ? この世界でまだ正しく生きようとしているのか? そんなことで苦しむのなら、いっそ感情なんてない方がましだ!

 違う。気持ちを失ったら人間じゃない。人間でなかったら本当に生きる意味が失われてしまう――まただ。最初に感じた気持ちが蘇ってきたじゃないか。

 苦しみがさらに増幅しそうだ。

 ああ、こいつのせいで、僕はこんなにも苦しんでいる。この苦しみが、その根源を絶つことでしか解決され得ないとするなら。

 もし全ての狂気が、この子によってもたらされたとするなら。

 ――こうするしかない。

 猪飼は、無防備な少女の背中に狙いをさだめた。

 今すぐにこの女を殺して……ここを逃げる。

 その後どうすればいい? そんなの知るか! 僕は正常な人間として死ぬんだ!

 こんな理性の服をまとった狂女にたぶらかされてたまるか……。

 しかし、覚悟が決まらない。引き金を押そうとしても、何かが邪魔をする。

 それがおかしい。

「この世界はもう壊れた。壊れた世界で正しく生きることは正しくない」

 光奈の言葉が猪飼の葛藤を全否定する。それには反論ができなかった。

 なぜか、それが正しい判断のように思えたから――

「あなたは……誰を狙っているの?」

 くるり、と振り返って光奈は猪飼を視る。その時、彼女の体は銃口から外れていた。

「僕は……どっちだ……」

 少年はただただ憮然。

「まだ、悩んでいるの?」

 頭をかしげる少女。理解できない、とでも言わんばかりの口ぶりだ。

「そういう奴は、感染者以上に手に負えない。はっきり言って……彼ら以上にたちが悪いわよ」

 何かが邪魔をして、猪飼は光奈に銃を向けられない。それは罪悪感か、あるいは親愛からくるのか。

 判別がつかない。

「こんなところで悩んでいても、何にもならない。それどころかただの徒労よ。

 ……? 誰かこっちに来た」

 少年はおそるおそる光奈の方向に目を向けた。いつの間にか、ここが危険な場所であることを忘れていた。

 何を考えているんだ、僕は。命がかかっているんだぞ。

「止まりなさい!」

 一人の幼女が、二人の方に歩いてきた。かなり年齢の低そうな。

 その時感じた恐怖心は、猪飼が先ほどの精神的迷走を、一気に過去のものとしていくに足るものだった。ウイルスに感染した人間は、外見からは区別がつかない。

「もう一度繰り返す。止まれ!!」 今度はより鋭い声で。

 だが、幼女はそんなもの聞かなかった。そのまま銃を向ける光奈に向かって、音もなく近づき続ける。

 幼女は非常に微妙な顔つきをしていた。声をあげて笑い出す、その瞬間の形に口元はなっていた。

 だが、眉の方を視ると、何かにむっとしてあまり上機嫌ではない感じなのだ。その表情を二人に向けていた。

 しかも、その服にはいくつか、血がついていたのだ。胸のあたりで帯のように長く、薄い血痕までもが次第に分かってくる。片手には、大きな鎌。

 つまり――

「こいつ……、感染者だ!!」 なかば無意識的に、猪飼は叫んだ。

 この子が『発症』した時、一体何があったのだろうか。

 けれど、それを想像する時間なんてあるわけもなく。

 少女は声もなく飛びかかって、銃を向ける光奈の方に飛びかかる。

「光奈!」

 少女は、幼女の襲撃に一瞬ためらったようだ。それがよくなかった。

 幼女は、光奈の脇腹をがしりとつかんだ。恐らくは、はなはだ強い力で。狼狽する猪飼の目の前で、激痛からか顔をゆがめる光奈。

 殺さなきゃ。本能的にそう考えた。

 だが、実行に移すことはできなかった。ああなるのではないか、と意ったからだ。

「ううう……!!」 光奈は、鎌を握る手をおさえ幼女の腹をひじで打つ。

 二回ほど食らわせたが、しかし幼女は何も苦痛には考えていないようだった。

 感染者は、時間が経てばたつほど肉体が強靭になっていく。確かそう聞いたような。

 その後一瞬で、猪飼は現実に立ち返る。

「撃て! こいつを……撃って……!」

 光奈は叫んだ。

 だめだ。そんなことはできない。そんなことをすれば、僕はあいつらのようになっちまうんじゃないのか。僕を無理やり、そこまで貶めようってのか。

 いや、できない。

 光奈はなおも幼女の力にあらがった。だが幼女のそれは彼女より強く、気づくと光奈の腕はあるべき方向の逆に折れ曲がりそうになっていた。

「いいぃ……。いい」 食いしばる口から、幼女の息が漏れ出た。

 目の前にいる感染者がいる。こいつは、早く殺さなくちゃならない。

 だめだ。同じ日本人を殺すなんてできない。

 幼女は光奈にばかり興味があるらしく、猪飼には目も向けない。

 その猪飼に対して光奈は大声で指図。

「私なんかに構わないで! 逃げて!!」

 猪飼は光奈の言葉に従うべきかいなか、迷った。

 もし光奈を逃げて、見殺しにすれば――殺せば、この迷いからは逃げられるだろう。

 もしそうすれば、けど、生きていくすべを見失うのでは?

 すでに幼女がこちらを凝視している。猪飼の顔にその、視線をそそいでいる。

 笑いの中に、ちょっとした怪しみをこめて。

 顔はそのまま光奈を蹴り上げ、地上に倒すと、ゆくりかに猪飼の元に。

 こいつは何も考えてなんかいない。考えずに人を殺している。そう気づいた時、猪飼の心から一瞬だけ迷いが消し飛ぶ。

 猪飼は判読できない咆哮を挙げて、幼女の顔に一発。

 その弾は幼女の片目に命中した。血が噴き飛ぶ。

 普通の人間ならその場で倒れこんでいるはずだ。だが、そうはならなかった。

 いや幼女はのけぞって崩れるどころか、頭をわずかに動かしただけで、銃弾をもろに受け止めたのである。

 そして、表情は相変わらず奇妙な微笑だった。頭が半分血まみれになっても、幼女はいささかも恨みの感情を表してはいない。

 むしろ、

 ねえねえ、一体何をしたの……?

 まるで、そう言っているみたいだ。

 少年は本当に、気がおかしくなりそうだった。渾沌とした精神に支配されて、地上に腰を下ろした。

 こいつは、どっちなんだ?

 幼女の首に、鋭い刃が生えた。生き物の一部としては、あまりにも不自然な刃だった。

「信二、大丈夫!?」

 気づくと、光奈が幼女の背後から叫んでいた。あまりに壮絶な声をもって。

 猪飼の心にまず芽生えたのは、彼女に対する感謝ではなかった。

 いや、失望だとさえ言ってもいい。あんたが、殺したのか。

 もともとは無垢だったはずの、この子を。

 まただ。こんな時になっても、まだ感染者を人間だと意ってる。

 実に無意味な偽善だ。光奈にしてもこの子にしても、普通じゃないことでは同じなのに。

 だが幼女は、まだ力尽きない。

 歯を食いしばって、首に刺さったナイフから脱け出そうとする。

 その小さな体からは想像できないほど、脚を大きく前に踏みしめ、それを引き抜こうとする。

 一体何が、彼女をそうさせるのだ。

 むなしい疑問だと分かっていても、まだ猪飼は考えずにはいられなかった。

 それを悩む僕は、あまりに矛盾に満ちすぎているのに。

 幼女は数歩前の地点で、少年に迫っている。

 結局僕は何がしたいんだ。何を正しいと思いこみたいんだ。


「ふっきれたのね」

 光奈が安心した様子で。

 それは、不思議な感覚だった。以前から、人間を殺したら大きな罪悪感にさいなまれると意っていた。心に深い傷を刻み、ずっとそれに苦しめられると考えていた。

 実際は、そうならなかった。

 猪飼は、何も感じていなかった。今、何かを殺したという実感のほかは。

 こうするしかなかった。

 強く思ったわけではないが、そうかもしれないという想念が心の中に拡散していく。

 それまでの自分が、急激に力を失い、崩壊する。

 幼女はもう動かなかった。腹が血で汚れている。服の上に広く広がって、赤くこれを覆い隠している。

 僕がやったってことか。なぜそう認識できるのか、自分でもよく分からなかった。

 僕がやった。やったから僕は罪の意識にさいなまれる。

 そのために心を病み、人間でなくなっていくのなら、それは感染者と同じではないのか。

 いや、感染者よりもっとひどいかもしれない。

 猪飼は開き直った気持ちで彼女の姿を冷やかに視ていた。ふとじうも感じた。

 心の中でどれほど正論をこねくり回そうが、現実なんて変わらない。人間しか食べるものがなかったら、人間を食べるべきであって、誰かに殺されそうだったら、彼を殺す他ないではないか。

「ねえ、聴いているの?」

 光奈が猪飼の方に歩きだしていく。

 猪飼は光奈に対して、どのように反応していいか分からなかった。それに対する思考は、あまりに茫漠としていた。

 ただ、こうとは感じていたのである。

 これはもう存在の否定しがたい事実だ。もう消すことなんてできやしない。悪いことなのか善いことなのかは区別がつかないけど、僕がこれをやったという事実のみは確実だ。

 それ以上のことを、なぜ考える必要がある。

 人が一人死んだだけだ。もうそれでいいじゃないか。

「僕が……やったんだな?」

 勇気を振り絞ってそう答える。

「そう。あなたが殺した」

 どうにも表情の読み取れぬ顔だった。

「本当は生け捕りにしなけりゃならなかった。長いこと硬直させたら、食うに堪えなくなるのに」

 一瞬、猪飼は光奈の言葉の意味合いに気がつかなかった。気がついた時、少女がまたもや人外の獣のように見えてきそうだった。もう一度あの懊悩の嵐が荒れ狂うかに見えた。

 けれど今しがた感じた虚無感が、そのさいなみをはねのけてしまった。

 無意味なんだよ、こんな悩み。

 ……その直後には、もうひしひしと近づいてきた感覚に目を向けることはなく。

 受け入れることを理性の上において、何もかもあるがままに任せるなんてことはすまい。

 もうそんな言葉に惑わされることはない。その言葉に人間がいだくはずの恐怖に惑わされはしない。

「へえ、そうか……」

 今一瞬、僕は何も考えていなかった。そして、一瞬解放されていた――もろもろの苦しみから。

 考えることによって苦しめられ続けていた。

 それを今、捨て去った。捨て去ることができた。

「私たちはとても罪の深い存在。今日もどこかで、誰かが死ぬのを、助けられもせずに見捨てている」

 考えることで、僕は今まで苦しんでいたんだ。自分のやっていることが正しいかどうか、考えていたからあんなに苦しんだのだ……。

「それに対して、いつも罪悪感を感じているのに、たまにふっと忘れちゃうことがある。それこそ、私たちが罪人である証拠」

 彼女は狂ってなんかいない。自分のやっていることを真理であり日常だと意って、おかしいとは少しも考えていないのだから。

 僕は違う。自分が置かれている状況に迷い、悩み、内側から脳を侵食されている感覚に侵されていた。もしあのまま行けば、僕は本当に……。

「私たちはその罪から逃れることなんてできない。けれどその罪をより小さくしていくことならできる」

「だから、みんなを食いつくしてあげるんだな?」 考えない。考えない。

 これが悪いことか善いことなんて関係がない。ただそういう事実があるだけ。

 その事実に対して適応さえすればいい。

「その通り。意外と分かってるじゃない」

 あの時、嫌でも『人間』の肉を食らわされたときは、どうすればいいか分かってなかった。自分のつまらない認識に身を置いて、勝手に自分を破滅の危機にさらしていた。

 今有る認識に身を置いたってもう意味はないんだ。この世界はもう理解に堪えるものではないから。

 この世界は、全くもって分からない。

 むしろ――分からないなら、考えないでいよう。

「君のやってることは、まあ正しいと思うさ」 思考の勢いに任せて、そう答えた。

 後ろめたさは依然として残る。これが本当に自分にとっていいのかどうか、判断がつかない。

 ――判断がつかない、だと? 違う。

 今までの人生で、何が正しい判断だったか断定するなどまるで不可能だ。

 ある意味で正しかっただろうし、正しくなかったかもしれない。

 全て正しかったし、間違っているかもしれない。

 そんなことに頭脳をついやすなど、今は無価値なことだ。

「誰もかもが、自分を正しいと信じて疑わないんだから」

 なぜ、今急にそう思える風になったのか、猪飼には分からない。

 この気持ちは、これまでも何回か感じてきたことだ。

 だが、そのたびに「善い」とか「悪い」とか思って、そう感じることはやめてきた。

 自分は人間として生きたいという言葉でそれを捨て去ってきた。

 その口実こそが自分を苦しめていたのには、全く気づかずに。

 僕は、全くの愚か者だった。

「いや、これこそが正しい」

 光奈はやはりきっぱりと断言した。

「そうだ、正しいんだ」

 だから彼もそう答える。

「なんだか、以前の猪飼じゃないみたいね」

 この世界が間違って、狂っていて、それが正しいのなら、わざわざ間違っている方向を選ぶ必要なんてさらさらない。

 正しい生き方なんて一つもない。全てが正しいんだ。

「誰かになんと言われようが関係ないんだ。一人一人が正しいと考えて行動していれば、正しいんだよ」

 それでも、やはりこう意う。

 考えないことも、一つの価値観の一つではないのか。考えないと考えている時点で、考えているんじゃないのか。

 だったら、もうやめよう。それを問題にすることなんて。

「――あなたは、何を考えているの?」 すぐにここを離れなければならない。ここは危険な場所なのだから。といって、ここで襲われたとしても、僕の人生に何の支障があるのか。

 すぐに彼は答えた。

「分かった。この子の頭をたたき割ればいいんだろ」

 それが正しいのだから、何も抗う余地はない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] RTから来ました。 斬新で衝撃の数々、読み続けながら驚愕の数々にこれは凄いと思いました。文章の構成も良くストーリーが頭に入りやすいですね。 これからも頑張ってください。
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