1
「馬鹿か、お前は」
「すんません…」
入院を断固拒否する少年をやっと説き伏せて入院させ、治療も若干落ち着いたかと安心しかけた時に、その事件は起こった。
(ま、いつものようにただの院内脱走なんだけど)
絶対安静で何があっても病室から出るな、と言ってあったにも関わらず、部屋にいないとのナースの報せを受け、それとほぼ同時に、少年が廊下で行き倒れになっているという報せを他のナースから受けたのだ。苛立ちも増すというものだ。
「お前の家庭の事情を鑑みて、なるべく早く退院させてやろうという俺の気持ちがまったく通じてないようだな?」
「そういう訳じゃない。……分かってるんだけど」
言って、少年はげほげほと咳き込んだ。入院理由は肺炎。入院前に一週間熱がひかず、これはまずいと入院させたが入院後も一週間ほどやはり熱がひかず、昨日になってようやく下がってきたところだったのだ。今が一番大事な時期だというのに……。肺炎をこじらせたらあっという間に天に召されてしまうということが分かっていない訳でもないだろうにと太一郎は溜息に呆れを乗せて口から流した。おまけに、軽い風邪もすぐに肺炎になってしまう体質を持っているというのだから厄介な患者だった。
「申し開きがあるなら言ってみなさい」
熱がぶり返した苦しげな吐息をついてから、少年は言った。
「ずっと聞こえてたんだよ。入院してからずっと。……でも初めはさすがに動けなかったから……」
「聞こえてたって例のアレか? んで、少し良くなった隙にって訳か。馬鹿だなぁ。もっとちゃんと良くなってからにすれば良かったのに」
「内容が、なんか切羽詰まってたから」
「切羽詰まってたって?」
何度か咳をしてから、更にトーンを落として少年が呟いた。
「死にたくないって」
この少年は変わった性質を持っている。他人の心が読めるという超能力ちっくな性質だ。普通なら眉唾ものの話だが、この少年とは幼い頃からの付き合いなので、その性質については誰よりも知り尽くしている。
小さな頃は普通の声と区別がつかなくなるほど聞こえていたようで、そのせいで周囲の人間からは疎まれていた――恐れられていたと言うべきか。
両親は特に顕著だった。それが理由で両親は離婚し、母親が引き取ることになったのだが、母親も彼の能力を恐れていて、結果として精神を病んでしまった。歳と共に能力は弱くなっていて、16歳になった今ではたまに聞こえてくる程度なのだが、母親はそれを認知する事も出来なくなっていた。
誰も幸福にしなかったこの能力だが、太一郎だけは、あまり気にしたことはなかった。細かい事は気にならない性格のせいかは分からないが、太一郎はむしろ言葉を使わなくても意志が伝わる便利な能力だと思っていた。
少年の身体が弱いための代償としてこの能力があるのかもしれないと昔は思っていたが、学校にほとんど通えないほどの虚弱体質に加えて、周囲に厄災しか振りまかない特殊能力も備えているというのはどう考えても二重苦だった。中二の時期に考えていた事などこのようなものばかりなのだなぁ、としみじみと思い返す。
この中二廟的発想を唯一擁護しているのが、テレパシーが一番発揮されるのは身体が弱っている時(当社比)だという事実だった。
そして今回の物語はそこから始まった。
☆ ☆
「死にたくない?」
眉間に皺を寄せてオウム返しに聞いてきたのが、精神科医の茅紘だ。鋭い目つき、乱暴とも言える口調、細身で長身なプロポーズ、おまけに肩から流れるのは刺されるのではないかと思わせるような直線的な長髪とどこをとっても尖った印象を受けてしまうのだが、彼女は患者からは不思議にもとても親しまれている。太一郎の幼なじみでもある。
「らしい」
サンドイッチを食べながら、太一郎は先ほどの少年との会話を思い起こしていた。
「なんか子供っぽい感じだった気がするとも言ってたんだよね。だから小児科でリサーチをしてたんだけど、その途中で行き倒れたんだって」
「ふうん。……で、探して見つかったとして、一体どうする気だったんだろう? 病院だからそういう子供がいてもおかしくないけど、どうにかできるものだったらとっくにそうしてるだろうし。それとも、あいつが使えるマジックはテレパシー以外にもあるのか?」
「いや、それだけだよ。ほんとにどうする気だったんだろうね」
「死ぬ前にやり残した事がある、っていうのだったら分かるんだけど、死にたくない、だからな」
茅紘は手作りの弁当の卵焼きを囓りながら、空を仰いだ。
病院の中庭は、どこか牧歌的な雰囲気がある。車椅子を始めとした大概のものはゆっくりと動いているからそう感じるんだろうか。大きな音がしないのもそれを感じさせる一因でもありそうだ。
けれどここでは、そんな雰囲気とは逆に、生死を賭した仁義なき戦いもごく日常的に行われている。その声の主も、そんな子供の一人なんだろうか。
太一郎は食べ終わったサンドイッチのゴミをくしゃりと潰して袋の中に入れる。イチゴオレをぢゅるぢゅる、と飲み干してこちらも袋に投入。
と、ひとりのナースがてくてくと歩いているのが見えた。
「あ、美奈子ちゃん美奈子ちゃん」
呼ばれたナースは振り向くなり可愛らしく破顔した。それを見て、茅紘はあやうく箸を破壊しそうになった。
「美奈子ちゃんて小児科だよね?」
「そうです」
「やー、今日はうちのコが面倒かけまして」
「いいですよー。ここの病院の職員はみんな慣れてますから」
「あ……そ。慣れて……ね。まいいや。あのさ、訊きたい事があるんだけど、小児科にいる子供で、今、ちょっと状態が悪い子っている?」
「状態が悪い子ですか?」
「うん。ええっと……言いづらいんだけど、死を意識してるーみたいな……」
探りながら言葉を言うのは大変だった。
「意識してるーみたいな……ですか。今一刻を争う子はいなかったと思うんですが、そもそも小児科って小児癌とかの子供もいるから、それを考えると、死を意識してる子はいると思いますよ?」
「そうか。ちなみに何人くらいいそう?」
「ええっと、ちかちゃんにみらいくんかな。今うちで診てる癌患者は。「みらい」くんなのに可愛そうですよね。でも、死とかを考えるって心臓の子とかもありそうですよね。でも小児の心臓病の患者さんは、たくくんだけかな。って言っても、入院したの自体初めてだし、病気もそんなに悪くないし。微妙な感じですね」
そっかありがとう、と言って太一郎はベンチに戻った。
「どうするかなー」
「どうするもなにも、一つしかないんじゃないか?」
「え?」
「その件が、あいつの思うように収束しなければまた同じ事が起きるんだろう? それだったら、太一郎がそれをなんとかしてやるのが一番の方法だと思うが?」
「俺が?」
「あいつの場合、体力は皆無の割に、気力と根性が変な具合に作用すると無い分というか、体調が悪くむしろマイナスまで下がってる体力を補えるほどの行動力を生み出すからな。そして気力と根性が切れた時に、頑張った分のしわ寄せが体調にくるから。あいつはなんとしてでも動かさないようにした方が太一郎の身のためだ。そして、それを可能にする方法といったらそれしかないだろうが。ぶっちゃけ、これ以上入院期間は延ばせないんだろう?」
「そうなんだよねー。あいつのお母さんをなんとか騙くらかして入院させてるから、長引かせる訳にはいかない。……そうか。そうか……」
少年の母は、少年が入院するのをひどく嫌がる。結果として、情緒不安定な母親が入院中の少年を家に連れ戻すために大暴れしたことも何度もある。少年が入院を拒否したがる理由の一つだった。
「何よりの理由に、太一郎がヒマだというのもある。なにせお前の患者はあいつ一人なんだからな」
「うちが経営してる病院だから潜り込めてるだけで、俺はほんとは出禁だからねー。あいつの主治医だって、ほんとは兄貴の名義になってるのに実質俺がやってるという」
「ひどい話だ。ともかく、あいつの熱がまた上がってしまった以上、入院期間は少しは伸びてしまうんだろう? 自分が探すので気兼ねなく休んでいてくれと言って実行するのみ。それしか方法はない。僕は遠い場所から応援してるからな」
「こういうのは性に合わないが、仕方ない。やってみるか」
決断を表明すると、一拍おいてから、
「でも病院内で「僕」と言うなと言ってるでしょ」
「てへっ」
「今の一言でキャラがぶれたし」
太一郎は立ち上がって、まずは院長室に行ってあいつの入院期間を延長してもらうように頼むか、あいつの病室に行って決意表明を伝えるか。どっちを先にしようかと1分だけ迷った。
「めんどくさいのは嫌なんだけどな。しゃーない」
ゴミが入ってるビニール袋の口を縛って、ゴミ箱にシュートしたが無念にも入らず、茅紘の冷たい光線が目から発射されていた。