ナマズと一日の終わり
「ーーーということだと思う。無理に思いだそうとするとかえってストレスになるなら、記憶喪失だってことをあまり意識させない方がいいかもしれない」
思っていたより早く戻ってきた西之園は、小さな救急箱を開けてさっそく治療をはじめた。ナマズ少女はなすがままに身を預け、目をとじている。
「逆向性健忘症か~。じゃあそんなに心配しなくてもいいんだよね?」
「ん、たぶんだけど」
西之園が笑顔になり、こちらを見つめてくる。
「な、なに?」
「んーなんでもないの。頼りになるな~詳しいな~て思ってさ」
「べ、別に。たまたま知っていただけだよ」
本当は消し去りたい記憶があって、その辺のことを調べていたなんて言えなかった。あまつさえ、その原因は目の前の西之園にあるのだ。こんなところで役立つなんて皮肉なものである。
「ところで治療はもういいの?」
「うん。消毒して絆創膏貼ったから、とりあえずは大丈夫かな。ちゃんと防水のやつだし!でも沼っていっぱい細菌いそうだよね」
「そこはまあ、大丈夫だろう。さすがに」
突然、ナマズ少女が割って入るように声をあげた。
「うなうなうーな!おねえちゃんおにいにゃんありがとうございます!うなはうなしい、ちがった、うれしいです!」
ナマズ少女のナマズ部分には大きめの絆創膏が貼られている。皮膚が黒いのですごく目立つが、こいつ自身が気にいっているようだからいいのだろう。
「よしよーし、早く良くなるといいね」
「はい!」
こいつはなんでこんなに元気なのだろうか、僕がそんなことを考えていると、目の前に腕時計が現れた。もちろん西之園である。
「ヨシヲくん、門限は?」
「んーとくに決まってない。西之園さんこそ、女の子なんだしそろそろまずいんじゃないの?」
チラッと見えた時計は八時すこし前を示していた。夏だから陽が高いといっても、辺りはかなり暗くなっていた。
「そだね。門限は大丈夫だけど、そろそろ帰ろうかな。明日も学校だからね」
「うなー。おふたりともがっこうにいってるんですね。うなもがっこういってみたいです」
「ん?学校か。そういえばそうだよな、幼稚園とか小学校とかないのか、そっちの世界には」
「うなー。ありません」
「じゃあどうやって日本語覚えたんだ?」
「・・・ん?ん?」
ナマズ少女は意味が分からなかったらしく、挙動不審になった。答えられないとまずいとでも思っているのだろうか。そういえばこいつは年の割によく謝る。言葉も丁寧だ。
「あはは、うなちゃん学校いったことないんだ。それなら今度一緒にいこっか」
「え⁉」
「うな⁉」
僕とナマズ少女、二人同時に叫んだ。
「うなちゃんのケガが治ったら連れていってあげる。きっとすごく楽しいよ!」
「おい、西之園ーー」
止めようとする僕に、西之園はいいからいいからと小声でささやいた。
「だからちゃんと休んで眠って、ケガを治さないといけないよ。できるかな?」
ナマズ少女は顔を輝かせて、今までにないくらいの大きな声で言った。
「はいっ!!」
上手いな、と僕は思った。子どもの扱い方を知っているという感じか。
「じゃあもう時間も遅いし、わたしたちはお家に帰るけど、いい子にしてるんだよ?」
「うなーがんばります!」
「・・・寂しくないか?」
僕は思わず声をかけていた。この森は暗く、街のひかりも届かない。遠くからはふくろうのホゥホゥという鳴き声や、不気味なかん高い笑い声が聞こえてきていた。
「ヨシヲおにいちゃん、うなのことしんぱいですか?」
「ーーはぁ⁉ ち、ちがう。社交辞令だ」
「? うなはうなぎなのでよくわかりません」
「あはは、ヨシヲくん、お兄ちゃんだね」
「西之園までやめてくれよ。そんなんじゃないって。とにかく僕らはもういくからな、大人しくしてろよ!」
「うなー!」
なんなんだ、その返事は。つっこむ気力もなく僕は歩きだした。
「じゃあまたね、うなちゃん」
言って西之園も歩き出す。小走りになって横に並んだ。
「今度、説明してもらうからな」
「あーそういえばそんな約束もしてたね。ん、大したことじゃないけど、わたしが知るかぎりのことを」
「ああ、よろしく」
自分をうなぎと自称する記憶喪失のナマズ少女。いわゆるUMA(Unidentified Mysterious Animal)、謎の未確認動物なのだろうか。少なくとも僕はあんな生き物を知らない。もしかしたらこれは世紀の大発見なのかもしれない。
ただ一つ思うのは、あんなのを目の前にしても案外対応できるんだということだ。それはあいつが子どもで、日本語をしゃべるせいもあるのだろうが。
「ヨシヲくんはさ、携帯電話持ってる?」
「え?ああ、持ってるけど」
「じゃあ連絡先交換しようよ!」
「え⁉」
「いやなの?」
「そうじゃないけど!な、なんで⁉」
「これから必要になるでしょ?あの子のことを知ってるのはわたしたちだけ。二人の秘密だもん」
二人の秘密。言われてみればたしかにそうなのだが、それを繋ぐのがあのナマズ少女だと思うと複雑だ。
「そうだな。交換しようか、連絡先」
「うん!」
使用頻度の少ない僕の携帯に、西之園エンカの連絡先が登録された瞬間だった。
*
その夜、帰りの遅い僕に対して祖父はとくに何も言うことはなく、おかえり、と一言かけただけだった。
夕飯を食べることもなく、自室のベッドに倒れこむ。疲れていた。
「あー・・・これからどうなっちゃうんだろう」
果てしなく不安だった。そんな中唯一救いがあるとすればーーー
携帯を開いて、メール画面を呼び起こす。受信ボックスには、西之園エンカの名前が載っていた。
『今日はありがとね!まさかヨシヲくんに見つかるとは思わなかったけど、こうなったら頼りにしちゃうよ?いいよね?
うなちゃんもすごく楽しそうにしてたし、これもヨシヲくんのおかげだね。本当にありがとう!これからもよろしくお願いします!
じゃあまた明日学校で エンカより』
とくに返事はせず、携帯をしまう。
本当に大変なことになったな、とぼんやり考えながら目を閉じた。