第一話
私の名前は、高原永那。
両親共に美形だったのでそれなりの顔をしていると自負している二十二歳。
恋人はついさっきただの同僚になったのでいない。
──記憶喪失になってはいないらしく、取り敢えず安心した。
目を瞑ったまま辺りの気配を探ると、何かが私の上に馬乗りになっているらしい。
生々しい息遣いを感じた。
……脂ぎったおっさん的なものだったら立ち直れない気がするわ。
「……起きねぇ。やばいんじゃねぇかこれ……」
予想に反して聞こえてきたのは聞き取りやすい低さの男性の声。
声なんてあてにならないんだけれど、最悪目を瞑り続ければ我慢出来るかもしれないと思えるくらいイイ声をしている。
「人間は、何だっけなぁ。起きんのにオウジサマの口付けとやらが必要だったか?」
そんなことを私が考え込んでいる間に目の前のヒトは何やら物騒なことを自分で言って納得し始めた。
『人間は』と言う辺りで相手が人間ではないことに勘づいたけれど、まあ、別にそれはどうでもいい。
「でも俺、オウジサマじゃねぇしなぁ」
「ね──」
ねえ、ここはどこかしら?
意を決して目を開けてそう尋ねようとした瞬間、私の上から圧迫感がなくなった。
「うおっ」
「アルシェード! 目が覚めるまで傍にいるようにとは言いましたが襲えとは言っていません」
「襲ってたわけじゃねぇっての。見てただけだ!」
「いくら今魔界で──」
打ち身なのか痛む全身に顔をしかめながら起き上がるとそこには、壁に張り付いた焦げ茶の髪に深緑の瞳をした、いかにも男というような体格のいいヒトと、眉間にシワを寄せてそれを見る銀髪に群青色の瞳をした中性的な美貌のヒトがいた。
声と会話の内容から察するに、壁に張り付いたヒトが私に馬乗りになっていたヒトだろう。
取り敢えず……脂ぎったおっさん的なものじゃなくて、本当によかった。
「目覚めましたか。人間が魔物の領域に入り込むなど何事かと思いましたが、私たち魔物が恐ろしくはないのですか?」
改めて自分が面倒臭いことに足を突っ込んだことを理解した。
……この世界で働ける自信がないんだけれど。
「特には。それと、どうやら私は自分の名前以外の記憶がないらしいの」
嘘を吐いた。
異世界から来ました、なんて面倒しか生み出さないことは黙っているに限る。
こういうのは大抵、妹の役目だもの。
百合なら、持ち前の外面のよさと美貌で乗り越えられそうなのに。
「記憶、が……まさかアルシェードに飛び付かれたせいで……?」
「アルシェード?」
「大きくて野蛮な魔物……彼です。貴女を拾ってきた者でもありますが」
ビシッと指差す先には壁に張り付いたままの男。
黒い物体の正体でもあったのね。
それにしても、押し倒されはしたものの身体の一部を失っているわけでもなく節々の痛みもそれほどじゃない。
連れて来られてからも乱暴なことはされていないし、記憶喪失だと言った私を怪しんでいる様子もない。
もしかしたら、いいカモ──いいヒトたちに出会ったのかもしれない。
何にせよ今後の関係を円滑にするためには状況を確実に把握するのが大切だろう。
「それで、貴方の名前は?」
「……そう、ですね。私はレイスヒルトといいます」
焦げ茶色の髪がアルシェードで銀色の髪がレイスヒルト、と。よし、覚えた。
「レイス、記憶喪失だったら魔物について人間なら赤子のときから言われるようなことも忘れてるんじゃねぇの?」
気遣いなのか、壁に張り付いていたアルシェードがようやく壁から離れると頭を掻きながら言った。
レイスヒルトは私と彼を交互に見てから小さく溜め息を吐くと喋り始める。
「そうですね。私──私たち魔物は触れるだけで相手から魔力や生命を奪うことが出来ます。私やアルシェードのように人型になれるような上位の者でなければほんの微量で済むかもしれませんし私たちも普段は奪ってしまわないように常に気を付けています。服越しの接触ならば疲労する程度でしょうが……とにかく、不用意に魔物に触れないように気を付けてください。ただでさえ今、魔界では」
レイスヒルトはそこで不自然に言葉を切ると、何やら難しい顔をし始めた。
さっきも聞いた『今、魔界では』という言葉。
魔界で何が起こっていたとしても私に害がないのならば構わないのだけれど、そうはいかない予感がする。
「ここは魔界、なのね」
「……、はい。人間の住む領域とは隔離された魔界と呼ばれる場所です。人間の領域に帰そうにもヘルヴィルに会ってもらわなければならないのですが」
また、知らない名前が出てきた。
しかもカタカナの名前。覚えにくいったらないわ。
「ヘルヴィル?」
「人間からすれば魔王、ですよ。魔物の王です」
魔王は存在するらしい。
私が魔王にならなくてはいけないというフラグがなくなったのは喜ぶべきことだ。
後は、いかにしてこの世界で生きていくか。
召喚されたわけでもなく神様とやらに出会ったわけでもない私が元の世界に戻るのはきっと不可能だろう、帰ったところで何かがあるわけでもないから構わないのだけれど。
「ヘルヴィル様、と呼んだほうがいいのかしら」
「ああ? 人間の王とは違うし別にいいんじゃねぇ? つーか本当に俺たちが恐くないんだな」
「ええ、全く……」
思わず口から本音が飛び出した。
「すべての人間が貴女のような者ばかりならば、いいんですがね。魔物であるというだけで怯えられ、罵倒され、時には一方的に虐殺される」
怒られるかと思いきやレイスヒルトは憂いを帯びた表情でそう言った。
アルシェードのほうも、驚いてはいるものの怒ってはいないらしい。
というか私、何だかものすごくこの場に馴染んでるんじゃないかしら。
「その、それで、だ。あんたの名前は何だ?」
「嗚呼そういえば名前だけは覚えているんでしたね。教えて頂けますか?」
暗くなり始めた空気を払拭するかのように明るく、二人は言った。
私のイメージしていた『魔物』とは大分違う。
毒液を撒き散らしているわけでもないし、人間を進んで襲っているようにも見えない。
「永那……、エイナよ」
これなら何とか記憶喪失を盾にこの世界でも生きていけるかもしれない、そう思ったところで一瞬にして私の目の前に来たアルシェードにガシッと肩を掴まれた。
それだけじゃなく前後に激しく揺すぶられる。
「エイナ? 本当にエイナっつーのか?」
「まさか、いえ、それでは貴女が……?」
レイスヒルトは何やら考え込んでいるようで、助けてくれそうにない。
どうやら私は、再び目を回す運命にあるらしい。
「うおあっ悪い!」
肩を掴んでいた手をいきなり離された私は、勢いよく後ろに倒れた。
ぐるぐるぐる。回る視界の中で、今さらながらどうして普通に言葉が通じていたのだろうか、なんていう初歩的な疑問を抱いた。