私は貴方《数学》が「嫌い」なのです。
この随筆は私(raki)が数学の授業を受けながらノートに綴り、改稿を加えた後データ化したものです。
世界の仕組み、生命の誕生など多くのテーマを内包しておりますが、ここに記された内容はひとつの仮説です。それを、どう捉えるかは、読者様の自由です。しかし、絵空事であると捨ててしまうのでは勿体無いでしょう。私はこの文章を通して、物事の考え方に新たな一面を加えてほしいのです。
決して、仮説を押し付けたいのではありません。
どうか、下らないと言わずに最後まで読んでいただきたい。そして、私の思いを少しでも解っていただければ幸いです。
私は今、退屈で心底下らないと思っている「高等教育における」数学の授業を受けている。……否、「受けている」というのは少々見栄を張り過ぎた。何故なら、今数学の授業を「受けている」と言いながら、実際はこの方向性も決まっていないエッセイを執筆しているのだから。これを、いかに描写したら「受けている」などという言葉を選べるだろう。正しくは、数学の授業を「傍観している」だ。我ながら、含蓄のある表現であると満足している。
時に、何故私がこのような文章を「数学ノート(2)」と表題の付いたキャンパスノートの第三十一頁目に書き始めたのであろうか。それは、正直なところ私にもよく解っていない。「大嫌いな数学への反発」のつもりなのか、はたまた「大苦手な数学に対する諦念の具体化」のつもりなのか、それとも単に「暇」だったのか。ただ何であるにせよ、素人とはいえ小説家を名乗る者の一人である私としては、一度書き始めた作品を中途半端に投げ出すという「愚かな」行為だけは避けたいところである。しかし、ここはひとつ、安心してほしい。あなたが今この駄文を読んでくれているならば少なくとも何らかの形でこの随筆は結末を迎えていることだろう。ちなみに「愚かな」に括弧が付いているのは、無論、数学の授業を真面目に聞かずエッセイを書き綴っている方が愚かであるというのが、大衆的な意見だからである。だが、私的には括弧を付けるのは少々気が引ける。読者の皆様にも、このエッセイを読み終わる頃には数学が「嫌い」になっている人が居るかもしれない(この「嫌い」に括弧を付けたのにも深い意図があるのだが)。とはいえ未だマイノリティ。私は仕方なく独自の見解には括弧を付けて語らせてもらうとしよう。「一体それは何のプライドなのだ?」と言う、もう一人の自分の声が聴こえない訳ではないが、それを必死に振り切ってまで、未だこの半ば開き直った感のある文を書いているのだから、その「馬鹿げた」プライドは一応本物なのかもしれない。
さて、ここで一つ問題が生じた。今になって気付いたことではあるが、何故私は三十一頁目にコレを書いてしまったのだろうか。奇数頁というのは、キャンパスノートにおいて右側なのだ。私は今、一番左の列の一番前に座っている。更に、このクラスは生徒が全部で六人しか居ない。この目立つ環境下で、教師から見えやすいノートの右側の半分程までこの文字列は既に侵入してしまっているのだ。数学のノートのとある一頁が、綺麗にパラグラフ分けしてあり、しかもほぼ全て日本語で書かれているのは、いささか不自然だろう。ここまで使用した算用数字といったら「数学ノート(2)」の(2)だけではないか。このエッセイを数学教師に見られるのは若干気まずい。……ああ、見つかったらどうしよう。
……と小心者の私はビクビクしながらここまで執筆してきたのだが、閑話休題、このような文を書いている理由であるが、詰まるところ、「数学とはなんぞや」という点に関して、議論しようと思っているのである。前述した理由と合わせてまとめると、この文の構成要素は「反発」「諦念」「手持無沙汰」「数学の正体についての議論」ということになるだろう。とはいえ、最後の一つは数学嫌いの高校生が解明できる問題ではないし、今から議論する「絵空事」は単に疑問を口にしているだけに過ぎないだろう。ただ、仮定することが人生には必要なのだ。考えることを放棄した人間は、成功どころか失敗すらも出来ない。
まず事実として、この地球も、他の天体も、この世界のあらゆる物は、宇宙の中に存在する。その宇宙が誕生したのは二百億年前のビッグバンが契機だったとされている(最近、宇宙がブラックホールを出入口とした入れ子構造になっているという新説が発表され、ビッグバン説が正しいかは判断し難いのだが、いずれにせよ宇宙の誕生は遙か昔であるはずである)。当然、人類の誕生よりも宇宙の誕生の方が早いはずである。しかしながら、数学、つまり数字概念を用いることで宇宙は表記できてしまうのだ。前述する通り、宇宙は人類にとって完全に上位の存在である。それを、広大な宇宙の小さな惑星の一つに過ぎない地球で誕生した、人間という生命が作り出した一種の文字でしかない数字で表記できてしまうというのは、大きな謎であると思う。鈴木光司という作家の小説『EDGE』では、この謎にある解答を与えている。しかし、それはあくまでも「小説」の世界。かなり物語に依存している仮説である。そこで、私は現実の解答として独自の仮説を立てた。ここで、その仮説を提示したい。
我々の「常識」では、全宇宙の「創造主」や「管理者」という存在は否定されがちだ。もちろん、宗教という観点でこれを観れば、存在していることになるが、よほど熱心な信者でない限りは、「神」に値する存在の可能性は排除される。しかしながら、人間の開発した言語形態の一種である数字をもって世界を記述するためには、「数字」を持つ知性が宇宙を管理していると考える他はない。そもそも、日本人の多くは宗教や神の話題にアレルギーを持っている(これには、「天皇制ファシズム」から「オウム事件」まで、日本の数多の歴史的事象が影響を及ぼしている)が、世界では遥か古代から「神」について研究がなされてきた。神の存在証明は哲学者達にとって必ずや通る道であり、宇宙論、存在論、道徳、物理進学、と様々な面から様々な理論が出された。中には、我々が使う言語の捉えうる範囲の外にある議論だとしてその証明の不可性を主張した者もいた(ウィトゲンシュタイン)。それに、神自体にも大きく分けて二つの種類がある。神が全知全能であり、世界のあらゆる事象を支配しているとする理論。そして、神は創造主であるだけで人間に禍福を与える者ではなく、あくまでも世界の基本を創っただけでその後の一切には干渉しないという理神論。今から述べる仮説は、後者の理神論に近い仮定を用いた、宇宙論的証明や存在論的証明の一種かもしれない。創造主的な存在を仮定すると、世界の構造が見えてくる。
この世界は四次元である。上下、左右、前後の三次元に加え、時間という一次元が組み合わさり、世界は成立している。もしそれを管理するならば、そのさらに上の次元に身を置くことが必要になる。四次元に加え、我々には認知できないもう一つの次元概念が存在する空間が在るならば、我々の世界を管理しているのは、そこに居る五次元の住人ということになる。まさに、私達がコンピュータ内に仮想のゲーム世界を構築するかのように彼等が我々を造ったなら、我々がゲームと呼ぶものが我々の本質であるかもしれないのだ。
例えば、唯一神を信じる宗教では、神は自らの姿を元に人間を創造したとされることが多い。これは、先に提示した仮説ではかなり的を射ている。人間が開発したと思われている「数字」がもしも五次元の住人(=この世界の超次元的管理者)の扱う文字概念だとしたら。五次元空間で使われている「数字」をそれよりも下位の世界である四次元世界(つまり我々の世界)の記述に使用したならば、私達人類がその数字を使って世界を記述できてもおかしくはない。つまり、何が言いたいかというと、我々が「0と1」でコンピュータ内の空間を生み出したように、創造主あるいは創造主達は数字概念を用いてこの世界を記述したのだろう。水が、構成要素であるHとOでその全容を説明できるように、この世界が数字概念でできているならば、数字概念を使って記述できないはずがない。
もちろん、人類が数字を開発したのも必然だったことになる。なにしろ、「開発」ではなく「発見」だったのだから。五次元の住人は意味があってこの世界を創ったに違いない。ならば、その意味には数字の発見も含まれていたのだろう。私達がゲームの中でその住人を育成するように、五次元の住人は私達を育成しているのかもしれない。時には餌(数字概念の発見)を与えたりしながら。
ここまで、この文章を読んでくれて、かつ理解と共感を少しでも持ってくれた人が居るならば、私はその人に深く感謝したい。人は、「奇跡」という言葉を使うとき平等にはなれない生き物だ。「人類は凄く低い確率でここに繁栄している。これは奇跡だ」、これが私には酷く理性を欠いた言葉に聞こえてならない。百個のサイコロを投げて、それが全て同じ目を出したら、見ていた人はそれを奇跡だと言うだろうか。現実的に想定してほしい。十中八九、懐疑の念を抱くはずだ。何かトリックがあるんじゃないか、と。だとしたら、更に低い確率で存在している我々生命の誕生にだって、トリックがあるのではないかと疑う余地はあるのではないか。何故、人は生命の誕生にだけはトリックの可能性を考えずに奇跡という二文字で完結させようとするのだろう。生命の誕生が奇跡だという証拠はない。もちろん奇跡でない証拠もない。ならば、答えは「判らない」であるはずだ。私の話をまともに聴く者は私の周りにはもういない。「創造主的存在が……」ここで右の奴は笑う。「生命は創られたと考える方がむしろ自然で……」ここで左の奴が笑う。そうやって、「常識」を掲げ、皆、考えることを放棄する。確率は「ある」か「ない」かのニ択。だが「常識」を鵜呑みにする奴には「ない」の一択しか見えていない。「常識」が間違いで「あり得ない」が真実だったら、彼らは既に詰んでいる。コペルニクスは当時常識だった地動説を否定し、天動説という真実のカードを引き当てた。当時、コペルニクスを非難した者は偽物を掴まされて愚者のまま死んでいった。彼らはまさに詰んでいたのだ。あくまでも仮定の話なのだ。決して私とて、その一説を盲信してなどいない。ただ、究極の客観に立場を置いたとき、「あり得ない」「……な訳ない」「常識外れだ」などという下らない言葉一つで、物事を片付けてしまうのは早計だ。考える、吟味する、全てを平等に疑う。それが重要なのだ。それは、時にコペルニクス的転回を呼び起こすかもしれないのだから。
仮に五次元の住人が実在し、数字を用いてこの世界を創ったとしたら、「向こう」と「こちら」とを繋ぐひとつのインターフェースがあるはずだ。それこそが「数字」であり、それを読み解くための学問こそが「数学」なのだと思う。それはやはり絵空事かもしれない。それでも、決定的な何かが起こるまで真実は判らない。箱の中の猫が生きているか死んでいるかは、箱を開けるまで決定しないのだ(シュレーディンガーの猫)。
数学とは、人類の発展に不可欠なものだ。それは、私の仮説の内容に関わらず、おそらく真理だろう。疑問と謎、そんな不可解で不確かな可能性さえ内包する、大きな存在なのだ。そう、それは私のような、ちっぽけで発展途上な人間の扱えるものではない。もし、数字を扱う五次元の世界とその住人が在ったなら、更にその上位に全く同じシステムで成り立つ世界が在るかもしれない。つまり我々、四次元の住人と五次元の住人の上下関係と同じように、五次元の住人と、更に上位の六次元の住人との上下関係、次いで七次元、八次元、と世界は重層的に連なっているかもしれないのだ(これは同時に、最も上の階層の住人の起源に関する謎の解明が我々には不可能であることも明示してしまうが)。数学を学ぶということは、そんな無限の謎と永遠の世界層を垣間見る可能性を秘めている。だからこそ、私にはそこへ続く扉を開く勇気はないのだ。
いつの日か、その扉を開くのは誰だろう。少なくとも私ではない。その役目は数学の模試で満点を採るような、私の小説の相方、竜司にでもこっそり託すことにでもしようか。私は別の方向から世界をみようと思う。今までにいなかったであろう新しい哲学者にいつかなりたい。カントは『純粋理性批判』の冒頭でこう述べている。「人は哲学を学ぶのではなく、哲学することを学べるだけである」と。哲学は過去の哲学者の功績や哲学史の知識を記憶することではない。人が一人ひとり、自ら哲学する主体的行為なのだ。過去の哲学をきっかけにして、かつそれ自体に捕らわれず、各々が真理を探求する、それが哲学だ。多くの人はそれを解っていない。私は自分の歩みを進めたい。そして、誰も考えなかった、「下らない」と捨てていったものでさえ拾い上げる哲学者になりたい。いつか、自分なりの真理を見つけたい。
さて、そろそろ数学の授業も終わる頃だ。M先生はいかがわしげに私の方を見る。……やめてくれ。数学は私の「場所」ではないのだ。私は、恐い。数字と日本語なら、日本語を選ぶ。その背負う重みが、違うのだから。そして、私にはまだ目を向けられない崇高な存在だから。
だから私は、敢えてここで言う。「数学は『嫌い』である」と。私が私の哲学を探求するため。 そして願う。いつか、数学と正面から向かい合える、その時がきっと来るように。
参考
『エッジ EDGE』 上・下
著者 鈴木光司
出版 角川書店
最後まで、読んでいただいた方、ありがとうございます。
私の考えに共鳴していただいた方がいらっしゃるならば、ご意見を残していただけると嬉しく思います。
しつこいようですが、ここで呈した仮説は、根拠もないものです。
反論は必ずあるはずです。
私が伝えたいのはその仮設ではなく、全てに平等な疑いを持って、常識では「ありえない」というものにも等しく考察を持てるような自分自身の哲学を持ってほしいという考えです。文中での仮説はそれを伝わりやすくするための一例です。
かといって、その仮説が嘘だというわけではありません。「ある」か「ない」か。それは判りません。だからこそ、私たちは探求を止めるべきではないのです。
最後まで、読んでくださった方々に深く感謝します!