三幕 氷の女王と弟
――「ただいま……」
――「あ、姉ちゃん」帰ってきた、とぼくは桜おばさんの手を引いて言った。
その時、氷の女王は見た。ほんの少し、桜おばさんの口元が緩んだところを。
☆
それから氷の女王は制服のままエプロンを巻いて夕食の準備に取り掛かった。手を洗い、葱とパックの牛肉を取り出す。弟にも手伝わせた。強制参加だった。ぼくには米を研がせる。四合だ。氷の女王はよく食べる。
作業の途中、ぼくが米を研ぐ手を止めて、おずおずと、氷の女王に何か言おうとした。
彼女は「手を休めるな」と無機質に、命令口調で言い、弟を黙らせた。
しかしそれから十秒ほどして、
――「なに?」
――「あのさ……」
たんたんたんたん、と包丁を着る音が台所にひびく。氷の女王はぼくに目も合わせない。
――「何?」
――「あした、うちに、友だち連れてきていい?」
ダンッ! 空気が一瞬でピリつく。
――「何で?」
――「友達が……母さんの、絵見たいって」
包丁をまたダンッ! とまな板に叩きつけるように置くと、耳を引っ張り、「ちょっとこっち来な」と言って、氷の女王は自分を廊下に連行した。
それから、桜おばさんがこちらに注意を払っていないことを確認すると、彼女はドスの利いた声で、
――「あんた、うちの状況わかってんの?」
ぼくはあまりのことを驚いてしまって、声も出せずにいるようだった。なんとか勇気を出して「だって」と絞り出すと、
――「だって、何?」
――「ごめん……」
――「ごめんで済んだら……はぁ~あ、バカ!」
馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。氷の女王のなかで弟に対するヘイトがあふれた。ぼくは今にも泣きそうな顔で、「ごめん……ごめん」をくり返す。
(しかも泣き虫。こいつは何もわかってないんだ。)
氷の女王の思いは、態度と言葉の節々に現れた。
――「あんたさあ、次、今みたいなこと言ったら、この家から追い出すよ、あんた一人で生活できんの? できないでしょ?」
――「うん……」
――「じゃあわかるでしょ? おばさんにも私たちが必要なの。余計な負荷をかけちゃいけないの。それくらい、わかるでしょ?」
ぼくは泣きに泣いた。首をただ振る機械と化していた。それでも氷の女王は最後のラインで踏みとどまった。口にしてはいけない一線は守ったのだ。
――「もう、いいよ。風呂入って、宿題やってきな。……やってなかったら、怒るよ」
☆
――「勇ちゃんのおともだち、おばさんも会ってみたいな」
すると食事のとき、桜おばさんが口を開いた。しょげていたぼくがにわかに元気を取り戻し、
――「ホントッ⁉」
と、目を輝かせる。
――「せっかく描いたのに引き出しの奥にしまい込まれてたら、あの子たちも可哀そうでしょ? 人に見てもらった方がきっと喜ぶから。それとね、」
桜おばさんはゆっくりと、だが怒ってはいない調子で、
――「わたしのことを思ってくれるのは嬉しい。けど、姉弟で喧嘩はよくない。二人しかいない姉弟なんだから。ね?」
――「はい……」
氷の女王は返事をしたが、急にご飯が味のないものに感じられた。今、おばさんの目が見えてなくて良かったと思い、その考えが恐ろしくて、心の中でぶるぶると首を振った。
放った悪意が、いきなりブーメランになって帰ってきたのだ。
――「……ごちそうさま」
――「もう、いいの?」
――「うん、いいの。勇作、ごめんね。さっきは悪かったね」
そう言って自室に戻った。
それから一人きりの部屋で、天井を見あげると、氷の女王は隠れるように泣いた。