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うみのひと

作者: 雪芳
掲載日:2010/01/18

 大学にカーター宛で手紙が届いたのは、彼がまだ海洋生物学者という肩書きに慣れていない二十代後半の頃だった。ごく一般的な茶封筒にボールペンで書かれた英語は、実に軽やかで女性的なものであった。住所はカーターが住んでいる州からかなり距離があり、送り主にはリアとある。

 何事だろうとカーターが開くと、そこにはいくつかの新聞記事の切れ端と一枚の写真が入っていた。

「なんということだ……」

 カーターは一瞬にして目を奪われ、言葉を失った。記事は少し前に世間を賑わせ、瞬く間にゴシップとして一蹴されたシーヒューマンのものだった。

 シーヒューマンとは、北極海の付近に生息しているという噂の、未だ捕獲されていない生命体である。真っ白い肌をしており、体長は数十メートルといわれている。この生命体に関しては幾つかの目撃例や写真があった。しかしながらその生存が噂の域を越えないのには大きな理由があった。

 シーヒューマンは五本の指を持っているのである。そればかりか、上半身は殆ど人間のような形をしていた。具体的に言い表すならば、赤ん坊に魚の尾をつけたような不気味な姿だ。

 冷静な者ならば誰もが解ることであるが、海の生物が水掻きのない五本の指を持つことなど有り得ない。そのことからシーヒューマンはネッシーのように何者かの悪戯ではないかとされ、もちろん学会でも取りざたされていない。彼も信じてはいない。しかしながら彼は、手紙に釘付けとなった。

 さて、彼の名誉のために語ると、新聞記事の内容に反応したのではなかった。彼が真に目を奪われたのは記事に同封された一枚の写真である。そこにはくっきりとシーヒューマンが写っていた。ゴシップ記事を彩る、おぼろ気な姿ではない。毛のない白い頭部、凹凸の少ない顔、大きく開いた二つの黒い目、鼻の穴、歯の生えていない口。曖昧な写真ばかりであったために今まで確認されていなかったエラが首にあり、驚くことに水掻きのようなものが少しばかりあるように見える。

 シーヒューマンは布のようなものに包まれながら、じっとカーターを仰視している。全くもって現実的に、シーヒューマンはその存在を主張していた。

 カーターはすぐさまリアという女性にコンタクトを取った。海洋生物学者としての疑問は多く残っていたものの興味が勝ったのである。

 出会ってみると、リアはまだ二十代の若い女性であった。黒髪が似合う清楚な彼女は、カーターにひとつの交換条件を差し出した。

「北極海へつれていって欲しい」というのが彼女の願いだった。

「かわりにシーヒューマンの情報を差し上げます」

 カーターは騙されているのではないかと悩んだが、最終的には同意した。所々の費用はリアが負担すると付け加え、現に彼女は大金を差し出してきたのである。そして何より、彼女の態度に心が動かされた。真剣な懇願がにじみ出た、鬼気せまる様子であった。

 こうしてカーターは大学で北極海に生存する生物の調査を名目にチームを編成し、リアと共に北極海へと向かった。

 シーヒューマンの目撃例が最も多い目的地が近づくほどに、カーターは興奮を覚えた。あの嘘のような噂が真実だと確認されれば、カーターは一躍時の人となる。海洋生物学者としての地位は不動のものとなるかもしれない。胸が踊るのも無理はなく、饒舌になる。

 その一方でリアは寡黙になっていた。まるで殉教者のように眉をひそめ暗い表情のまま、黒々と広がる無限の海の向こうを眺めている。「どうしてそんなに暗そうなんだい?」と、カーターはリアに尋ねたことがあった。しかしリアは曖昧にはぐらかしてしまうのだった。

 たまりかねて度々、チームのメンバーにリアの相談を傾けたものである。

「彼女を元気付けるにはどうしたら良いかな?」

「弱気だな。ミステリアスなのが良いんじゃないのか?」

「どうだろうね。彼女は笑顔の方が似合うと、僕は思うけれど」

 カーターが肩を竦めると、

「海の上じゃあロクなプレゼントもできやしないだろ。デパートは24時間閉まっているしな。まぁ、夜に頑張って満足させてやるしかないんじゃないか」

 下品なアトバイスにカーターは呆れた。どうやらチームはリアをカーターの恋人かなにかと思っていたらしい。思えば喧嘩したのかと肘でつつかれることもしばしばあった。

「残念だな。僕には無理そうだよ。彼女は魅力的で、勉強ばかりしてきた僕はきっと相応しくないからね」

 どうやら満更でもない様子のカーターは、チームの仲間たちに冷やかされる度なんとも残念そうにため息を吐くのだった。

 海の上で幾つの朝と夜とを数えただろうか。障害のない夜空が溢れんばかりの星屑をたたえる中、カーター達の船は目的地に錨を下ろした。

「ここが目撃情報を総合的に評価して、最もシーヒューマンが現れると計算した座標だよ」

 カーターの言葉に、リアは懸命に海を見渡した。普段は神秘的な横顔が、また恐ろしいまでに真摯なものへと変わっている。

 カーターの、シーヒューマンを見つけるという思いが情熱ならば、リアの思いはどこか別種のもののように思えた。情熱を遥かに越えた、死に物狂いの形相は狂気じみており、カーターは初めてただならぬ恐ろしさを感じた。

 彼は目的地についたならばすぐにでも写真について聞こうと決めていた。しかし、リアの異常さに質問をする気は削がれて、立ち尽くすしかなかった。

 いったい、彼女の何がそうさせるのか。そうカーターが考えあぐねていると、リアが歌を歌い始めた。

 刺すような北極海の寒さの中、甲板の上で歌を歌うのは気が狂ったとしか思えない行為だった。とてもではないが夜など、五分も外にはいられない。

 しかし彼女は震えながら、声をかすれさせながらも歌い続けた。最初は蒼白になっていたカーターであったが、歌のテンポにやがて体が解れてきた。

 懐かしさのあるそれは、古くからある子守唄である。童話をベースにした愉快な歌詞が、海辺に木霊する。さざ波の音に揉まれながらも、海へと染み渡っていく。

 カーターは恐怖心を拭い、リアの行動を見守ることにした。そうすればやがて謎も解るだろうと心を落ち着けることにした。

 それからというものリアは毎朝毎晩、歌を歌い続けた。チームが海に潜り調査を行う中、一人たんたんと歌い続けた。よく喉を壊さないものだ。いや、もしかしたら既に、壊れていたのかもしれない。

 彼女は歌を歌い続けたが、それにもやがて終わりが近づいてきた。調査の期限が迫ってきたのである。そしてついに、最後の夜が訪れた。

 その夜もリアは歌い、カーターはリアのそばで彼女の様子を伺っていた。目映い夜空の下、リアの白い息が薄い線を描いている。さざ波が子守唄と重なる。

 カーターは暖房器具に体を擦り付けながら黒い地平線を見やった。やがて朝が来るだろう、そうしたらリアを説得し、故郷に戻るのだ。

 写真がなんであったのか、カーターにはもうどうでも良くなっていた。ただ漠然に、やはりシーヒューマンなど噂だったのだという達観が首をもたげている。

 カーターがもう中に戻ろうかと思案していると、地平線を何かが横切った。

「ん……?」

 リアの歌がとたんに大きくなる。それと共に、波の音も共鳴した。

 目を擦り、カーターは立ち上がった。何かが地平線に横切ったのではなかった。波のような白いものが、膨らんでゆく。

 リアは聞き取りにくいほどの高音を海へと貫いていた。次第に白いものが近づいてくる。カーターは甲板に足がくっついてしまったかのように身動きをとれず、ついにそれを見上げた。

 黒々とした、カーターの胴体ほどはありそうな巨大な目がふたつ浮かんでいた。真っ白な頭部は丸く、船より幅がある。白い皮膚には青い血脈が細かく走っている。鼻穴と口からは生臭い冷気が吹き付けてくる。

 あまりにも巨大すぎる白い姿。紛れもなくそこにいるのは、シーヒューマンであった。

 想像を絶する。

鯨でもない、ヒトでもない、未知の生命体である。データのとおり、この世の規格を、道理を超越している。カーターは恐怖のあまり気絶することも出来ず、その場にへたりこんだ。生暖かい突風のような息が生物特有の生臭さを含みながら絡み付いてくる。舌が縮みあがり、心臓が歯軋りをし、気を抜けば簡単に胃から絶望がせり上がってくると思われた。

 しかしながらリアはというと、心はどこへいってしまったのか、怯えることなく立ち、堂々とシーヒューマンと対峙していた。気づけば歌はやんでおり、静寂だけが横たわっている。

 サタンの再来。地獄を描いた絵のような船上で、天国に佇むようにリアは落ち着いていた。彼女に声をかけようとして、カーターは息を飲み込んだ。海の音、風の音に揉まれて、気づくのが遅くなった。リアは微かに何かを呟いている。

 繊細な声がたわみ掠れて、集中しなければ聞き取ることはできない。しかしながら確かにリアはこのように呟いていた。

 ごめんなさい、許して……、と。

 次の瞬間、カーターは悲鳴をあげた。リアが海へと飛び込んだのである。シーヒューマンもまた不気味なほど大きく割れた赤い口を晒しながら、海原へと倒れ込んだ。白い鯨が尾を翻し獲物を狙うように、沈み込む。反動は膨らみ巨大な波となり、船が激しく揺すられた。間一髪、あわやというところでカーターは甲板に繋がった浮き輪に手をかけ、死に物狂いでしがみついた。

 そして絶叫した。海に沈んでしまった人の名を。

 波に翻弄される甲板、首に脈を浮かせるカーターの嘆きが響く。しかしながらその呼び声に意味はなかった。波が落ち着きチームが慌てて外に飛び出した時、そこには青ざめたカーターが一人、咽び泣いているだけであった。厳格に凍てついた北極海は押し黙り、彼に背を向けていたのである。

 カーターは大学に戻ってからというもの、塞ぎ込む日々を過ごしていた。時おり見せる儀礼的な笑顔はまるで死人のようで、元々細い食は更に細くなった。しかしながらカーターという男は、悲しみの底で喪に服しながら、学者である。地道にもシーヒューマンとリアの関係について調べ、カーター自身が必要とする解決点を見いだしたのだ。

 結果からいうと、その解決点は脆弱であり解決というにあまりにも曖昧であった。しかしながら彼はそこで留まり、ひとつの終止符としたのだ。

 ある夏のことである。古くからある海沿いの町に小さな病院があり、そこでリアは一度入院をしていた。路上で倒れており、運ばれたのだと言う。まだハイスクールの学生で未熟であったが、入院したのは婦人科であった。驚くことに彼女には出産の形跡があった。

 自力で子を産み、路上で倒れたのではないかと医師は推測し、警察に通報した。しかしながら肝心の胎児は見つからなかった。殺人の容疑もかけられたが、証拠は不十分だったようである。死体が見つからなければ、彼女が口をつぐんでしまっては。ハイスクールの女学生への追求には限界があった。

 リアの過去を知った時、カーターは衝撃を受けながらも至極落ち着いていた。傷つきながらもどこかで納得する自分に気づいたのである。

 幼稚な恋の結末であったのかもしれない。あるいは、一方的な脅威にねじ伏せられた結果かもしれない。真実を知る術はリアが海に消えた今、同じように沈んでしまったのだ。誰の手にも届かない北極海の闇に。

 ただひとつ確信をもって言えることといえば、あの写真でシーヒューマンを包んでいたもののがアフガンであろうことだ――。

 カーターは黄昏の海を眺めると時折、黙祷するように目を閉ざした。

瞼は光を通して橙色の無地となる。

三百六十度、血の色が透ける生命の根源たる世界だ。温く、まどろんでいる。そうしていると、心からふいに情景が湧いてくる。そこはリアがいる海だ。リアは歌い、躍り、泳ぐ。幸せそうに肢体を揺らめかせ微笑んでいる。頬は林檎、唇は薔薇である。その傍らに、白い影がゆったりと寄り添う。触れ、離れ、また触れ、甘えるように。

 やがてリアはカーターに目もくれず、大きく水を蹴った。するすると潜り、どこまでも掻いてゆく。水面からどんどん離れて、海の底と溶け込んでゆく。何処へ行くものか解らないが、彼女の心は穏やかであろうとカーターは思う。

 そして歌を聞く。澱のない子守唄を。異形の情景を、橙色の世界を、北極海の闇を、美しく滑るそれは、カーターの体と心を貫いて、どこまでもどこまでも落ちてゆくのだ。

2009年執筆。

UMAだいすき。

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