涙と膿 8
「何してんだ、てめぇ」。進之助は言った。
ズボンのポケットの中では、固く拳を握りしめていた。
もし、ナメた返事をしやがったら、鼻を内側にへこましてやるつもりだった。
もちろん、できることなら暴力は避けたかった。
これ以上ないほど怒ってはいたが、それくらいの理性は残っていた。
下手に殴って警察に駆け込まれでもしたら(本人がストーカーだから、その可能性は低いが)、面倒なことになるし、そうなると自分だけでなく、香織にまで迷惑がかかるかもしれない。
「な、何しようと、僕の勝手じゃないか。職務質問かい?け、警察には見えないけどな」。男の鼻息は荒かったが、既にしどろもどろで、虚勢を張っているのは見え見えだ。
「当ててやろうか?あそこが新田香織さんの部屋だと知って、外から覗いてんだろう?単なる嫌がらせか?それとも、これから彼女の部屋に乗り込んで乱暴しようって腹か?」
男は怒ったのか、恥ずかしかったのか、顔を耳まで真っ赤にした。
実際は薄暗い街灯の下だったから、どす黒く見えた。そしてまるで呪文でも唱えるように口の中でブツブツと呟きだした。進之助は懸命に聞き取ろうとしたが、不可能だった。
進之助はもう一歩距離を詰めると、いきなり男の胸ぐらを掴んだ。
男は黙った。
「二度と彼女に近づくんじゃねぇ。次やって来やがったら、その不細工な鼻をへし折ってやるからな」
すると男は、今度はちゃんと聞こえる声で、こう言った。
「し、失敬な!何の権限があって、僕に命令するんだ!き、君はいったい彼女の何なんだ!」
進之助はポケットの手を引き抜いて、人差し指で頬をポリポリ掻いた。
確かに、自分はいったい香織さんの何なんだろう。
友達の弟?幼馴染?同郷なだけ?
自信をもって口にできそうな肩書は思い浮かばなかった。
そして少し傷ついた。
視線を夜空に移して大きく息を吸って吐き、それから男の口を塞ぐように、顔の下半分を殴りつけた。
鼻を狙ったが、鼻には当たらなかった。
グシャッと音がして、相手の歯が折れたのがわかった。
男は口を押えて尻もちをついた。指の間から血が一筋流れた。
驚いたような、非難するような顔でこっちを見ている男を、進之助は上から睨み、怒鳴りつけた。
「俺は香織さんの婚約者だ!」
啖呵とハッタリは喧嘩の常とう手段だが、こんなに大胆にやったのは生まれて初めてだと進之助は思った。
マンションにいる香織に聞かれていたら、どう言い訳しようかなどと考えた。もう少し声を抑えればよかったが、それじゃあ啖呵にならない。
ストーカー男の目が、驚きでいっぱいに広がった。
「ムヒョダ!」。たぶん「ウソだ」と言ったんだろう。
たしかに嘘だが、教えてやる必要などない。
「さっきも言ったが、今度お前の顔を見たら、こんなもんじゃ済まさないからな。分かったら、消えちまえ」
男の目から大粒の涙がボロボロと流れ落ちるのが、薄暗い街灯の下でもわかった。涙は口を押えている手を流れ、血と混ざった。
男はバタバタと、もがくように立ち上がると、進之助の顔も見ないで後ろを振り向き、走り去った。
進之助は、武器を取りに帰ったか、応援を呼びに行った可能性を考えたが、そんなはずもないなと思い直した。
一定間隔で並んでいる街灯の下を通るたび、走り去るストーカー男の憐れな背中が照らされた。
ざまぁ、みやがれ!卑怯で薄汚いストーカー野郎が!
進之助は肘の裏側に片手を当て、男の背中に向けて思い切り中指を立ててやった。
もちろん相手から見えているわけではなかったが、一発殴ったくらいでは収まらない怒りを吐き出す思いだった。
男の姿が見えなくなり、急に静寂が襲ってきたような気がした。
何処か遠くでクラクションの音がした。
ふと気になって香織の部屋を見上げると、カーテンに細い隙間があった。
なんだか叱られるような気がして、進之助は頭を掻いた。