涙と膿 7
ちょうど進之助がバイトから部屋に帰り着いた頃だった。
コンビニで買ってきた夜食の袋を小さな机の上に投げ出して、先にシャワーでも浴びようかと考えているところに、香織から電話が入った。
『進ちゃん?夜遅くにごめんね』
ただごとじゃないのは、すぐに分かった。香織の声が震えていたからだ。
進之助はスマホにかぶりつくようにして「どうしたの?何かあった?」
『たぶんこの間まで派遣で来てた人だと思うんだけど・・・。名前は忘れちゃったんだけど・・・。帰り道、後を歩いてる人がいるなと思ってたら・・・』
かなりパニクってる。
香織は普段、こんな話し方はしない。ほかの女たちのように思い付きで言葉を並べることもなければ、感情に任せて喋ることもしない。
「落ち着いて、香織さん。誰かに後をつけられたの?今そいつは?」
『窓の外にいて、ずっとこっちを見てる。進ちゃん、私・・・。私・・・』。電話の向こうで彼女がスンスンと泣き出すのが分かった。『怖いよ・・・』
進之助は自分がブルッと震えるのを感じてハッとした。小便を漏らしたかと思ったのだ。
だがすぐに、それは怒りのためだと分かった。頭に血が上り過ぎて、ほかの部分の体温が下がったのかもしれなかった。
きっと頭の中では血がブクブクと音を立てて沸騰していて、今鏡を見れば、耳から蒸気を噴き出している姿が見られるだろう。
進之助はさっき脱いだばかりのスニーカーに再び足を突っ込んで、鍵もかけないまま部屋を飛び出した。
終電が残っているのか微妙な時間だったから、地下鉄は使わずに走って向かった。
十分とかからず、香織の部屋に着いた。
香織さんが警察じゃなくて、俺に電話したのは正解だったなと進之助は思った。
「気の毒に。その子は、ストーカーを呼び寄せる特異体質か何かか?」。十塚は灰皿で煙草をもみ消しながら言った。
「誰のことだよ」。進之助は口を尖らせた。
進之助は息を切らせながら、香織が住む二階まで階段を駆け上がり、インターホンを鳴らした。
ドアの向こうでチェーンを外し、鍵を開ける音がして、香織が顔を出した。
「ごめんね。こんな遅くに。入って」
香織の顔を見て、進之助はホッとした。
とりあえず、無事なようだ。それに、もっと取り乱しているかと思ったが、案外平気そうだ。
しかしそれは、彼女が無理して気丈に振舞っているだけだということは、すぐに分かった。香織の目元には涙の跡があった。
玄関を入ったところにキッチンがあり、そこから扉で仕切られたリビングまで短い廊下になっている。その途中、左手に洗濯機、右手にトイレとバスルームがあった。
実家の方でも、泥間に来てからも、香織の部屋に入るのは初めてだった。
何処となく良い匂いがした。香織の匂いに似ているような気がした。
部屋の匂いっていうのは、住む人によって決まるんだなと思った。
リビングは殺風景な色合いで、勉強机の上には字でいっぱいのノートが広げてあった。本棚には小難しい本がびっしり並んでいた。
ヌイグルミの一つも置いておらず、およそ女の子らしいところなどない部屋だ。
「いい部屋だね」。進之助は言った。
少なくとも香織さんらしいなと思った。
真面目で、勤勉で、努力家で・・・。そういったところが、たまらなく好きなのだ。
「ネズミが出るけどね。田舎じゃ見ないくらい、デカいのが」
「マジかよ。じゃ、次はネズミの駆除に来ないとな」
香織は進之助を窓のところまで連れて行くと、カーテンにそっと隙間を作った。
「見える?電柱のところ」
・・・いた。
マンションの裏には駐輪場があり、低いフェンスが設えてある。その向こうを走っている道路沿いには、民家と並んで煙草屋があり、その傍に街灯のついた電柱がある。
その真下に、この部屋を見上げている男がいた。
「あれが、そのクソ野郎か」。進之助の声は怒りで震えた。
「二週間くらい前だったかな。帰り道に誰かの気配を感じるようになったの。だけど、他におかしなこともなかったから、気のせいだと思ってた。でも、今日たまたま振り返ったら、街灯のところに立ってる姿が見えたの。見たことのある顔だった。だから私、走って部屋に逃げ込んだの。もう帰ったかなと思って、玄関の覗き窓で外を見たら、誰もいなかった。念のためと思って窓の外を見たら・・・」。香織はそのときのことを思い出したのだろう。身震いして自分の肩を抱いた。「・・・立っていたの」
進之助の頭の中で、また脳がボコボコと沸騰を始めた。
怒りとともに、胸の中に自信と使命感が生まれた。
何にせよ、こういうトラブルを解決させるなら、俺ほどうってつけな奴はいないだろうよ。
「待ってて」。精一杯優しい声でそう言って、進之助は部屋を出ようとした。
「進ちゃん!」。出ていこうとする進之助の背中に香織が声をかけた。「危ないこと、しないでね」
進之助は振り返らずに肯いて、玄関のドアを開けた。
一階に下りた進之助は、マンションの周りをぐるりと迂回するのが面倒だったので、駐輪場のフェンスを、一跳びに乗り越えた。
その瞬間、相手も進之助の存在に気付いたようだった。
二階の窓からはよく見えなかったから、ようやく顔を拝むことができた。
見れば見るほど気に食わない野郎だと思った。
きっと香織のストーカーでなくても、決して仲良くなれないタイプだ。
ひどく目つきの悪い男だ。自分では何一つ努力しないくせして、恵まれない境遇をまんま世の中のせいにするタイプだ。
例えるなら、そう、あのスミコさんのような。
「あんた、父さんと母さんの本当の子供じゃないのよ?」
年齢の差、男女の差こそあれ、ああいう目つきをした奴に、ろくな奴はいない。
もちろん初対面で名前すらも知らない相手だから、勝手な思い込みでしかないのかもしれない。だが進之助は自分の読みが当たっていると確信を持った。
よれよれになった安物のジーンズに、シミだらけのパーカー。頭は半年くらい洗ってないように脂ぎっていた。もう少し明るかったら、肩に積もったフケが見られただろう。
身長は進之助より少し低い。肩幅は狭く、胸板は薄い。下腹が若干出ている。
喧嘩になっても負ける気がしなかった。たとえナイフの一本くらい隠し持っていたとしても。
一通り値踏みを終えた進之助は、大股で男に近寄って行った。
威圧的に。
それだけで男は一歩後ずさった。
喧嘩の本質は戦意の削り合いだ。殴るのだって、その手段の一つに過ぎない。進之助は本能と経験でそのことを知っている。