涙と膿 6
泥間へ行くことに、香織は反対した。
「どうして、大学を辞めたりしたの?!」
「辞めたんじゃない。まだ入ってもいないんだ」
「だから、どうして入るのを辞めたりしたのよ!」
「俺にとって大学より大切なものがこの町にあるって、それだけのことだよ」
香織は今にも頭を抱え込みそうな様子で「あのね、そんなことしたって私は・・・」
「重い?」
「重いよ。・・・さすがに」
「大丈夫。俺がしたくてしていることなんだから、気にしないで。もしこれで振られたって、俺、香織さんのせいにしたりしないから」
香織は電話の向こうでため息をついた。
もちろん家族は猛反対した。
柔道の一件でも、その後の悪事のことでも、ほとんど怒ったことのない父、将臣だったが、これには仰天して、「お前の動機は不純だ!」とか「軽はずみに人生を左右する選択をするな!」とか「お前がやっているようなことを若気の至りと言うんだ!」と進之助を叱りつけた。
短気な進之助は頭に来て将臣と喧嘩になり、ついには決して口にしてはいけないことを言ってしまった。
「俺の人生に口出すんじゃねぇ!本当の親でもないくせに!」
その瞬間、将臣の顔から一気に血の気が失せ、死人のように真っ青になった。
父が本気で怒ると顔から血の気が退くことを、進之助はこのとき初めて知った。
将臣は震える声で言った。
「そう思うんだったら、この家を出て、何処へなりとも行くがいい!」
それから今日まで、父とは一切口をきいていない。
旅立つ日、母祥子が進之助名義の通帳をそっと渡しに来た。
「多くはないけれど・・・」
そこには、新生活を始めるのに十分な金額が入っていた。
何年も前から、積み立てられた預金通帳だった。
今更ながら自分が、実の子供である姉兄たちと寸分違わず育てられてきたということが確認できる、これ以上ない証拠だった。
進之助は自分の目に涙が滲んでいることを悟られないよう、そっぽを向きながら「母ちゃん。俺、馬鹿で・・・、ごめんな」と言った。
「だから俺、彼女を追いかけてこの町にやって来たんだ。人生計画とか将来設計とか、何もないままだけど、とりあえずのところ、今の俺に一番大切なのは彼女だからさ。
でも、一応仕事も決まったんだ。レストランのウェイターだよ。バイトだけどね。あのホテル・グロワールの最上階だぜ?たいしたもんだろ」。進之助は得意げに胸を張った。「ちょっとだけブラックだけどさ。ゼータク言ってらんないよな」
十塚はもうメモを取らず、ソファにふんぞり返って聞いていた。懐から煙草の箱を取り出し、一本咥えた。ジッポで煙草の先に火をつけながら、「あそこはシェフが変わって味が悪くなったな。高級なのがウリのようだが、まともな舌を持った奴なら、あそこには行かない。料理人を目指しているんだったら、この先にあるラーメン屋で働く方がいくらかマシだ」
「そうか?賄いは悪くないぜ?」
そうは答えたが、そもそもこの貧乏探偵が、あんな高級レストランへ行くとは思えなかった。
泥間市には大学のキャンバスが八つもある。学生向けのアパートやマンションがたくさんあり、進之助もその一つで暮らしていた。
木造二階建てのボロアパートで、一応風呂もトイレもついていたが、雨が続くと台所と押し入れで雨漏りした。
香織が住んでいるのは、そこから地下鉄で二駅行ったところで、進之助の住むアパートよりはずいぶんマシな部屋だったが、きつい坂の上に建っていた。
マシとは言っても、鉄筋コンクリート造りの三階建てであるというだけで、オートロックの一つもついておらず、この治安の悪い町で女性が一人暮らしするには、不安の残る物件だった。
「一流企業なんだから、給料も多いだろ?もう少し安全なところに引っ越さないのかよ?」
あるとき、進之助は言った。
香織の休みはカレンダー通りだったし、進之助の仕事は土日が特に忙しかったので、なかなかスケジュールが合わなかったが、ときどき二人は一緒に出掛けた。
デートと呼べるほどのものではなかった。
買い物といっても日用品を買いにスーパーやホームセンターへ行くだけだったし、食事といっても、近所の小さな中華料理屋か、マクドナルドがせいぜいだった。
「大企業だからって、そんなにたくさん貰ってるわけじゃないわよ。まだ新入社員だし。奨学金だって、まだたっぷり返さなきゃならないんだから、もうしばらくは、あそこに住むことにするわ」
こうして田舎から出てきた今も、二人の姉弟のような関係に変化は見られなかった。
遠慮のいらない関係といえば聞こえはいいのだが、そういった関係が恋人から最も遠いところにあるということに、進之助は薄々勘づいていた。
「だけど、そんなとき、事件が起きたんだよ」。進之助は言った。
十塚はため息のように煙草の煙を吐き出して「やれやれ。やっと本題か」
「それは、まだなんだけどさ」
「あのなぁ、俺は忙しいんだぞ」
「そうは見えないな」
「いいから、さっさと話を進めな」
進之助は、ここからが重要なんだぜと言わんばかりにコホンと咳払いして、人差し指を立てた。
「二週間くらい前の話だけどさ。夜遅くに彼女から連絡が入ったんだ」