涙と膿 5
「香織さんは姉貴の同級生。俺より五つ年上で、うちのすぐ近所に住んでた。デブで瓶底眼鏡の姉貴と違って、綺麗で何でもできた。人望が厚くてさ。小学校も中学校も生徒会長をやったんだ。俺、小さい頃から彼女に夢中でさ。だから大きくなったら彼女と結婚して、世界一幸せにしようと思ったんだ。
だけど彼女にとったら俺なんて、全然ガキで相手にされなかった。小さい頃から知っているってのも考えもんさ。五歳差の恋愛なんて、大人になった今じゃ、まったく何でもないけど、子供の頃の五歳差は、ほとんど大人と子供みたいなもんだろ?なんてったって、彼女たちがアイドル歌手に熱を上げて、恋なんてものに興味を抱き始めた頃、俺はまだ週に一回はパンツにウンコしてたんだからな」
新田香織の父親は和歌山県警に勤める警察官だ。
身長は高いが、ほとんど病的なほどに痩せていて、顔色は青白く、噂ではかなりの神経質らしい。娘に対する溺愛ぶりはすさまじかった。
こんなことがあった。
あるとき、進之助が住む分譲住宅地に救急車が入って来た。
夕方の、ちょうど夕食の支度時だったので、近所の奥様方は皆道路に出てきて、野次馬をはじめた。
まだ小さかった進之助が母親に連れられて外に出ると、香織の家の前に救急車が停まっていた。
既にサイレンは消されてあったが、赤い回転灯がクルクルと回っていた。
「新田さんちじゃない。どうしたのかしら?」。近所のおばさんたちが噂する声が聞こえてきた。
「なんでも香織ちゃんが、工作用のハサミで手を切ったらしいわ」
「工作用のハサミで?救急車を呼ぶくらいだから、よっぽど酷くやったのね。動脈でも切っちゃったのかしら?」
「いいえ。指先をちょっと切っただけよ」
「わかった!あそこのお父さん、過保護だから、びっくりして救急車読んじゃったのね?」
「それも違うのよ。ほら」と、おばさんは指さした。
香織の家から担架で運び出されるのは小学生の女の子ではなく、大人の男だった。
「ご主人さんじゃない!」
「なんでも、香織ちゃんの指から血が出るのを見て、ひっくり返ったらしいわ」
「あらあら」
進之助は、あんなんで平和を守れるのかと、常々疑問に思っていた。あれで守れるのなら、うちの父さんが警察官をやったら、犯罪なんて根絶してしまうだろう。
高校までは実家に住んでいた香織だったが、東京の有名大学への進学が決まり、家を出ることになった。
東京へ旅立つ前の晩、中学一年の進之助は彼女の家へ行った(と言っても、進之助の住む家から五十メートルと離れていないのだけれど)。
いつもは夜九時ともなれば、家の灯がついているのに、その日に限って、新田家は留守だった。
もしかしたら予定が変わったのかも。そうすると、香織さんはすでに東京へ・・・。
そんなことを考えていると、彼女の父親の運転するワゴンがファミリーワゴン帰って来た。
後で知ったところによると、翌日東京に旅立つ娘のために、送別会も兼ねて外食してきたのだった。
カーポートに駐車した車から、まず香織の父が降りて進之助に声をかけた。「進之助くんじゃないか。こんな時間にどうしたんだ?」
不機嫌そうに訊ねてきた。
そもそも、進之助はこの父親と折り合いが悪い。
一方は真面目一徹の警察官。
一方は準不良少年。
仲の良いはずがない。
おまけに娘を溺愛する父親と、あわよくばその娘と仲良くしたいと思う近所の少年。
父親からしてみれば、黒毛和牛A5ランクの霜降り肉とハエの組み合わせだ。叩き潰したくて仕方なかっただろう。
後から香織の母と祖母が降り、弟の紀之が降り、最後に香織が降りてきた。
「進ちゃん?」。進之助のただならぬ様子を見て、香織が心配そうに顔を覗き込んできた。
暗い田舎の道路沿いで、門灯のわずかな灯に顔を照らされて二人は向かい合っていた。
「結婚してくれ」。彼女の家族一同の前で、進之助はいきなりプロポーズした。瞬間、香織の父親が悲鳴とも呻き声ともつかない声をあげたが、構わなかった。「高校を卒業したら、必ず東京に行くよ。俺、香織さんみたいに頭良くないからさ。大学なんて行けないかもしれないけど・・・。それでも必死に働いて、香織さんのこと絶対幸せにするから。だから、結婚してほしい」
香織は「フフッ」と笑って、自分より10センチは背の高い進之助の頭に手を伸ばし、まるで子供にするように撫でた。
進之助は頭を振って、その手をどけさせた。「子供扱いしないでくれよ!俺、本気で・・・」
香織は大きく肯いた。「進ちゃんの気持ち、すごく嬉しい。でも、正直に言っちゃうと、あなたのことを、そんな風には見られないかな。だって、小さい頃から一緒に育ってきた弟みたいな存在だもの」
十三歳の進之助は大きなショックを受けた。
人生に一度だけ使えるリセットボタンがあるならば、彼はこの瞬間押していただろう。
「だけど・・・、俺は・・・」。言葉が出てこなかった。
香織はフフフと笑った。
そしてわざと意地悪い顔をして「だって、あなたまだ十三歳じゃない。そんなんで私のお眼鏡に叶おうなんて、いくらなんでも無理な相談だわ。私の結婚相手になりたいっていうのなら、それ相応の男になってもらわないと困るわね。
幸いあなたには、この町で過ごさなきゃならない時間がまだたっぷり・・・、たぶん五年くらい残ってるじゃない。だからその間に、私に相応しい男性になってよ。私それまで、彼氏なんて作らずに待ってるからさ」
その日から、進之助は猛勉強を始めた。
それまで、勉強には苦手意識があったため、ろくに机に向かったこともなかった。学力的には一般の中学生には遠く及ばず、単純な四則演算すら怪しい始末だったため、最初の頃は難航した。
が、なりふり構っていられないと思ったときの人間は強い。
あまり性格が合わない姉や兄に馬鹿にされながらも、質問を繰り返し、高校進学も危ないと言われていた進之助は、どうにか中堅クラスの公立高校に入学した。
持って生まれた性格は簡単に変えられるものではないから、高校のときにも街中で喧嘩して補導され、三週間の停学を食らったりもしたが、進之助はチャンスと思い、その期間を勉強に費やした。
まるで生まれ変わったような進之助の姿に両親は喜び、進学したいなら援助すると言った。
しかし進之助は頑として受け入れなかった。
そのころ、姉志穂は大阪の芸術大学に通っていたし、兄啓一もまた大学生だった。
つまり、金などはいくらあっても足りなかった。
夫婦ともに教職に就いている日野江家は経済的には豊かな方だったが、両親にこれ以上負担はかけられないと思った。
もちろん自分が彼らの実の子供でないという負い目があったことも否定できない。
やがて進之助は志望校に合格し、春から東京で大学生になることが決まった。
香織が通うところほどの有名大学ではなかったが、進之助が通う田舎高校では始まって以来の快挙であったらしく、校長がわざわざ家までお祝いに来るほどだった。
両親はもちろん、姉兄も喜んだ。
子供の頃から犬猿の仲で、必要最低限の会話しか交わさなかった兄、啓一が進之助の肩に手を置き「よく頑張ったな。お前はやるときはやる奴だと思っていたよ」と言った。
高校の体育祭で、百メートル走の校内記録を塗り替えて優勝したときや、町で一番強いと評判の不良をタイマンで負かしたときには、少しも褒めてくれなかった兄が、そんなことを言ったのだ。
個性だとか、何だとか言っても、結局学生が評価される基準は勉強の出来不出来なんだなと思った。
香織は前年同じ大学で修士課程に進み、将来は研究職に就きたいと言っていた。
春から東京で、愛する人の傍で、バラ色の大学生活が約束されていた。
だが、誰も予想しなかったことが起きた。
香織が突然大学院を辞めて、就職を決めてしまったのだ。
しかも配属は都内ではなく、この地方都市、泥間市だった。
香織ははっきり理由を言わなかったが、どうやら研究室内の人間関係が原因らしかった。何処にでもある他愛ない確執の一つだったが、そんなものでも彼女の人生を狂わせるには十分だった。
詳しく言わなかったのは、本当のことを知ると、進之助が何をやらかすか分からないからだろう。
もし香織が「ムカつくあいつの鼻を曲げてきて」と言ったなら、進之助は喜んで東京まで赴き、警察沙汰になることも厭わず、鼻がきっちり真横を向くまで調整して殴っただろう。
だが香織はそういった性分ではなかったし、進之助のことを本当の弟のように大切にしていた。
そして進之助もまた、香織に深く訊くことはしなかった。
深く訊かないまま進之助は進学を取り止め、泥間市行きを決めてしまった。