涙と膿 3
事務所の中には男が一人、応接セットのソファに、こちらを向いて何事もないように座っていた。
「待て!話せばわか・・・」
逆上して髪を振り乱した女が、浮気男に馬乗りになって首を絞めている図を思い浮かべていた進之助は、拍子抜けした。
男は怪訝そうに進之助を眺めている。
が、この男。この男だけなら、まさに進之助が思い浮かべていた通りの風貌をしている。
不真面目が服を着て歩いているような、いかにも信用のおけそうにない、スケベで女など平気で騙しそうな・・・。
眉が吊り上がり鋭い目をした、色黒の男だ。長い黒髪をオールバックにしている。口の両側がクイッと上がっていて、一生消えない薄笑いが浮かんでいる。
白のスラックスに黒いワイシャツを腕まくりし、似合わないピンク色のネクタイが首からぶら下がっている。年の頃は三十代半ばくらいに見えた。
女の声はもう、しなかった。
「お客さんかな?」。男は言った。
ドアの前で聞いた、あの声だった。少し顔色が悪いように見えるが、少なくとも死にそうには見えない。
進之助は無視して、事務所の中を見渡した。
黄色のソファとローテーブルの応接セット、事務机と書類棚。最新式のコーヒーメーカーと伏せられたカップ。事務机の向こうの窓は、五センチばかりすけてあった。
窓から外へ出たのかもしれないと思った進之助は、ズカズカと入り込んでいって窓に手をかけた。
「おい!」。ひどく慌てた様子で男が叫んだ。
構わず進之助は窓を開けると下を見た。四階のここから、下まで遮るものは何もない。リヤカーに空き缶を満載したホームレスが細い路地を通って行くのが見えた。
男は立ち上がり、進之助を指さした。
「いいか。ゆっくりと窓から離れるんだ。間違っても閉めたりするんじゃないぞ。そんなことしやがったら、ただじゃおかないからな」
「女」。窓がどうしたと思いながら、進之助は言った。「ここにいた女は何処へ行った?」
男は口元に薄笑いを浮かべ、片方の眉をクイッと上げると、ネクタイに指をかけて左右にゆすって緩めた。
「何のことを言っているのか分からないな。ここには俺一人しかいないが?」
人を食ったような口調だった。嘘をついてこちらを騙そうとしているというよりは、むしろ嘘を暴いてみろと挑戦しているようにさえ見えた。
こうなったら、意地でも女の行方を突き止めてやる(本来行方不明者を探すのは探偵の役目なんだが)。
進之助は事務机の陰を覗き込み、ソファのクッションを外した。書類棚の中身を引っ張り出し、さらに棚ごと動かして隠し通路がないか調べた。
「おいおい。片づけてくれるんだろうな」。男がうんざりした様子で言った。
進之助は振り返らず、ハァハァと肩で息をしながら「あんたが、十塚か?」と訊いた。「それとも十塚は女の方か?」
「俺が十塚十郎だ。で、お前は客か?それとも俺の事務所を荒らしに来た頭のおかしなガキか?」
「ガキじゃない。日野江進之助だ」
「変な名前だな」。十塚はソファのクッションを直すと、ドカッと腰をおろした。
「変な名前には訳があってね。・・・あんたが一人だとしたら、ひょっとして腹話術の練習でもしてたのか?」
十塚は顔の前で指を組み、その向こうから進之助の顔を覗き込んだ。「そうだと言ったら納得するかい?」
進之助は今しがたドアの前で聞いた会話を思い出した。とても、そんな風じゃなかった。「いいや」
「だが、お前はそれを信じるしかない。肝心の女が見つからないんだからな」
「俺は間違ってない」
「間違ってるなんて言ってないさ。だが、賭けてもいいが、お前は女を見つけることはできない」
「だったら、やっぱり女はいたんじゃねぇか!」
「そうは言ってない。俺が言いたいのは、お前の負けだってことだ。いいか、ガキ。正しいかどうかなんて大人の世界じゃ意味がないんだ。とりわけ、この町じゃあな。重要なのは、勝つか負けるかだ。諦めな」。十塚は笑っているが、勝って嬉しいという風でもなさそうだった。「それより、俺に依頼があって来たんじゃないのか?」。言いながら、書類棚をもとの位置に戻した。スチール製の棚が床を引っ搔いてガリガリと音がした。
進之助は気に食わなかったが、しかし、こんなことで言い争っている場合ではないと思いなおした。
「わかったら、片づけを手伝え。さもなきゃ、依頼は受けねぇ」
十塚が書類を拾い集めだしたので、進之助は憮然としてそれにならった。
大方片付いてから、二人はソファに腰を下ろした。
「それで?」と十塚が先に口を開いた。「誰の紹介でここに来た?」
「紹介キャンペーンでもやってんのかよ?」
「広告も看板も出してないんだ。紹介しかないだろうが」
「雑賀亜理紗」
「雑賀?ああ、レイラちゃんのお姉さんか」。十塚は面倒くさそうに頭を掻いた。
アリサに対して、あんまり良い印象は持っていないなと、進之助は直観的に思った。
「受けるかどうかは、依頼を聞いてからだ。言っておくが、俺は仕事の選り好みが激しいぜ?」
「そんなんで、よくやっていけるな」
「御覧の通りの貧乏経営さ。いいから話しな。そうしないと始まらねぇ」
「わかった」と、言ってから進之助は少し考え、「何から話したもんかな。・・・実は、俺には将来を約束した女性がいてさ」
十塚は手帳を取り出してメモを取り始めた。「つまり婚約者ってことだな?」
「いや、そんなだいそれたもんじゃない。俺はプロポーズしたんだけどさ」
「奥歯に物の挟まったような言い方はよせ。彼女は受けたのか?受けてないのか?」
「受けてない。付き合ってるわけでもねぇし」
「ただの友達・・・と」。十塚は手帳に書き込んだ。「彼女の名前は?」
「新田香織。いい名前だろ?」
「名前に好みはない。美人か?」
「完璧さ」
「いいねぇ。探し甲斐ってもんがある。いつから、いなくなったんだ?」
「行方不明じゃない。ちゃんと家にいる。俺がここに来たのは、彼女を捜索してほしいからじゃなくて、彼女の様子がおかしくなった原因を探って欲しいんだ」
「ほう」と、十塚は眉根を寄せた。「どうおかしい?」
「俺というものがありながら、他の男と同棲し始めたんだ」
十塚はパタンと手帳を閉じた。「帰れ、アホ。まったく冗談じゃねぇぜ」
「冗談なんか言ってねぇよ!」。進之助は怒鳴った。「冗談で、わざわざこんな胡散臭い所まで来るかよ!」
「あのなぁ、よく聞けボウズ。フラれたことに納得がいかずに、探偵に原因を探らせようだなんてナンセンスもいいところだぜ。そんな根性してるから、フラれるんだよ!」
「俺は彼女のことを子供の頃から知ってるし、おかしくなるにしても、限度があると思ってる。とにかくただ事じゃないんだ。たぶん、あの野郎が催眠術でもかけたか、薬でも盛ったに決まってる」
「あの野郎?」
「その同棲相手のことだよ!とにかく香織さんには似合わない、腐った野郎なんだ」
十塚はボールペンの先を進之助に向けて「警察には相談したのか?あっちはうちと違ってタダで動くぜ?」
「『彼女が同棲してる男を、なんとか部屋から追い出したいんですけど・・・』って言うのか?俺の方が捕まっちまうよ」
「かもな」
「自分で探りたいところだけど、俺には催眠術や薬の知識はないからさ。プロに頼もうと思ったんだ。受ける受けないは別にして、とにかく話を聞いてくれよ」
十塚はチッと舌打ちした。
それが、あんまり不自然なタイミングだったので、進之助は違和感を覚えた。
「わかったよ。聞けばいいんだろ?」。何故だか自分の胸元に向かって、十塚はそう言った。「話だけは聞いてやるよ」
「助かるよ」と進之助は礼を言いながら、どうして客の自分が腰を低くして頼まなければならないのかと思った。
探偵というのは、何処もこういうものなのだろうか。
それとも、この男が変わっているんだろうか。
きっと後者だろう。