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涙と膿 2

 二週間後。


 地下鉄南北線、辻堂駅。


 茶色の短髪を整髪料で逆立て、左耳に銀のピアスをつけた青年が、切羽詰まった表情で額に汗まで浮かべながら電車を降りた。


 日野江進之助。十九歳。

 この泥間市にやって来て四カ月あまりになる。


 駅のホームを見渡し、この町は何処もかしこも薄汚いが、ここはまた格別だなと思った。

 地下鉄の駅は多かれ少なかれ何処でもそういうものだが、この油くさいような埃くさいような臭いは息が詰まりそうだ。

 コンクリートも黄色のライン(すでに黄色とは呼べない色をしている)も、煤のようなものでひどく黒ずんでいる。所かまわずゲロのあとがあるし、真っ黒になったガムが水玉模様を作っている。


『間もなく三番線に電車が到着します。危険ですので黄色い線の内側へ・・・』

 アナウンスが響いた。


 電車がホームに入って来るゴーという音と、ブレーキが立てるキーッという耳障りな音を聞きながら、進之助は階段を駆け上がった。


 こんな日に限って、朝から腹の調子が悪い。


 改札を抜けた進之助は、きょろきょろと辺りを見回し、トイレを見つけると中に駆け込んだ。


 予想はしていたけれど・・・。


 臭いも見た目の汚さも、これまで入ったトイレの中で最低点数を記録した。

 鏡は割れているし、壁は卑猥な落書きでいっぱいだ。二つある個室のうち一つはドアがない。残った一つも蝶番が壊れていて、今にもはずれそうだった。


 それでも背に腹は代えられないと中に入ったが、便器を見るなり、朝食った鮭おにぎりが、胃から逆流しそうになった。


 この辺りでは、便器の外に用を足す習慣があるらしい。

 和式だったのが幸いだ。これが洋式だったら、出した分と同じだけのクソがケツにひっついてきただろう。


 無論、紙などなかったが、彼のポケットにはティッシュがあった。子供の頃から腹のゆるい彼は、街角で配られているティッシュを一つか二つ、必ずポケットに入れている。


 吐き気を抑えながら、どうにか用を足した進之助は、階段を上って地上へ出た。


 古い雑居ビルが立ち並び、空には縦横無尽に電線が走っている。八月の街路樹は、青々とした葉をつけているが、育ち過ぎた根が縁石を押し上げていて、歩道はガタガタだ。

 そこかしこに、ホームレスだか休憩中の作業員だか判然としない、初老から老年の男たちが座り込み、話し込んでいた。

 何かしらの肉を焼いている屋台があり、猛烈な煙を空に吹き上げていた。


 こんな風でも、一応は市の中心地なのだ。地下鉄を出て大通り沿いに少し行けば、古い城跡のある大きな公園があり、その向かいが市役所になっている。


 かつては、もう少し綺麗な町だったらしいが、高速道路が開通して市内のパワーバランスが変わってしまったらしい。市役所を初めとする公的機関は依然、この周辺に留まっているが、主要な商業施設や企業は皆、泥間中央駅の方へ移ってしまった。


 目的のビルには、五分ほどで着いた。


 それは狭い敷地に無理矢理建てられたような、俗に言うペンシルビルというやつだった。

 古いビルだ。築年数、四十年は下るまい。六階建てで、表札が出ているのは四階だけだった。

『十塚探偵事務所』


 どうやら、ここで合っているらしいけど・・・。


 進之助は細いビルを見上げながら、住所と事務所の名前が書かれたコースターをズボンのポケットに押し込んだ。

 いつ取り壊しになってもおかしくないボロビルだ。有能な探偵なら仕事には不自由しないだろうし、儲かっているのなら、もう少しましな場所に事務所を構えるだろう。

 大丈夫かなと思ったが、他に頼るアテもない。

 進之助はボリボリと頭を掻いた。


 アリサの紹介だから、一応当たってみるか。


 雑賀亜理紗は進之助がバイトしているホテルのレストランによくやって来る女子大生だ。月に二度か三度、彼女はたいてい男連れ(相手はほとんど毎回違っている)でやってくる。

 彼女は過去に、この探偵事務所に仕事を依頼し(詳しいことは知らないが)、問題を解決したことがあるらしかった。

「腕利きというのとは、ちょっと違うし、人格的にはすごく問題がある奴なんだけどね。そういう事情なら、きっと役に立つと思うわ」

 進之助が働くホテルのラウンジで、スマホの画面に現れた住所をコースターに書き写しながら、アリサは言った。


 ボタンを押したが、四階に止まっていたエレベーターは一階まで降りてくるのにずいぶんかかった。諦めて階段で上がろうかと思った頃、チーンと音がしてエレベーターが到着した。

 乗り込んでボタンを押すと、謎の振動(震度で言えば二は下らないだろう)のあとでどうにか動き出した。

 その後も小刻みに揺れながら、ひょっとしたら止まるんじゃないか(もっと悪くすれば落ちるんじゃないか)と思うような調子でエレベーターは動いた。


 再びチーンと音がして重いドアが開き、進之助は外に出た。


 エレベーターホールを出たところに薄っぺらなドアがあり、『十塚探偵事務所』のプレートが貼り付けられてあった。

 ドアの向こう側には、破れたソファやダイニングテーブル、小さなバーカウンターと、それとセットの背の高い椅子などが無造作に積み上げられてある。まるで粗大ごみの収集日だ。家具の前には赤いスーツケースが開けたまま放り出してあった。

 窓はドアの向かい側に一つだけ。アルミのサッシに埃がたっぷり溜まっている。その先は長い廊下になっていたが、積み上げられた家具のせいで通行止め状態だ。天井には蛍光灯のジャックが二つあるが、ちゃんとはまっているのは一本きりで、その一本も切れかかってチカチカと瞬いていた。


 チャイムやインターホンが見当たらなかったので、進之助はノックしようとした。

「また浮気したわね、このロクデナシ!」

 中から女の怒鳴り声がしたので、彼は手を止めた。

「そうじゃない!誤解だ。話を聞いてくれ!」

 今度は慌てた様子で男の声がした。どうやら修羅場のようだ。

 進之助はため息をついた。


 ずいぶん間の悪いときに来ちゃったなぁ。


「あんたのつまらない言い訳はもう、たくさんよ!言ったわよね?次やったら、絞め殺してやるって!」

「待て!落ち着けって、ベティ。・・・うぅっ、く、苦し・・・い・・・」

 進之助はギョッとした。


 脳裏に翌日のニュースの映像が浮かんだ。

『探偵事務所で殺人。浮気調査のプロが、痴情のもつれが原因で』


 自業自得とはいえ、殺人を看過することはできない。


 考えるが早いか、進之助はドアを開けて事務所に飛び込んだ。

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