涙と膿 1
真実の物語を始めよう。
恐ろしくも美しく、奇想天外な話を。
我々が送るこの退屈な生活を支える現代社会というものは薄っぺらで、その薄皮一枚剥がれた下には残酷な現実が潜んでいるという話だ。
そして、そういった現実において人間というものがどんなに脆く、ちっぽけで無力かという話だ。
物語を始めるにあたって、まず一つの町を紹介しておかなければならない。
泥間市という町だ。ダルマでもノロマでもなく、ドロマと読む。
日本列島、本州島の内陸部に位置する大都市だ。人口140万人、面積は480平方キロメートル。東京二十三区のうち、南の三つ(大田区、世田谷区、品川区)を抜いたくらいの広さだ。
ただし、面積の大部分を山林が占めているため、市街地の人口密度は東京を超えると言われている。
特筆すべきはその異常ともいえる治安の悪さで、人口あたりの犯罪発生件数七年連続第一位。殺人等重犯罪発生件数十一年連続第一位。年間の行方不明者数六年連続第一位。全国住みたくない町ランキング二十四年連続第一位と、不名誉な記録をいくつも樹立している。
この町で生まれ育った人の中には、この町を愛している者もいる。心の底から素晴らしい町に変えていこうと考え、活動している者もいるにはいる。
だが、そういった感情は、たとえば虐待を繰り返す親に対して子供が抱く愛情と同じようなもので、刷り込みとかインプリンティングと呼ばれるものでしかない。
とにかく、ひいき目に言っても腐りきった町だ。
この町に住む者に対して私が何かアドバイスをするならば、一刻も早く別の所へ引っ越せというだろう。私が知る限り、この国にここより酷い所はない。
それでも多くの企業がこの町に支社を持ち、人口は減るどころか、うなぎ上りに増えている。
人が自分の住む場所を選ぶことは、当然の権利だと思われるが、多くの人はその権利を行使しようとしない。
ちょっと待ってくれ。泥間市?そんな町聞いたことないぞ。真実の物語だって言ったじゃないか。
そういう人もいるだろう。
あるいはスマホ片手に、検索したが、引っ掛かってこないぞという人がいるだろう。
だから、何だ?
そういう人は私の話より自分の記憶やインターネットの検索エンジンを信用しているだけで、それが正しいという保証はない。
その町は存在しているにも関わらず、誰か(たとえば政府なんか)が隠蔽しているせいで、そう簡単に探せなくなっているのかもしれない。
今流行りのパラレルワールドというやつで、存在はするが、それは君たちが暮らすのとは別次元のことなのかもしれない。
それは冗談として、あまり詳しい説明はご容赦願いたい。たとえその町が架空の町であろうとも、この話が〝真実の物語〟であるということには違いがないのだ。
少なくとも私は知っている。
その町のことを。
その町で暮らす人々のことを。
過酷な運命に呑み込まれ、命を落とした者たちのことを。
絶望に打ちひしがれながら、それでも前だけを向いて突き進んだ者たちのことを。
大きな哀しみを胸に秘めながら、他人の涙を拭うために力を尽くした者たちのことを。
そして自らの身も顧みず、世界を救おうとした者たちのことを。
彼らの話をしようというのだ。
物語はいくつものエピソードで構成され、それぞれに主人公が存在する。
同じ主人公が複数のエピソードを担う場合もあれば、一つのエピソードに複数の主人公が存在する場合もある。
たとえば、この男。
今回の主人公だ。
年齢は三十前後。無造作に伸ばした髪をセンターで分け、後ろだけゴムで束ねている。丸顔で眉は太く、髭の剃り跡が青い。顔にはまだ新しい傷があった。口の端が青く変色し、唇の一部が切れていて、さらに前歯が一本欠けている。ギョロ目で、鼻は低く横に広い。
とりたてて太っているわけではないが、下腹がぽっこりと飛び出している。猫背でなで肩だスポーツなどを経験してきた体格ではない。どちらかと言えば、一切経験してこなかったものの体格に近い。身長は170いくかいかないかだろう。
裾を折り返した紺のジーンズに、よれよれのシャツを着ている。真新しい白いスニーカーを履いている。
とりたててブサイクというわけではないが、何かしらの魅力があるわけでもない。街ですれ違っても、次の瞬間には記憶から消えている類の人物だ。
北村章夫という名前だ。
もうすぐ夜の九時になる。ワンルームのアパートの一室にある、台所の前で呆けたように立ちすくみ、ついさっき玄関から入って来た女性を出迎えるように立っている。
女性は黒のロングヘア―。
グレーのスーツを着ている。
鼻筋が通り、眉がきりっと引き締まった美人だ。芯の強そうな印象を受けるが、まだ若い。二十代前半。せいぜい半ばといったところか。
女性は下駄箱の縁に手をかけて体を支え、ストッキングを履いた足の踵からパンプスを片方ずつ外した。
北村は靴を履いている。屋内にいるにも関わらず、だ。
女性はほんの70センチ前にいる北村の姿に気が付いていない。
なぜなら、部屋は真っ暗だ。
ずっと暗闇で彼女の帰りを待っていた北村は闇に目が慣れているが、明るい廊下から入って来たばかりの彼女は、ろくに部屋の中が見えていない。
さらに言えば、北村は彼女の名前が新田香織であることを知っているが、彼女の方は彼の名前を知らない。
ここは彼女が一人で暮らす部屋で、彼女はここに北村がいることを知らない。
北村章夫は新田香織のストーカーだ。
香織は手探りで電灯のスイッチを入れた。
部屋がパッと明るくなった。
最初、香織は北村の姿を見ても無反応だった。
まるで彼がそこにいるのが当たり前であるかのように。
「なぁんだ。来てたの?電気くらいつけなさいよ」
などと言い出しそうだった。
少なくとも、北村にはそんな風に見えた。
しかし、すぐに勘違いだと気が付いた。
彼女は北村を見ていなかったのだ。顔は彼の方を向いていたものの、目の焦点はもう少し先の空間に据えられていた。
眼球と瞳孔が動き、やがて彼女の目の焦点が北村に合うのが分かった。
それでも一秒か二秒、彼女に反応は見られなかった。
北村は照れ笑いを浮かべ、「やぁ・・・」と言った。
香織の顔がみるみる歪み、同時に胸いっぱいに息を吸い込んだ。
悲鳴が上がるものと思い、北村は身をこわばらせた。
しかし、予測していたようなものは聞こえてこなかった。
恐怖のあまり香織の声は掠れ、彼女は過呼吸を起こした。
北村は必死で弁解した。
「ごめん、ごめんよ。驚かせてすまなかった。香織さん。頼むから落ち着いて、話を聞いて欲しいんだ」
香織は浅い息をゼェゼェと続けながら、恐怖に満ちた目で北村を見た。
目は語る。
ドウシテワタシノナマエヲシッテイルノ?
コワイコワイコワイコワイコワイコワイ・・・。
彼女は胸の苦しさに耐えながら、果敢にも、もう一度息を吸い込んだ。
今度こそ悲鳴を上げられるに違いない。
すぐに、近所に住む人たちが押し寄せてくるだろう。
北村は焦った。
僕は取り押さえられ、警察に突き出される。
嫌だ!犯罪者になんてなりたくない!
僕が何をしたっていうんだ!僕はただ、彼女にこの気持ちを知ってほしかっただけ・・・。