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雨音

作者: 伽藍 芥











いつしか雨が降り始めていた。






キャラバンの馬車、皮の屋根をばしばしと雫が叩き、重たそうにたわんで来る天井を時折黒髪の少年が剣の柄で無表情に押し上げる。途端天井から流れる滝のような水音にびっくりして、彼の傍らの幼い少女が膝に乗せたネコを転がしながら外を覗こうと窓へと近づいた。

「フィラリス、濡れるよ」

まろやかなテノールの声が優しくたしなめると、幼い金髪の娘は素直にごめんなさいと謝って持ち上げかけた窓の覆い布を元に戻す。その様子を赤い髪の少女が笑いながら見ていた。

オレンジ色のランプが揺れている。馬がのんびりと足を進め、街道の濡れた芝を踏む音が雨音に紛れて消されていく。

キャラバンの隊列は、徒歩の数人の衛士…勿論この旅一座のメンバーであくまで有志、交代制…といくつかの荷馬車で構成されている。女や子供は荷馬車に荷物番として乗り込み、煮炊きをしたりと男達の世話をする。無論街に着いて市を開いたり芸を見せるようなときには男女に差もなく皆がそれぞれにそれぞれの自慢の技術を活かして一丸となり稼ぐのだが、こうした移動時にはどうしても男性の力に頼るところが大きい。


「……こう雨続きだと、移動も大変ですわね」


雨音にしばらく耳を傾けていた赤い髪の少女が呟く。御者を引き受けている老人の身を気遣っているらしいがいまいち素直じゃない言いぐさだ。

「仕方ないよ。天候は僕らには左右できないんだから」

その様子を見て、銀の髪を背に流し緑の紐で軽くくくった穏やかな風貌の青年が姪の幼子をかまいながら苦笑した。妖精族の一員で長寿、一座には彼女が産まれたときから居るらしいこの青年にはどうも、何もかもが見抜かれている。苦笑する青年に赤い髪の少女…エクセリーヌはなんとなくむっとして、いー、と歯をむき出しあかんべをしてからごろりと横になった。

「あたしにだって、馬車の護衛についたり、手綱を操ったりくらいは出来ますのに」

座長の娘であるエクセルは、母親に似て人を操るよりも自分が動きたいタイプらしい。人任せにするのが嫌いで、座の人間皆が好きで、だからこそ役に立とうとするのだけれどいかんせんまだ女でこどもだ。一人前に働けると云うにはまだまだ遠い。

「役に立てると思うんだけど、こうしてると何か、まさにお荷物ですわね」

ぼやきながら、一緒に積まれた道具類を撫でる。荷物と一緒に詰められたまま幾日も過ごしているのがどうにも不満らしい。


彼女と、隅に座って黙したままの黒髪の少年のふたりは座でもっとも剣技に長けた人間に直談判して無理矢理弟子入りした甲斐もあり、その歳の人間にしてはそこそこ戦える。エクセルはまだ17歳になったばかりだが一人前に槍を軽々振り回すし馬だって乗りこなす。

それでもさすがに大事な興行道具を預けるのには若すぎるのだろう。それに彼女は座の次期頭首だ、何かあったら一大事というのもある。何せ本人はまるでそこのところが無自覚なのだから。

「エクセルは大事な次期座長だからね。完璧に乗りこなせたとしてもサウラが許さないよ」

やれやれと首をすくめて青年は銀髪を揺らしながら立ち上がり、荷物の中から毛布を取り出した。冷えてきた馬車の中これから必要となるものだ。夜がすぐそこまで近づいている。

「そこですわ!」

腕を組んでいたエクセルは言葉に顔を跳ね上げ青年をびしっと指でさす。

「母様は過保護すぎるのですわ。子供はいろいろ経験させないと成長しないというのに」

得意げに云っている頭上からばさりと毛布を投げ寄越され、エクセルは毛布をかぶったまま上目遣いに青年を睨んだ。不満げな彼女にちらと視線をやってから、黒髪の少年にも毛布を渡す。

「じゃあ聞くけど、フィラに荷運びとか乗馬とかがもし出来たとして、君はさせられる?」

「うっ……」

「サウラもそんな気持ちなんじゃないのかなと思うんだけど」


青年の言葉に、いつの間にか眠ってしまったらしい半妖精の幼い娘…フィラリスを見てエクセルは口をつぐんだ。フィラはぺろんと可愛いお腹を出して、ごとごと揺れる馬車の床、ネコと一緒に既にすぅすぅと寝息を立てている。

「わかりましたわよぅ」

10に満たぬ幼子を引き合いに出されてしぶしぶ引き下がり、彼女は前髪を溜息混じりにかき上げると眠っているフィラリスの小さな躯を抱き上げて毛布でくるんだ。


雨はまだ降っていたが、ざあざあからしとしとにいつしか雨音が変化している。

もう少し経てばいったんは止んで、三日ぶりくらいに外へ出られるかも知れない。


窓の覆いを少し開けて外を見れば、曇り空の向こうにわずかに晴れ間が見える。窓を元に戻してから、眠ってしまったフィラリスを毛布にくるみ透き通る声で子守歌を歌い灰色の猫を撫でているエクセルを穏やかな目で眺めていると、御者席のほうから声がした。

「アレクセイ、ちょいといいかね」

「はい?」

御者をしているザジから声をかけられ、銀髪の青年は長い耳をひくんと動かしつつ御者台に続く幌をわずかに上げた。緩やかに吹き付ける風が彼の顔に細かい水滴をつけていく。

「めくらんでも良い。雨が入るといけないからね。もうじき晴れるだろうから、そうしたら一度休憩もかねてこの先の泉あたりでのんびりしようかと座長に提案してみたんだが」

どうも中のやりとりが聞こえていたらしい。意外にも耳のいい御者に苦笑して、アレクセイは彼の思いつきに賛同した。

「助かるよ。エクセルがもう暴れたくてうずうずしてるもんだから、困ってたんだ」

「あっははは、そりゃ難儀だ。エクセ嬢ちゃんのためにも早いところ晴れて欲しいもんだな」

髪を朝露のように濡らす雨。雫を片手で拭って、青年は雨に濡れる暗い森と黒い空、その向こうに見える晴れ間の金色の光の筋を目を細めて眺めた。




ザジ爺さんの提案はその場で受け入れられ、座長である女性は晴れ間が見えた途端にキャラバンの歩みを止め真っ先に幌を上げた。

娘よりもずっとうずうずしていたらしい彼女は勢いよく馬車を飛び出すと、護衛をしていた男衆に元気よく礼を言い荷馬車一つ一つに「出ておいで」と声をかけに回る。

全ての馬車に声をかけてしまってから、最後に彼女は愛娘の居る馬車へと足を向けた。

「さーエクセル。出といで、お待ちかねの休憩タイムだよッ」

長い赤髪を青いバンダナで縛り腰に剣を下げた若き座長は娘の居る馬車の後部の幌を破れんばかりに勢いよく開けた。

「母様っ」

馬車が止まったときから外に出たくてたまらなかったらしい愛娘が飛びついてくるのを受け止めつつ、彼女は同じ馬車にいる子供達にも同様に笑顔を向ける。

「アレク、ツァン、この子のおもりご苦労様。さぁ、フィラも出ておいで。草木がまだしっとり濡れてとても綺麗だ」

「ありがとサウラ。もう一時間遅かったら僕らはエクセルに殺されてたかも知れないよ」

「…まったくだ」

エクセルに続いて苦笑混じりにぼやきながら出てきたアレクと黒髪の少年…蒼流ツァンリウの言葉に、先に降りていた一座の人間がどっと笑った。さすがに赤面してエクセルは母親の影に身を隠す。

アレクの腕に抱かれた座で一番小さな女の子が笑い声に目を覚ましきょときょとと周りを見るのを、エクセルの代わりに蒼がそっと髪を撫でてあやした。

幸せそうな声が森の中を、賑やかに彩っていた。





「それにしても長い雨だったな」



座の皆が思い思いに躯を伸ばしつかの間の安息を楽しんでいるのを、自分ものんびり体を横たえながらまだ若い女座長は眺めていた。傍らに、彼女にとっては父親代わりでもある妖精の青年を伴っている。

「本当だね。キノコが生えるかと思ったくらいさ」

「あはは」

赤い長髪が若草の上でうねっている。血のような赤が緑に映える。それは共に命を司る色だ。

「娘の世話、いつもありがと。大変でしょ、あれはどうも私に似たようだ」

苦笑しながら座長は草の上で槍の稽古に余念がない娘の姿を目を細めて見た。少女はいつも懸命にあらゆる技を磨こうとして、こういう休憩にもほとんど休んだことがない。

つきあう師範も大変だが、周囲の心配をよそに師弟はどうにも楽しそうだ。エクセルと蒼という二人の若い生徒をあしらいながら、もうかれこれ一時間あまりあぁしているが、師であるゲイルは時間を気にもしていない。

「サウラの小さい頃そっくりだよ。じゃじゃ馬で暴れん坊で加えて料理がからきし」

エクセルを眺めてアレクも傍らの座長に答える。その言葉が耳に届いた途端吹き出すようにして笑い、サウラは剣の柄で意地悪を云うエルフの脇を軽くこづいた。

「アレク、それちょっと耳が痛い」

「僕は脇腹が痛いです、座長」

楽しそうな笑い声にエクセルが一度母親のほうを振り返ったが、その隙にゲイルに槍でべしっとやられてかーっと顔を赤らめるとすぐに訓練に戻っていく。


「あのくらいの歳に、私はアレックスと結婚したんだったな」

「そうだね」


サウラすら産まれた時を知っているというアレクセイが、彼女の呟きに懐かしそうに目を細めて相槌を打った。アレックスはあとから一座に入った若者で、とても気が優しく、サウラはすぐに一目惚れて結婚した。

それから半年もしないうちに彼は慣れない剣を取り、一座を襲った夜盗と戦ってあっけなく散ってしまった。それでも優しかった彼のことはあのころから座にいる人間ならば皆憶えている。

「―――あの娘が居てくれて良かった」

アレックスの死後、絶望したサウラは何度か死を考えた。そのころにふと当時座長だった母から、今傍らにいるこのエルフとの恋の話を聞かされた。触れられる恋と触れられぬ恋、一度きりの逢瀬と百年の添い寝ではどちらが幸せでどちらが辛いのだろうね、と。

その答えを考え始めた頃、腹の中に命が宿っていることを知った。一座の皆に励まされ、苦しみながら産み落とした娘は今、元気に、愛しい人の面影を留めながらすくすくと育っている。


「エクセルはアレックスにもよく似てるね。心が強くて不器用に優しい」

「そうかな?…だといいんだけど」

アレクはエクセルとサウラの二人を心から愛していた。遠い昔に愛した女性…今は亡き先代の影を血族である彼女たちに重ねているのかも知れないが、彼は時には兄のように、父のように彼女たちを慈しむ。その愛情にはいつだって嘘はなかった。

エクセルがアレクの視線に気づいて遠くから手を振る。蒼がジェスチャーで「君も来ないか」と誘ってきたがアレクはやんわりと断った。争いごとには昔から、体力的にも精神的にもどうも向かない。


「もし…これから先私に何かがあったら、あの娘をどうかよろしく頼むよ。」


不意に、寝転がり空を見上げたままサウラが呟いた。

「サウラ?」

訝しみながら見下ろすアレクの視線に真っ向から向き合う形で見つめ返し、サウラはまじめな表情で言葉を続ける。“可愛いサウラ”ではなく座長としてのその言葉をアレクもまた真剣に聞いた。

「いずれね、一座はあの娘に預けるが、あの娘はアレクに預けておこうと思う。あの娘にはまだまだ頼る人間が必要だけど、いざというときには私か貴方しか頼らないようだから」

「……うん」

「まだ先のことではあると思うけど、念のためね。アレックスのように私も、いついなくならないとも限らない」


アレックス。出逢ってたった半年で死んでしまった彼女の夫。

それでも今もなお、18年が経っても忘れ得ぬ最愛の夫。辛いときはいつも記憶の中の彼の面影に道を尋ねて、サウラは母の亡き後も座長としてここまで来た。

そして今、成長した娘の姿にふと考える。もし私が命を落としても、自分がそうであったようにあの娘も誰かと寄り添い、何処にいても良い、きちんと己の道を歩んでいければいい。一座のことも、重荷にしないで……ただひとりの女として。それだけをサウラは願う。母として。

「了解。だけど」

アレクはサウラの突然の願いに苦笑しながら、念を押した。

「そうならないように努力はして欲しいな」

「無論、くたばるにも隠居にも早いわよ。まだ三十路も半ばなんだからね」

「ん、ならよかった」

アレクにとってもエクセルは孫であり、娘でもあり、妹のような存在でもある。サウラがまだまだ現役で居るつもりなのを確認すると、同じ保護者としてアレクは彼女に同意し、約束の指切りをした。

「あぁそうだ。君もね、辛いときは僕や一座の皆をもっと頼ってくれないといけないよ。ひとりで背負わないで……アレックスの代わりにはとてもなれないけれど、一座の皆はだれも、君のファンであり恋人なんだから」

「ありがとう」

サウラはアレクの言葉に晴れやかに笑った。彼にとっては一座の誰よりも美しく見えるその笑顔を、アレクは目を細めて眺めた。


その約束が早々に果たされることになるとは夢にも思わずに、戯れ言めいた口約束だけをさらりとかわすとサウラは身を起こし、腰や背についた草片をぱんぱんと手で払い落とした。

「さ、そろそろ皆を集めて移動を開始しよう。今日中に国境を越えてしまいたいからね」

すくと立ち上がり、女座長はきりりとした顔で長い髪を翻し皆のところへと戻っていく。その背を見送ってから、アレクもまた立ち上がると馬たちに餌をやるため、止めてある馬車のところへと歩いていった。






キャラバンが移動の準備を整えると、またぱらぱらと雨が降ってきた。皆慌てて馬車に飛び乗り、護衛の男達は皮をなめした雨よけのローブを身につけ、御者は馬の尻に軽く鞭を入れた。

轍がきしんだ音を立て、再び森の道を歩み始める。

馬車の中では子供達が、何をするでもなく馬車に揺られている。蒼はまだ人間相手には使ったことがない愛用の刀を磨いており、フィラは猫とじゃれている。

エクセルは訓練疲れか、荷物にもたれて眠ってしまっていた。

その躯に毛布を掛けてやり、アレクは、先程聞いたサウラの言葉を心の中で何度となく反芻していた。



雨が、降っている。



不意に。外で何事か騒ぎが起こり、慌てて出ていこうとするエクセルを留めながら蒼が様子を伺うと、どうも獣に追われた男性を保護しているところだったようだ。サウラは怯えた様子の男を暖かく受け入れると、荷馬車のひとつに乗せてやることにしたらしい。男が何度も礼を言うのを「良いって良いって」と明るく笑い飛ばしながら、彼女もまた自分の馬車へと戻った。

それを確認し蒼も馬車へと入った。興味津々なエクセルに仏頂面で説明していると、馬車ががくんと揺れた。キャラバンが再び進み始めたようだ。

「もうじき国境を越えるね」

アレクが呟いた。御者のザジがそれに何事かいらえを返している。

やがて馬車は国境を越えた。雨はまだ降り続いていた。






それから、さらに何日かが経過した。






真夜中のことだった。突然何事か大きな炸裂音がして、激しい馬の嘶きと共に馬車が止まった。

何人かの人間が馬車から飛び出す。サウラもまた即馬車から飛び降りた。

「何事だ?!」

襲撃かと警戒した一同の前に、武装した一団が並んでいた。

夜盗かと思ったが、それにしてはちゃんとした鎧に盾を手にしている。統率の取れた動きはただの強盗などでは決してない。何より手出しをしてきたのは最初の砲撃一度きりで、今はただ盾をこちらに向けて牽制しながらただ様子を伺っている。

「あなた方は何者だ?我が一座を襲撃した理由をお聞かせ願いたい」

その様子を見て取って、護衛の男達が護る中、サウラは謎の一団に向けて声を上げた。


荷馬車からは外の騒ぎに女達も心配そうに顔を出している。エクセルもまた幌を上げ、遠巻きに母の姿を見守っていた。

「……貴女が座長ですか」

「そうだ」

一団の後方から声がした。ひとりだけ、更に立派な鎧をまとった男だ。狡猾そうな笑みを浮かべている初老の男だった。一目見て思った。何処かいけ好かない。

「悪いが、貴女の一座に密使の疑いがかかっている。調べさせていただこう」

「密使?何を莫迦な」

いわれのない疑いを突然かけられ、サウラは困惑した顔のまま容疑を否定した。彼女の言葉に一団の長らしいその男は唇に薄笑いを浮かべ、抗議を軽く無視して部下に指示を出す。

「否定されるもよし、調べれば疑いはすぐに晴れる。」

制止するキャラバンの男達に武器を突きつけ、銀鎧の兵士達がいくつかの荷馬車に乗り込んだ。突然見知らぬ兵士に踏み入られ驚いた女達の悲鳴が聞こえてくる。

「女には手を出すな!」

サウラの凛ととした声に初老の男は喉の音で笑うと、

「そんな真似はしない。ただ調べさせて貰うだけですよ」

猫を撫でるようないやらしい声音で雨に濡れる麗しの女座長を宥めた。


やがて兵士のひとりが声を上げ、一つの木箱を持ってきた。それは一座で使う笛の入った木箱だが、ここ数年使える者もおらず、ずっと閉められしまわれたままの物だった。

「これに、例のものが」

初老の男は受け取り箱を開けると、中に入っていた笛を無造作に下に放り投げて底板をはずした。何か手紙のようなものがそこにあった。誰も覚えがない代物だ。あんなもの、一座の誰も入れた憶えもなければ、見覚えすらもない。

男がそれを開き内容に目を走らせた。それから顔を上げ、座長を舐めるように見る。

「ここに、証拠が」

男はその書簡をひらひらと振って見せた。誰もが知らぬ憶えもないそれを、その場で得意げに朗読する。それは内容こそ短いが、恐ろしいものだった。隣国が挟んで対岸の国へと送る、和平と、ともにここへと攻め込むことを促す書簡。そんなものには、心当たりがまるでない。


「申し訳ないがこれは、全員を拘束させて貰わねばなるまいね。場合によっては処罰せねばならないが今夜のところは荷を全て押さえさせていただき、我が城へと出頭していただくことに……」

「待ちなさい!」

何処か嬉しそうに云う領主を睨み付けサウラが声を上げた。

「何かの間違いだ。我が一座はそのようなことに手を貸さない!」

周りを囲む護衛の制止を振り切って彼女は武装一団の前に出た。真っ向からその顔を理不尽な濡れ衣を着せる領主に向けて睨み付け、彼女は言葉を続ける。

「ちゃんと調べてくれ。誰かに利用されただけかも知れないだろう。もしも座にそうしたものの手先がいるならば調べてちゃんと出頭させる。荷ももう一度調べてくれて構わないが、いきなり拘束は酷すぎる」

一座の誰もが何も出来ず、座長の姿をはらはらと見守るしかなかった。


誰の身にも覚えがないその証拠が風に翻っている。エクセルは青ざめた顔で、権力に真っ向から向かい合っている母親の後ろ姿を見つめていた。

「しかしねぇ。反逆者を野放しには出来ませんからねぇ」

「一晩時間をくれないか。座でちゃんと調べる」

「そういって逃げられてしまってはねぇ」

顎に手をやって撫でながら、面白い見せ物でも見るように領主がサウラを眺めた。

アレクが馬車の幌を上げて外に出た。サウラの近くに行こうと駆け出す。

「逃げはしない。―――それまでは、私がそちらに出頭しよう。」

「ふむ?」

「私がいなければ座もここを離れない。その間に座員が疑いを晴らしてくれるはずだ」

エクセルがアレクの後を追った。泣きそうな顔で二人を見ていたフィラがよたよたと馬車を降りようとするのを抱き上げ、蒼もまた馬車から飛び降りた。同様に座員たちがいろめきたって駆け寄ってくるのを手で制し、サウラは武装兵団に再び向き合う。

「だから猶予をくれないか」

「そうですねぇえ」

領主は睨み付けてくる座員達とサウラを交互に見てからほくそ笑んだ。

「よろしい。一日では納得しないでしょうから、三日お待ちしましょう。そのかわり三日で真犯人を突き出せなければ、国家反逆罪としてこの座長の首を落としますがよろしいか」

「そんな…!」

ひどいと口々に云う座員達をサウラは苦笑混じりに押しとどめた。

「よかろう。三日間そちらの世話になる」

座員達の反対を抑えて、サウラは凛とした声音で答え、頷いた。


領主は満足そうに彼女を見ると傍らの兵士に目配せをする。武装兵士が二人近づき、赤い髪の女座長を両側から拘束した。

「サウラ……」

駆けつけたアレクが震える声で名を呼んだ。その声に振り返れば、彼の傍らに愛娘も立っている。サウラはエクセルに柔らかく微笑んでみせた。

「エクセル」

「母様……」

「私が居ない間、お前が座長だ。アレクや皆の云うことを聞いて、頑張りなさい」

「でも母様、あたし」

「一日も早く犯人を捕まえて私を迎えに来て。待っているからね」

両側から強く腕を捕まれ拘束されながら、サウラは娘にしっかりと、けれど優しく言い含めた。エクセルは母をただ不安そうに見つめている。

もしここで自分が泣いてサウラにすがれば、母の座長としての決断が無駄になってしまうだろう。そうすればここにいる一座全てが犠牲になるのかも知れない。エクセルは母にすがりつきたくなる気持ちを必死に耐えた。その娘から、サウラは傍らの青年に視線を移す。

「アレク、娘を頼むよ」

「………」

無言で頷きながらアレクはそっと、立ちつくすエクセルの肩を抱いた。

それにすら気づかぬように、気丈な次期座長はただ泣きもせず母を見つめている。

「皆も、元気で」

一言だけ言い残し、座員たちに向けにっこりと笑って見せてからサウラは武装兵士達の間に消えた。

初老の男の号令一つ。兵士達が去っていくのを歯がみしながら見送りつつ、一座は陰鬱な気分で止まない雨の中ずっと立ちつくしていた。






兵士達の姿が消え、足音も何もかもが消えてしまっても座員達は動けなかった。

あまりにも唐突に訪れた疑惑に、ここで起きた出来事に思考がついてきていないらしかった。女達は泣いていたし、とっさに追いかけようとした男達の何人かはゲイルに力づくで止められた。

見つめる足下にたまる水たまり。女達は泣き、フィラは不安がって蒼にしがみついた。その躯が濡れないようにかばってやりながら、蒼はエクセルを見た。

赤い髪の娘はただ青ざめた顔で母の去った方を見ていた。その肩を銀の髪のエルフが抱いている。

やがて彼女は一同のほうを振り返った。硬い表情のままではあったが、母にも負けぬ凛とした声を張り上げる。

「座長が居ない間、あたしが代理を務めます。とりあえず、立ちつくしてないで皆荷馬車へ。暖まって、ちゃんと落ち着いてからこれからの対策を練りましょう」

ようやく一同は顔を上げ、それぞれ複雑そうな顔をしてふらふらと荷馬車へ戻っていった。

雨はいっそう激しさを増し、荷馬車を容赦なく揺らした。集まろうにも場所がなく、結局そのまま会合も出来ずに一時間が過ぎた。


荷馬車に戻るとエクセルはようやく震えながら涙をこぼした。恐かったのと母親が行ってしまったことに対する心配と座を背負わなければいけない重みとが彼女の中でごちゃごちゃになり、どうして良いかわからなかったところにそっと肩を抱きしめられて、彼女は馬車の中でようやくに泣いた。

心配そうに幼いフィラが裾を引いたが、構わずに泣き続けた。フィラを抱き上げてそばを離れる前に、蒼がそっと髪を撫でてくれた。そのぎこちない優しさが彼女にさらに涙をこぼさせた。

「サウラはきっと大丈夫だよ。けど彼女のためにも早く、何とかしないとね」

優しい声が耳元で囁く。泣きやむことは出来ず、嗚咽で声も出なかったのでエクセルはとりあえず何度も頷いて意志を伝えた。彼女を抱きしめたままアレクはその場に腰を下ろし、少女の髪を優しく撫でながら険しい顔で馬車の窓を見上げた。


「………セイ」

やがて、疲れて眠ってしまったフィラを膝に抱きながら蒼がアレクを呼んだ。彼もまだ15だと云うのにもうすっかり子守になれてしまっている。

「ん?」

「リンは大丈夫かい?」

いつも仏頂面のまま、前髪で片目をほとんど隠しめったに表情を崩さない蒼がわずか不安げに見つめていた。どうやらエクセルをずいぶん心配しているらしい。

「うん。泣くだけ泣いたらきっと頑張れるよ。エクセルはそういうとこ、凄いね」

「…、あの方の娘だからな」

今のフィラリスくらいの頃に拾われこの一座に命を救われた蒼にとっては、サウラは母親も同然の女性だ。彼にとっても降ってわいたこの出来事は苦渋らしい。自分よりも幼い少女を護るつもりか、それとも焦らぬようにと自分を戒めるたためにか、あれからずっとフィラの手を離そうとしない。アレクが召還している使い魔の灰色猫も彼らの傍で心配そうにフィラとエクセルを代わる代わる覗きこんでいた。

「考えたんだが」

アレクは蒼の声を聞きながら、泣きつかれて眠ってしまったらしいエクセルを毛布にくるみ傍にそっと横たえた。雨が止むまでは会合も出来まい、それまでは眠らせて置いてやっても良いだろう。

「三日前、国境越えの間際に男をひとり助けたな」

「うん」

「一度、座に入ればもう身内だ。身内を疑いたくはないが……」

「そうだね。」


三日前、国境で獣に襲われた男を助けた。サウラは震えているその男を受け入れて、この国の最初の街で降ろすことを約束し、荷馬車に乗せた。

―――そう、確か、あの笛の箱が乗っていた荷馬車に。


「疑いたくはないけれど、確かにその筋が一番濃いかもね。雨が止んだら問いただしてみるか」

「あぁ。それがいいと思う」


雨は土砂降りに近くなった。たまらんと御者席からザジが荷馬車の中に移動する。

体を拭く布と毛布を渡してやりランプの傍の場所を開けてやると、爺さんは小さく礼を言って寝ているエクセルを見て溜息をついた。

「サウラ嬢ちゃんも、大変なことになったなぁ」

「だね」

「なんとかしてやりたいが、三日で犯人を捕まえられるか……」

「やるしかないよ」

アレクと同期でキャラバン入りしたザジ爺は、長く旅をしているがこんなことは初めてだとぼやく。困った困ったと云いながらいろいろと相談している爺(ひとりはえらく若作りだが)二人に、若い蒼は溜息をつき、それからぼそりと呟いた。

「最悪、駄目なら領主の館に討ち入りだな」

物騒なことをさらりと云いのけた少年を刹那二人の年寄りは驚いて見、やがて顔を見合わせて笑った。




雨はまだ、止まない。







激しく降り続く雨の音と、雨雲に遮られた月のない夜の闇の所為で、山間から武装した夜盗とおぼしき集団がキャラバンに近づいたのに誰ひとりとして気がつかなかったのは不幸としか云いようがなかった。それ以前に、三日前、サウラが国境付近で拾ったあの男がいつの間にかキャラバンから消えていたことに誰も気がつかなかったのが致命的だったろう。

一団は漆黒の夜に明かりもつけずにキャラバンの宿営地に忍び寄り、一つ目の荷馬車に乗り込むと悲鳴も上げさせずに乗っていた女達を惨殺した。それを皮切りに、ひとりが手をさっと振り上げたのを合図にして夜盗達はバラバラと散り、まず見張りとして警護に当たっていた男達に襲いかかった。

雨に消されぬように覆いをかけた篝火が倒れ、派手な物音が響いた。雨の音に剣戟の響きが混じる。ようやく荷馬車の中にいる人間達が異変に気づいた時には既に、護衛の人間も荷馬車の数も半分に減っていた。


「どうやら襲撃らしいな」

遠い物音に即座に反応し、剣を抜き放ちながら蒼が馬車の面々に声をかけた。それより早く同じように異変に気づいたアレクが窓の覆いを上げて外を覗く。

妖精特有の闇を見透かす目で周囲の惨状を即座に見て取ると、彼は外に出ようとする蒼を言葉で制止した。ザジとエクセルを起こし、手早く状況を伝える。

「待って、蒼。君が行っても状況は変わらない。」

「セイ」

「それよりも僕らは早くここを離れよう。皆の足手まといになる」

ザジがアレクの言葉に頷いた。素早く御者台に移動する。敵は相当の手練れらしい。そういうときはそれぞれが逃げて再び合流するのが一座のいつもの手順だ。

「逃げ切れるとは思えんが、やるだけやるさね」

爺さんが云う間にも後ろの幌を上げて夜盗がひとり顔を出す。その肩口に刃を突き立て外に蹴りだしながら、蒼がフィラを荷馬車の奥へと移動させる。

恐怖にいまにも泣き出しそうな幼女をエクセルが抱きしめた。片手には愛用の槍を掴んでいる。

「走るぞい!」

ザジ爺が飛びかかってきた夜盗をナイフで牽制しながら馬の尻に鞭を入れた。盗賊が振り落とされ、剣だけをザジ爺の腹部に残したままで転がっていく。

高い馬のいななきが聞こえた。


転がるように漆黒の森の中を走り抜ける荷馬車の中でエクセルは必死に、母と座員皆の無事を、見えない神に祈った。すがるように、心から、痛いほど幼子を抱きしめながら。

やがて馬車は闇を抜けた。御者台からいつしか翁の姿は消えていた。

絶命して転がり落ちた御者の死屍を遙か後ろに置き去り、馬は駆けた。やがて足をもつれさせ横転し、疾走を止めた馬車から四人は急いで飛び出した。

馬は死んでいた。からくも崖の手前で。轍の跡がぬかるみに残っている。

足を取られ馬が倒れなければ彼らは今頃崖の底だった。泡を吹いて倒れている馬に哀れみと祈りとを向けてから、蒼とアレクは馬車を崖の下に押した。

追っ手がどうか、彼らが崖下で死んだと思ってくれますように。


四人と一匹は大急ぎでその場を離れ、街があると思われる方角へと、闇をたぐりながら歩みを進めていった。足跡を残さぬよう草の上を選び、慎重に慎重に、雨に濡れながら。



やがて、街が眼下に見えた。


ひとを避けるためにマントのフードを目深にかぶり、夜の闇に紛れてようやく彼らが街に入ったのは、サウラが出頭してからもう五日後の夜だった。









------------------------------------









 雨がしとしとと降っている。



領主のお膝元であるこの街では見張りがいないともわからないので、出来るだけうろつくのを避け 危険はないと信じてアレクはフィラリスに宿を探してくるように頼んだ。

「うん、いいよ。おいで、ディセムバ」

灰色の猫がフィラに答えあとに続く。使い魔の目を通せば術師には同じ光景が見える。彼女に何かあればすぐに駆けつけられるだろう。

「公園に何かあるようだ。……恐らくリンは見ない方がいい物らしいが」

フードで長い銀髪と耳を隠したアレクの傍ら、震えるエクセルの肩を抱いて蒼流が立っている。

ここに来るまでに見かけた看板や街の騒がしい様子に彼は何かを見つけたらしい。言葉にエクセルが不安げに顔を跳ね上げるのを見ないようにして、蒼は赤毛の少女をアレクに預けた。

「少し探ってくる。宿が見つかったら猫を寄越してくれ」

あたしも、と行こうとするエクセルの肩をアレクは力を込めて掴んだ。蒼が険しい顔で彼女を見、首を横に振る。

それから少年は、フードを更に深くかぶり直すと雨の中を歩き出した。

彼の姿が人混みに消えてしまってから少しして、猫と幼子が戻ってきた。

「お宿、空いてるって。猫もつれてきて良いって。四人だって云ってきたよ」

「ありがとう、フィラリス」

彼女の抱き上げている子猫も得意げににゃあと鳴いた。俯くエクセルの顔を心配そうにのぞき込んだ幼女に何とか笑いかけて、赤毛の少女は歩き出した。案内するね、と幼女と猫が先に立つ。

アレクは一度だけ振り返って街とその向こうに広がる遠い森とを目を細めて眺めやり、それからようやく踵を返して宿へと向かった。






蒼は雫に濡れる紺がかった黒い前髪で表情を隠し、ひとり黙々と街を歩いていた。

来る途中に見た看板は雨に濡れて字が消えかかっていたが、微かに不吉な知らせが見て取れた。 その不確かな情報を頼りに公園へと向かいつつ蒼は心の中でただ一言を念じている。

(どうか嘘であってくれ)

マントの中で剣の柄に手をかけ、歩いた。嘘であってくれ、あるいは夢であってくれ。あれから確かに五日が過ぎていた。犯人を捕まえることも出来ずに一座は夜盗に襲われて壊滅した。

だからといって、サウラが。

あのサウラが斬首されているなんて。

(嘘であってくれ)

エクセルのためにも。ふと立ち止まり祈るように目を閉じてから、彼は再び歩き始めた。


公園にたどり着いたとき、危うく蒼はこっそりと手にしていた剣を取り落とすところだった。

驚愕に見開かれた瞳はすぐに、絶望の色に変わった。竹で組まれた柵の向こうで、赤い髪に青いバンダナ、見慣れた穏やかな風貌が眠るように目を閉じている。

見慣れた、変わらない優しい顔。赤い髪が雨に濡れている。青ざめた顔で目を閉じた彼女はしかし、まるで不似合いな質素な台に乗せられていた。


頭部だけになって。


「……嘘だ」

思わず声に出して呟き慌てて口を押さえた。

周りには人もいる。もし聞きとがめられれば、国家反逆の一味として追われるかもしれない。自分だけならばまだいいが、共に逃げたのを見られているエクセルや幼いフィラリスにも追っ手がかかるとすればそうもいかない。

嘘だ嘘だ嘘だ。心の中で何度も呟きながら蒼は柵の向こうを睨んだ。眠るサウラの顔はあまりにもいつも通りで、しかし肩から下が存在しないその姿は蒼に現実感を与えず幻か精巧な作り物のようにも見えた。


「…コレで何個目なのかね」

ふと、周囲から囁きが聞こえた。耳を澄ます。

「やたらと国家反逆の密使とかでキャラバンが捕まってるじゃないか」

反射的に声のほうを見れば、街の住人らしい男性が小さく呟き、婦人にとがめられている。

「しっ、滅多なことをお言いじゃないよ」

「案外濡れ衣で私腹を肥やしてるんじゃないのか?領主様が」

男性の知人らしい、傍らのもうひとりが相槌を打つ。小さな声だが、囁きは伝染していく。

「あり得ない話じゃねえなぁ」

「よしなよ、捕まるよ」


領主は二年ほど前に代替わりして、街の人間にあまり好まれてはいないらしかった。

街の人間の話は蒼の興味を引いたが、まさかここで詳しく尋ねるわけにはいくまい。それに刑は既に執行されてしまっている。一座は壊滅し、今はない。今更事実を知ったところで手遅れなのだ。

「可哀想に。あの女座長、まだ若いのにね」

「本当に、密使だったのかねぇ……」

街の人の哀れを含む呟きを耳に挟みつつ、蒼は人混みを抜けた。

ふたつ目の角を右に曲がり、路地裏の壁に背を付けてようやく溜息をつく。フードを跳ね上げて空を見上げた。雨が顔を濡らす。微かに流れた涙を、雨粒が洗い落とす。

(悪い夢なら醒めてくれ)

祈ったところで時間が巻き戻るはずもなく、夢になるはずもない。蒼は目元を軽く手で拭ってから再びフードをかぶった。路地を抜けると、目の前に猫が居た。

「…、ご苦労様」

声をかけた途端、迎えに来たらしい子猫はにゃあと鳴いてくるっと踵を返し駆け出す。苦笑して、蒼は先に立って歩くディセムバの灰色の背を、重い足取りで追いかけた。






宿に着き心配そうに迎えた残り三人の顔を見ても蒼は沈痛な面もちでしばらくは黙りを決め込んでいた。しかし食事を終えて部屋に戻った途端エクセルに激しく肩を掴まれ、ようやく重い口を開く。

母の処刑を知るとエクセルは顔を蒼白にし、嘘よ、とだけ呟いて膝を折った。

「処刑は二日前?」

エクセルの肩を抱いてやりながらアレクが尋ねた。話を聞きおおかた見当はついたのだろう、

「いや、…四日前だそうだ」

蒼の返答にも驚くことがなかった。

「なるほどね」

反対にエクセルは愕然と目を見開いた。今から四日前と云えば、サウラがこの街に出頭した翌日になる。最初から領主は約束を守る気などなかった。キャラバンが解体することも知っていた。

犯人が、彼らに捕まえられるはずもないことを知っていたのだ。その日サウラを処刑してしまっても誰も咎めやしない。約束を交わしたキャラバンは全滅させられてしまっているはずなのだから。


「ようするに、僕らは填められたって訳か」

「何の目的かは知らないが。金か、カモフラージュか……あの密書の内容は真実味がなくもない」

「どのみち、利用されたんだね」

冷静に話をしている二人の声を聞きながら、エクセルは目の前が真っ暗になった。誰かが一座を填めた。自分の利益のために、皆を殺し、母を殺した。幸せだった、優しかった彼女の居場所を、全く無関係な人間があっさり叩き壊したのだ。ただ自分の利益のために。

「許せない」

目を見開いたままで泣きながら彼女はぼそりと呟いた。血を吐くような低く、瞑い呟きだった。

アレクがのぞき込み、蒼が眉を寄せた。フィラリスとディセムバが心配そうな顔で彼女に駆け寄る。


「誰か知らないけど、許せませんわ。殺されたのよ、母様も皆も。関係ないのに、ザジだって、あたし達を逃がして自分は死んじゃったのよ……絶対に許しませんわ、あの領主も犯人も!」


顔を上げ、黄金色の瞳を怒りと憎悪に染めてエクセルは立ち上がった。手を伸ばし、壁に掛けてある槍を掴む。駆け出そうとする彼女の腰にとっさに手をかけてアレクは止めた。それでも彼女の勢いは止められず、彼は腰を抱いたまま部屋の隅から隅まで引きずられた。

それでもなお飛び出していきそうなエクセルの前に蒼が立った。扉を塞ぐようにして彼女の腕を掴む。わぁあんと泣き出したフィラリスがエクセルの衣服の裾を引っ張った。猫が彼女の足に緩く爪を立てた。

皆の制止、とりわけ幼女の泣き声にようやくエクセルは動きを止めた。

「落ち着いて、エクセル。気持ちは分かるけれど、サウラは、嘆いたり仇を討って欲しくて君に一座を預けた訳じゃない」

アレクがエクセルの腰を抱いたまま云った。見降ろしてみれば彼もまた泣いているようだった。

蒼が悲痛な顔で二人を見ていた。雨はまだ鎧戸を力強く叩いている。フィラリスが、二人にしがみついてわんわん泣いている。幼女を抱きしめて、全滅した一座の新しい座長は、声を上げて激しく泣いた。




ふたりの淑女が泣き疲れて眠ってしまうと、アレクはふらつきながら抱き上げて二つしかないベッドのそれぞれに寝かせてやり、深く深く溜息をついた。

ハーブをまぶした茶をすすりながら蒼は剣を抱いてその様子を見守っている。何かをじっと考えている様子なので、邪魔をしないように傍のいすに座ると、青年は宿に備え付けてあった聖教の教典に目を走らせた。

 (神の愛する人は早くして死ぬ)

あぁ、本当だ。もっとも人間は皆僕より早く死んでしまうけれど、サウラの死はあまりにも早すぎた。

アレクが目頭を押さえた。教典にぱたりと雫が落ちる。窓の外は雨。室内にも雨。涙雨。


「少し出かける」

沈黙の降りた部屋に声がしたのは深夜を過ぎた頃だ。

蒼は無表情のまま、抱いていた剣を腰に履きマントに手をかけた。

「何処へ?」

「野暮用だ。座長の身は護るべきものだが、それは心も同じだろう。」

覚悟を滲ませて振り返り、蒼は少しだけ微笑した。その顔でアレクは彼の行き先を悟った。

「サウラの首を奪還しても何にもならない」

「それでも、…公園では寒かろうと思ってね」

見抜かれたばつの悪さを苦笑で誤魔化し、蒼はマントをまとった。リンには内緒にしてくれ、朝までに戻らなければ、と言いかけた言葉をアレクは皆まで云わせず遮る。

「わざわざ晒してあるのは残党狩りのためかも知れないんだぞ」

云われればその通りだった。

キャラバンからは何人か彼らと同様に逃げ延びることが出来たかも知れない。証拠を知る彼らを生かしておくのは危険だ。

サウラはあのとき云った。自分が居なければキャラバンはこの地を離れられない。彼女の首をここに残して、彼らがこの地を出られるものか。

「罠だとわかっていても、…何もしないではいられないんだよ、俺も」

愚かだと云われようとも取り戻しに来るだろう。その愚か者のひとりである蒼が、一座の人間の思いを代弁した。



まだ15歳になったばかりの若い剣士はエルフの制止を振り切って夜の街へと出ていった。

見送りながらアレクは神に祈った。どうか、どうかこれ以上、誰も何も失わずに済みますようにと。






雨が石畳の道にたまり、隅で川のミニチュアを作る。流れる水に踵を濡らしながら、蒼は路地裏を公園へと向かった。サウラの首は相変わらず、雨に濡れて静かに眠っている。

遠巻きに眺めながら周囲を伺えば、先程は気がつかなかった角のいくつかに見張りと思しき兵士の気配があった。

(セイの云ったとおりだな)

苦笑はしたが、それでも後には退けない。マントの下に隠した剣の柄に手をかけ機会を待つ。

雨がしとしとと降り続けている。躯が冷えて来るにつれて心も冷めていく。

(此処で死んでも、あの方と……あの方の大事なものだけは、守り通す)

忘れ形見であるエクセルにはアレクセイがついている。彼女の身柄は彼が何としても護るはずだ。

だから自分は彼女の心を。母を取り戻したいと、せめて安らかに眠らせたいという心を護るために、剣を取るのだ。それが拾って育ててくれたサウラとその娘であるエクセルに、今、彼が返せる唯一のことだった。


意を決し、剣を抜く。抜き身の刃に雨の滴が滑り、微かに漏れる篝火の光をはじく。

落ち着くために一呼吸。駆け抜け、柵を斬り、首を奪って逃げる。

出来ると自分に言い聞かせ、蒼は意を決して路地を飛び出そうとした。

「待ちなさい」

そのときだ。即座に背後から誰かに腕を捕まれた。びくっと躯をこわばらせ、とっさに剣を振るう。斬りつけたがその男は刃をくぐるようにして避け、なおかつ掴んだ腕は放さない。

背筋を恐怖が氷のように滑りおりた。まだ、まだなにもしていない。


「落ち着きなさい、夏蒼流。私を忘れたか?」


言葉と同時に、剣を持ったほうの腕も捕まれた。そのまま路地裏へと引き込まれる。まじまじと相手を見れば、その人物は別れて五日だというのに随分と懐かしく、彼にとって誰より逢いたかった顔をしていた。

「…先生……」

「おう。お前も無事と云うことは、エクセリーヌも生きてるか」

「あ、えぇ、無事です。」

ゲイルは弟子たちの無事に、本当に嬉しそうに笑った。それから顔をしかめ近況を伝える。

「一座は事実上壊滅だな。あの騒ぎで俺とエレンディラは共に突破できたが、ビルは死んだ。エミリオはなんとか逃げ延びてここで逢えたが、他は……」

「全滅ですか」

ゲイルは蒼の腕を離し、剣を納めさせると背を押して路地裏へと導く。並んで話しながら、互いの状況を確認する。暗く沈んだ表情で呟いた弟子の背をばんと叩くと師は苦笑し、

「だがまあお前達もいたしな。確認できていないだけであることを願うよ」

希望的観測を口にして懐から煙草を取り出しくわえた。降り続く雨にすっかり湿気てしまった煙草に苦労して火をつけると、濡れないように手をかざしながら吸い始める。

「何も雨の中吸うこともないでしょうに」

久々に見る師範の見慣れた笑顔にようやく肩の力を抜いた蒼が、珍しく師をとがめた。ゲイルはと言えば笑いながら弟子の髪をくしゃくしゃと撫でて、ウインク一つ。

「コレがねえと落ち着かなくてな」

「体に良くない」

「心によけりゃ問題なし。…ところで蒼流、お前さんの宿は何処だ?」


連れだって歩くうちいつしか宿のすぐ傍まで戻ってきてしまったのに気づき、蒼は苦笑しながら、あそこですよ、と指をさした。

宿の前ではひさしの下で灰色の猫がじっと座っている。アレクが心配で見張りにでも出したのだろう。可哀想に、時折吹き込む雨で毛並みがびしょびしょだ。

「ディセムバが居るな。アレクセイもフィラリスも無事か。」

「はい」

名前を呼ばれた所為か、子猫がくしゅんとくしゃみ一つ。早く蒼が戻ってやらねば風邪を引きかねない。なんとなくはらはらと見守っていると、隣で煙草を吸っている師匠がくぐもった声で呟くのが聞こえた。

「長老と子供達が無事なら一座もまだ未来があるな。座長はちゃんと居るわけだし」

「先生……?」

振り向くと、ゲイルはきりりと唇を引き結び、宿のほうを見ていた。いつになくまじめなその表情に、蒼が微かに不安そうに師を見上げる。

大人ぶってはいても蒼もまだ15の子供だ。ゲイルにとっては息子にも等しい。


「蒼流、明日の朝一番で船に乗れ」

煙草を吹かしながら、唐突にゲイルは云った。


「え…」

「四人揃ってな。出来れば早朝が良い。船をいくつか乗り継いで、ゼリアという港町に行け。そこまではさすがに追っ手もこねえだろ」

云いながら師は弟子に小さな袋を渡した。ずっしりと重い。開けてみるとそこには金貨が詰められていた。合わせて5000ゴールドほどはあるだろう。

「先生、これは」

「船賃。それと四人分の当座の生活費か。あの騒ぎじゃこれだけ持ち出すのが精一杯だった。少なくて悪いな」

「いいえ、…いいえ」

慌てて首を振り、懐に収める。少し慌てたような蒼の仕草にゲイルが愉快そうに笑った。

「ゼリアに着いたら、すぐ隣の都市に行け。エルトバレイにゃサウラの伝手がある。アレクセイならわかるだろう」

頷きながら、蒼は慈しむように自分を見る師の視線に気づいた。なんとなく不吉な予感を感じて尋ねる。

「先生は」

どうするんですか。逃げないんですか。そう聞くまでもなくゲイルが答えた。

「俺達は…、…サウラを迎えにな」

お前を見つけて今夜はいけなかったんだが。

ゲイルはそう云って苦笑混じりの溜息をつくと弟子の頭をぽんぽんと叩いた。


エレンディラと俺、エミリオの三人もいりゃ、奪って埋めてやれるだろうと思ってよ。

あそこでお前を見たときは驚いたね。

まさか同じことを考えてたとはなぁ。けど、嬢ちゃんを置いてきたことは誉めてやる。

座長は俺達年寄りが奪い返すさ。お前達若いもんは、これからの一座を護っていかにゃならねえ。


「エクセリーヌを頼むぜ」

死に急ぐなよ、と言い残してゲイルはひらひらと手を振りながら雨の街に消えた。

蒼は懐の重さを感じつつ、師の姿を見送ってしまってから仲間の待つ宿へと戻っていった。




子猫を抱いて蒼が戻ると、アレクといつの間にか起きていたエクセルの二人がベッドに座ったまま彼の帰りを待っていた。戻った途端エクセルに槍でしこたま殴打され、蒼はもんどりうって倒れた。

「何で黙っていったりするのよ!」

涙目でエクセルが怒鳴る。ちなみに槍の殴打は本気だ。さすがに柄のほうを使っちゃいるが手加減の欠片もない打撃に蒼が勢いよく吹っ飛んだ。

「心配しましたわ!!もし戻らなかったらと思うとあたし、あたし……無事でよかったぁあぁ」

「無事に戻ってきて無事じゃなくなったようだけど」

「セイ……すまんがリンを止めてく……ゴフォ」

「まあこのくらいいい薬だと思って」

「お、思う間に死ぬ……」

ようやくエクセルは殴るのをやめて蒼にしがみつきわあわあと泣いた。一座の全滅と母の死に次いでいつも傍にいた大事な友人にまで死なれたらと思うと気が気じゃなかったらしい。

座長として虚勢を張り続けていた彼女だったが、こうなると脆いものだ。苦笑しながらさり気なく、アレクが治癒の呪文で蒼を癒した。

「何にせよ無事で良かった。それで、どうだったの?」

アレクの質問に、蒼は行った先でゲイルと逢ったこと、彼と話したことの全てを伝えた。エクセルはゲイル達の無事を喜んだが、彼らの行おうとしている行為を知り、沈痛な面もちで眉を寄せた。

「止めることは出来ないですわね……」

エクセルが呟いた。アレクが頷き、蒼も首を縦に振った。ここにいる三人が三人とも、彼らと行動を共にしたいぐらいなのだ。子供でなければもしかしたら彼らと共にいけたろうが、自分たちにも自分たちのすべきことがある。

サウラはエクセルに一座を譲った。座長が前の座長の願いを蹴って死にに行くことは出来ない。

「ゲイルたちならきっと大丈夫ですわ。あたしたちが船に乗ったらきっと、追いかけてくれますわね」

言い聞かせるように呟き、エクセルは寝床に戻った。

明日からは長旅になるだろう。少しでも休んでおけるなら休むにこしたことはない。

「さ、僕たちも休もうか、蒼」

アレクが眠っているフィラを抱いてあやしながらベットに入った。部屋にはもう一組、簡易ベッドがしつらえてある。それを譲ったが蒼は首を振り、腰掛けるだけに留めて笑った。

「俺は見張っていることにするよ。いいから君も休め。それと、猫もあまり酷使してやるなよ」

「…りょうかい。」

濡れた猫を拭いてやり膝に乗せて背を撫でながら蒼が言うのに、笑い返しながらアレクも目を閉じた。

怒濤のように過ぎる悪夢の日々も、もうじき終わりを告げてくれるのだろうか。

この国を出たら、あるいは。



雨はいつ止むのだろう。眠りに落ちる手前で、アレクはふと呟いた。

雨音は消えない。いつまでも。






翌日の朝早く、四人と一匹は宿を出た。まだ眠ったままのフィラは蒼が背負い港に向かって走る。

出来るだけ人に逢わないようにルートを慎重に選んだ。昨夜別れる間際にゲイルに聞いた通り、港まではこの宿からはすぐだ。

いくつかの路地を曲がって、潮風の匂いに海が近いことを知る。

もうじきこの国を出られる。そうすればあとはエオールシティで、一座を立て直しながら仲間達を待てばいい。


「きゃっ、……ごめんなさい」

刹那、エクセルが路地を曲がったところで声を上げた。どうやら人とぶつかってしまったらしい。

慌てたように立ち上がる男が見える。そのときだった。

「あなたは!」

エクセルが顔色を変えた。あわてふためいて男が駆け出す。その背を、荷物を放り出し片手には槍を握りしめてエクセルが追った。まるで悪鬼のような形相で。

「え、エクセル?!」

アレクが声をかけても彼女は振り返らなかった。いくつかの路地を曲がり、ただひたすらに男を追う。もう蒼やアレクの声も耳に届かない。二人は仕方なくエクセルの放り出した荷を拾い彼女の後を追いかけた。



二つほど折れた先で彼女を見つけた。そこは袋小路になっているようだ。突き当たりで、逃げた男を押さえつけ、エクセルが今まさに槍を振り下ろそうとしている。

痛いほどの殺気を感じた。

彼女から。

「エクセル!!」

アレクが叫び、蒼が止めようと駆けだした。槍が押さえつけられた男の首を狙い、振り下ろされた。

間に合わない。


「……万物の命司るマナよ、矢となりて敵を撃て!!」

とっさにアレクがいつかどこかで耳にして憶えていた呪文を唱える。エナジーアロウが一直線に空間を走りエクセルの手元を直撃した。

短く悲鳴を上げて彼女は槍を取り落とした。金属音が路地に響く。

舌打ち一つ、今度は腰の剣を引き抜いた彼女の手を、駆けつけた蒼が掴んだ。

「離して!」

叫ぶ彼女を押さえつけ蒼は男を見た。

怯える顔はまさに国境近くで一座に拾われたあの男だった。

「お願い、殺させて、母様の仇を討たせて!」

泣きながら訴えるエクセルの頬を蒼が叩いた。一瞬呆然となった彼女を立たせ、男を冷徹に睨み据える。

「……行け、二度と顔を見せるな」


男はまろぶようにして路地から出た。アレクが男を追う。

「どうして!」

蒼に憎悪すら含む鋭い視線を向け、エクセルはなじった。

「どうして母様の仇を討ってはいけないの?!皆の仇を……」

「リン、死んだ者は戻らない」

「でも!」

詰め寄るエクセルの手を離し、弾け飛んだ槍を拾った。手にして戻ると理力の矢に貫かれ血の滲む彼女の手にそれを返す。

「死んだ者は戻らない。何をしても」

「………。」

「敵と云えど同じことだ。されば、サウラ様が仇討ちを君に望みはしないのもわかるだろう」

「…でも」

言いかけて口をつぐみ、エクセルは悔しさと無念さに歯がみした。


あの男だけは殺したかったのに。誰も戻ってこなくても、母様は戻ってこなくても、誰の無念も晴れないのだとしても、それでも、どうしても殺したかったのに。

あたしが殺したかったのに。この手で殺したかったのに。あたしのために。


 『どんなときでもね、人を斬るのは最後の手段。逃げて逃げて逃げられなくて、

 誰かを殺しても生きなくちゃいけないと思う、そのときだけだよ』


いつか聞いた母の言葉が不意に甦った。涙が出た。それを必死に拭って、エクセルは俯いたまま立ちつくしていた。

サウラは、エクセルに、仇討ちなど望みはしない。

そのことが、ただ悲しかった。





それからすぐに、男を追いかけていったアレクも戻ってきた。通報されると厄介だからねと悪戯っ子の顔で笑い、彼は荷物を手にすると二人…いや、蒼の背中にもうひとり…に声をかける。

どうやら魔法でぼろカスにしたうえ縛り上げて目に付かぬところへ転がしてきたらしい。彼は彼なりにエクセル同様あの男が憎くてたまらないのだろうが、やはりサウラのことを思うと手が止まった。

「彼女は僕らの手が人の血で染まることを望まないよ」

寂しそうな顔でアレクは笑い、エクセルの傷ついた手を優しく取った。

「ごめんね。止めなくちゃと思ったらとっさに手段を選べなかった。すぐ治すから」

治癒の呪文を唱え始めたアレクの手を、エクセルは押しとどめた。

「いい、そのままで」

見上げると彼女は泣き出す一歩手前の顔で、それでも必死で笑顔を作ると、困惑しているアレクの手から自らの手を引っ込める。

「このくらい、…良い薬ですわ。あたしには」

呟いてから、蒼の背で騒ぎにも目を覚まさず寝息を立てているフィラリスの髪をそっと撫でた。


さっきの場面でもしこの娘が起きていたらと思うとぞっとした。鬼の顔で人を殺すあたしの姿を、もしかしたら幼いこの子に見せていたかも知れなかった。

落ち着いて、かつての母の言葉を、笑顔を、叱責を、…生き様を反芻する。

そうだ、母はやはり望まない。彼女が娘に望むことはきっと、ただ幸せであれというただそれだけなのだろう。今、エクセルがフィラリスに、生き残った全ての座員に望むように。

エクセルは目を伏せ、微かに微笑んだ。狂気が晴れていく。

「さ、行きますわよ。急いで船に乗らないと、…ゲイル達の想いが無駄になってしまいますわ」

ブーツの踵が石畳で音を立てる。歩き出した彼女を得意げに先導して灰色の子猫が行く。

その様子を見て、やれやれと髪をかき上げながら蒼が続いた。

背に負ったフィラが身じろぎする。


彼らの背中を見つめながらアレクはサウラを想った。

森の晴れ間、束の間の休息で交わした言葉と今なお忘れ得ぬ彼女の面影を思った。

 あの子についててあげてね。

そういって笑った彼女と、あの日指切りをした。じゃじゃ馬で鉄砲玉で飛び出したら止まらないだろうあの槍娘の面倒を見ていくのは大変だが、約束してしまったから仕方がない。

アレクは苦笑しながら、「早くしないと置いてきますわよ」などと言い残し本当に自分を置いてこうとしている赤毛の少女の背中を追いかけた。

眼前に海が見える。



船が海上を滑る頃、いつの間にか雨はすっかりあがってしまっていた。








数ヶ月が経った。北エルト峡谷にたどり着きサウラの伝手をたどって何とか身を落ち着けてからも荒れ狂うこの街のすさんだ空気と殺伐とした生活にはなかなか慣れず、大変な難儀をした。

傷つけられたし何度も何度も倒された。地に幾度も這い蹲った。

それでも彼らはけしてその手を同族の血で汚すことはないだろう。

サウラが、そう、願ったから。



それからしばらくして、ヘクサルまで行くのだという旅人がついでにと彼ら宛の一つの荷物を届けてくれた。 送り主を聞いたが名乗らなかったという。見ればわかるとだけ云って預けられたそうだ。

一体何だろうと箱を開けてみると、きれいにおり畳まれた群青のバンダナが一本入っていた。

「これは……」

端のほうについた焦げあと。これはいつだったか、サウラがアレックスの煙草に興味を持って吸わせて貰い、誤って灰を落とし焦がした跡だ。

エクセルはそれを両手に大事そうに持ち、しばらくじっと見つめていた。旅人は彼女の様子を微笑ましく見てから、それではと一言だけ言い残し旅を続けるため立ち去った。



やがて、エクセルはそれをそっと額に巻いた。いつもそう、サウラがしていたように。

「さて、今日も修行に出ますわよ!」

目尻を指で拭ってから、皆を振り返りエクセルは意気揚々と云った。

もういつもの彼女だ。


「修行も良いけどやりすぎて怪我したり追い剥がれたりしないように」

しれっとアレクが釘を刺す。途端に笑いが巻き起こり、エクセルは口をとがらせた。

「失礼ですわね~」

「本当なのだから仕方ないな」

「蒼までそういうこと云うんですの?!」

「あはは、セリ姉お顔真っ赤っ赤~」


狭い家に笑い声が響く。

エクセルの額に巻かれたサウラの形見に視線をやり、アレクはふと思い出す。


ゲイル達は無事だったろうか。



…きっと無事だろう。

サウラも安らかに眠れたに違いない。だって、これが戻ったから。




まだなにかわいわいと騒がしい家の中を目を細めて眺め、一座を三代見守り続けたエルフは安堵したように肩を降ろし、窓の外を見上げた。

ゲイルたちはきっと無事で、サウラもちゃんと眠れた。一座の皆も、何人かは生きているだろう。

いつかきっと逢える。座長もここにちゃんといる。一座はまだ生きている。


真実なんて何一つわからなくても良い。神の姿が目には見えぬように、何もかも不確かなのが世の常だ。であればきっと、僕の中の真実も正しいのだろう。

僕らが幸せになれたように誰もが幸せで、きっとそうで。…それは或いは誤魔化しであるかも知れない。欺瞞であるかも知れないが、とりあえず、道理はねじ伏せても今はそう思うことにする。




「約束は果たすよ、サウラ。君が居なくても、僕らは生き続ける」



晴れ渡った新たなる故郷の空を見上げながら呟いた。

降り続く雨にも、僕らはもう、怯えることはないだろう。








幸せを切なく願い祈りながら、今日もまた、彼らはここで生きていく。




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