―寝顔とやるべきこと―
「健気ですねぇ、ブライトさん」
横から聞こえたマスターのとても楽しそうな声に、ローリーの頭に置いたままだった手をぱっと引っ込めた。マスターは俺の仕草ににっこりと笑っている。
「マスターは面白がってますよね?」
首の後ろを掻きながら恥ずかしさで赤くなっているだろう顔で睨んで聞く。
「ほっほ。分かっちゃいますか」
「丸わかりですよ……」
顎を撫でながら面白そうに笑うマスターに大きく溜め息を吐く。ふと、ローリーを見ると光るものが見えた。
「マスター、お勘定お願いできますか?」
「かしこまりました。少しお待ちください」
俺が頼むとマスターは頭を下げて、計算をしに下がる。
マスターが離れたのを確認してからローリーに向き直る。ローリーは聞き取れない寝言をむにゃむにゃと呟きながら、目の端に涙を溜めていた。
「……ちゃんと泣け、バカ」
そう言いながら、出していたタオルで目元の涙を拭きとった。
少し目元を赤くしたローリーを眺めながら、俺が慌てて手を離したことによって乱れた髪を直す。さらさらのローリーの亜麻色の髪の感触が俺の手に残った。
ローリーは静かな寝息とともに肩が上下していて、ぐっすり眠っているようだ。綺麗な碧天の瞳は長い睫毛と共に伏せられているが、その目が伏せられている表情も綺麗だと思った。唇も、寝息と一緒に微かに動いていて……。
そこまでじっくり見てしまってからばっと顔ごと目を逸らす。眠っているところをじろじろ見るなんてダメだろう。
ローリーに触れなかった方の手で顔を覆う。触れていた手はローリーの頭を撫でた時の感触が残っていて、それだけでも平常心でいられる自信がない。
深呼吸をしながらずっと早鐘だった心臓を落ち着けるとともに考える。
――口に出したくない、か。
ローリーはどうするつもりなんだろうか。
ぐしゃぐしゃと自分の髪を掻き回した。自分の都合のいいように考えてしまいそうだ。
溜め息を吐いて、今一番やらないといけないことの方を考える。
「はあ。リックさんに連絡しなきゃな」
流石にこの状態のローリーを家に一人置いとけない。ローリーの両親は商会で働いていて、しかも外国との交渉部門の為出張が多く、いないことが普通だ。
リックさんだっていつもいるわけではない。時々王宮に泊まっているので今日は帰ってもらうように頼んでおかなければ。王宮に泊まるのは朝早くや夜遅い時が多い騎士という職の為、ローリーに気を遣わせないようにだろうから頼めば帰ってきてくれるはずだ。俺も同じ理由で家を出ている。隊長職はそれに含め、書類仕事も多いから余計に泊まることが多くなっているようだ。
以前リックさんに「僕はローリーに会えないのにアリオンくんは会えてるんだねぇ」と言われた時は背筋が凍った。その際一緒につけられた稽古は今までで一番きつかった。
「リックさん、怒るだろうな……」
「おや、リックさんというのはガールドさんのお兄さんですよね」
考え込んでいたからか、背後から突然掛けられた声に肩が跳ね上がる。
「うわ、マスター!ビックリするじゃないですか」
振り向くとマスターは朗らかに笑って、勘定を書いた紙とトレイを出してくる。
「ほっほ。驚かせてしまい、申し訳ありません。こちらお勘定です」
「いえ……」
その笑いに含みを感じて警戒しながら返す。財布を取り出して書かれた値段のお金を出す。
奢ったことがバレたらローリーに明日何か言われそうだな、と考える。まあローリーが潰れたから仕方ない。
「はい。ごちそうさまでした」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます」
トレイにぴったりお金を出すと、マスターもお礼を言ってお辞儀してくる。
マスターはお金をしまうと戻ってきて朗らかに笑いながら言った。
「それにしてもブライトさんは送り狼にならなさそうで安心ですねぇ」
マスターのとんでもない発言に思わず大きな声を出す。
「は!?何言ってるんですかマスター!?んなことするわけないじゃないですか!?」
思わず出したその声にローリーが起きてないかと思ってぱっと見る。ローリーは気持ちよさそうに眠ったままで、一安心する。
マスターはその様子も楽しそうに見ている。少し恨みがましい目でマスターを見る。
「ほっほ。ですから安心ですねぇと申しているんですよ。そんな不埒な輩がいればその方にはしっかりと『わかってもらった』上で、女性には信頼できる御者をお呼びしないといけませんので」
朗らかに笑いながら言ったマスターに悪寒を感じて口の端が引き攣る。これは本気だ。不埒な輩は恐らく二度とそんな事を考えられないだろうことがありありと想像できてしまった。
「……マスターは敵に回したくないです」
本気でそう思って呟いた。
「ありがとうございます。でもブライトさんなら大丈夫ですよ」
「はは……ありがとうございます」
褒められているのかどうか分からないが、とりあえず礼を言っておく。
マスターはふと、顔を真剣なものに変えた。
「ブライトさん。老婆心からお伝えしますが……はっきり言わないと伝わらないこともありますよ」
その言葉に一瞬目を見開いた後、苦く笑う。
「あー……いいんですよ。……こいつには好きなやつがいますから。俺の気持ちはこいつを困らせるだけです」
ローリーを見ながら、この気持ちの置き場を探してそう答える。俺はこいつを困らせなくない。
「ふむ……。失礼ですが、そのお相手もガールドさんのことを?」
マスターは顎を撫でると、そう聞いてくる。
ユーヴェンが嬉しそうにメーベルさんの事を話していたのを思い出す。思えば、やっぱり紹介の時からローリーの様子は少しおかしかった。早く気づいてやれればよかったと、後悔しながら答える。
「……いえ。あいつには別に好きな人がいますけど……」
「ほう。ならブライトさんが遠慮する必要なんてないじゃないですか」
マスターの言葉に息を飲んだ。




