近づいた距離
アリオンは大きな溜め息を吐くと、頭を撫でていた手でぽんぽんと頭を優しく叩いてから今度は髪をつついてくる。
たぶんさっき言っていたように頭を直そうとしてくれているんだろう。以前よりも少し遠慮がなくなった気がするアリオンの指は、私の地肌に触れながら髪を梳いていく。
「あー……なんか疲れた……」
心底疲れたように言うアリオンに、なんとなしに声を掛ける。
「休んでく?」
もう家の中に入っているし、リビングはすぐそこだ。疲れているなら少しお茶でも飲んで休んでから帰ればいいと思う。
「お前なぁ……!……はあ……言っても駄目だよな……。だって俺が家の中に入っちまったもんな……。……今日はもう帰るから、気ぃ遣わなくていいよ、ローリー」
一瞬何かを言いたげな顔をしたけれど、溜め息を吐くと私の誘いを断るアリオン。
「そっか」
せっかくもう少しアリオンが居てくれるかもと思ったのに、帰ると言われた事に寂しい感情が湧いてしまう。
家に一人なのは慣れているけれど、やっぱりなるべく一緒にいたい気持ちがある。
「……ローリー、ちょっと寂しそうな顔すんな……」
アリオンは私の髪を梳き終わると、今度はその手を優しく私の頬に軽く当てた。
さっきみたいにしっかり触れる感じではないけれど、アリオンが触れていてくれることに安心する。
「……してた?」
表に出したつもりはなかったけれど、やっぱりアリオンは誤魔化せない。
きっとそれだけ私を見てくれているということで、その事に心が温かくなる。
アリオンは困ったように眉を下げながら、私と目を合わせて優しく言う。
「してた。今日はちゃんとリックさん帰ってくるって言ったから、もう少し待っとけ」
「うん、わかった……」
言い終わると、アリオンは軽く触れていた頬からも手を離した。
お兄ちゃんが帰ってくるなら寂しくないはずなのに、なんだかもう少しアリオンを引き止めておきたくて。
聞こうと思っていたお弁当を作っていってもいいかを聞いてみようと声を掛けた。
――お兄ちゃんが帰ってくるまで、少し寂しいだけ……。
そんな言い訳じみた考えが、浮かんだ。
「ね、アリオン」
「なんだ?」
私が声を掛けると柔らかく聞いてくれるアリオンが、少し眩しい。
「明日は通常勤務?」
まずは変形勤務じゃないのか聞いてみる。変形勤務だったらアリオンに会えないかもしれないので、そうしたらお弁当も渡せない。
「ああ」
アリオンの肯定にひとまず安心すると、以前お弁当を持って行った時の事を思い出す。
「明日も朝練とかするの?」
「ん?あー……たぶんしてるな」
「またお兄ちゃんと?」
「まあな」
この前の状況と同じなら、持って行きやすいような気がする。そう思ってアリオンを見上げて聞く。
「お昼のお弁当作っていってもいい?」
「!」
アリオンは私の言葉に目を瞬かせた。
「駄目?」
アリオンのコートを摘まみながら首を傾げる。アリオンは摘まんだ私の手を優しく握りながら微笑んで返してくれた。
「駄目じゃねぇよ。作ってきてくれるなら嬉しい」
その柔らかい声音に唇にぎゅっと力を入れた。
「うん、じゃあ作っていくわね」
「ん、ありがとな」
目を細めて嬉しそうに笑うアリオンに、私も笑って頷いた。
「……ローリー、リックさんの分も作れよ」
アリオンが少し頬を掻きながら言った言葉に、目をパチクリさせた。
「え、どうして?」
もしかしてお兄ちゃんがこの前言っていた我儘を気にしているんだろうか。
――まあ別に一緒にお兄ちゃんのお弁当作るぐらいいいけど。
「リックさんも喜ぶだろ。てか、弁当どう持ってくるつもりなんだ?」
やっぱり気にしていた。まああんなに目の前で言っていたらアリオンが気にするのも仕方ないかもしれない。
そう考えながらアリオンの問いに答える。
「まあ、別についでに作っとくけど。またこの前みたいに朝に持って行こうと思ってるわよ?」
アリオンは私の言葉に眉を寄せた。
「あー……それはあんまよくねぇな。お前が来る時間教えてくれたら、それくらいに迎えに行く」
「それは朝練中断させるみたいで悪いわよ……」
また心配してくるアリオンに繋がれたままの手を少しだけ握ってしまった。アリオンも同じように握り返して、笑ってくる。
「気にすんなよ。今は問題児が王宮にいるっつったろ。だからあんまり一人で歩くな。流石に最近は訓練サボってねぇし、朝練なんかに来るような奴等じゃねぇけど。今日の保管庫行ってる時だって、ほんとはちょっと心配だったんだよ」
少しだけ頬に触れながら苦く笑うアリオンに、胸がきゅっとなった気がした。
「過保護……。自分でも朝練に来るような奴等じゃないって言ってるくせに……」
そんなに心配していたら王宮でちゃんと仕事もできないではないか。でも来てくれた事は嬉しかったのであんまり強くは言えない。
「それはそれだ。リックさんもローリーが来るってなったら、むしろ迎えに行かねえと怒られるからな」
そう言ってくるアリオンにこの前見た光景を思い出して、聞いてみる。
「アリオン、朝練見学しちゃ駄目なの?」
お兄ちゃんとアリオンが朝練している様子を、また見てみたいと思った。きっと見ていてもそんなに飽きないんじゃないかと思う。
「ん?別に構わねぇけど……」
「なら、お兄ちゃんと一緒に行くわ」
そう言うと、アリオンは安心したように笑った。
「そうか。なら安心だけど、けっこう早いのに大丈夫か?」
「それは大丈夫。……ね、お兄ちゃんがいなくてアリオンが通常勤務の時は、朝アリオンと一緒に行ってもいい?お弁当渡したいから」
きっと一緒に居れば、アリオンを好きになることが、きっとできると思うから。
「え?」
アリオンは私の言葉に驚いたように目を見開いた。
「いい?」
目を瞬かせるアリオンが、少し呆けたように呟く。
「それは……もしかして、弁当明日だけじゃなくて明日以降も作ってくれるってことか……?」
「あ……うん、そのつもりなんだけど……駄目?」
その様子に不安を覚えてアリオンを覗き込むように聞く。
「!!んな訳あるか。嬉しいよ。ありがとな」
破顔してまた私の頭を優しく撫でてくれるアリオンに、温かい気持ちになる。
「よかった」
私も笑みを零して、アリオンの嬉しそうな笑顔に頷いた。
「じゃあローリー、リックさんがいない日は俺、朝お前を迎えに来るな」
嬉しそうな笑みのまま、そう言ってくるアリオンに驚く。流石に朝にまで迎えに来てもらうのは悪い。
「そんなの悪いから、途中の道で待ち合わせでいいわよ?」
「俺がローリーに早く会いてぇ」
私の言葉に対して優しく目を細めて言ってくるアリオンに、唇にきゅっと力を入れた。
「あ、アリオンのバカ……」
私がそう返すとまた笑って、頭を撫でていた手でゆっくりと髪を梳いてくる。
「ん。だから家で待っとけ」
私の言葉が照れ隠しだとわかっているアリオンは、私の顔を覗き込みながら優しく頷いた。
「うん……」
また、ほわほわした気持ちになる。
アリオンの言葉も仕草も何もかもが柔らかくて、優しくて、甘い。
「あー……なんか、やべぇな……」
そう呟いたアリオンは、私の髪から手を離すと腕で顔を覆っていた。
「?どしたの、アリオン」
その行動が不思議で首を傾げる。
「いや、なんか幸せ過ぎてな……。なんかほんとにローリーが彼女みてぇだ」
腕から顔を上げたアリオンの顔は耳まで真っ赤で、それでいて蕩けるような微笑みを浮かべていた。
「!うん……アリオンの事、好きになりたい、から……それでいいの……」
アリオンを好きになろうと思っているんだから、そう思われても構わなくて。アリオンにも、そう思ってもらえると嬉しい気がして。
――早く、アリオンを好きだって、ちゃんと言えるようになったら、いいのに。
そんな事を、思った。
「そうか、いいんだな……」
アリオンのその声は少し熱が籠もっていて。アリオンを見上げると熱を孕んだ灰褐色の瞳と私の青い瞳の視線が絡む。
「うん……」
私もその熱に浮かされたように頷くと、アリオンが繋いでいた手と一緒に私の頬に両手を添えた。
「……好きだ、ローリー」
熱を孕んだアリオンの声が、響く。
アリオンの橙色に近い茶髪のサラリとした前髪が私の顔に少しかかった。それがくすぐったくて、少しだけ声を漏らした。
「ん……」
そのままアリオンと見つめ合っていたくて、もう少しだけ近づきたくて、空いていたもう片方の手でもアリオンのコートを掴んだ、その時。
ガチャリと玄関の扉が開いた。
「ただいま……って、何してるのかな、アリオンくん」
兄は帰ってきたと同時に冷えた声をアリオンに浴びせた。アリオンはばっと素早く私から離れる。
私は兄にアリオンと近づいている場面を見られてしまった事に、顔がカッと赤く染まった。
「!!お、お疲れ様、です!!」
アリオンはビシッと背筋を伸ばして兄に挨拶する。その顔は私と同じように真っ赤だ。
「いや、いいよ。で、何してたの?」
兄は蒼の目を鋭くしてアリオンを睨む。
「え、いや……普通に話……を?」
アリオンも先程の事を思い出しながらしどろもどろに答えていた。そうだ、確かに普通に話をしていたはずだったのに。
いつの間にか距離が近づいて、心臓が、ぎゅっと、なって。
「へぇ……随分顔を近づけて話してたね?」
兄の声は冷えたままだ。
「え、いや……それは……その……」
アリオンは視線を彷徨わせながら、戸惑っている。
私も思い返しているけど、なんだかさっきはアリオンの目を見たら、近づきたく、なって。私もあの感覚をどう説明すればいいのか分からない。
私も兄に説明して、アリオンを責めるのをやめてもらおうと思っているのになかなか言葉が出てこない。
「付き合ってないって言ってなかったっけ?それなのにあんなに近づいてるの?」
「すみません……」
兄の怒りを込めた声にアリオンは肩を縮こませるようにして謝っている。
「あの、お兄ちゃん……」
私がアリオンに触ってと言ってしまったから、あんな距離になってしまったような気がして、思わず兄に声を掛ける。
すると今度は私にも怒りの矛先が向いた。
「ローリーもなんで嫌がらないんだい?流石にあの距離は友達に許しちゃ駄目だよ」
兄も私がアリオンのコートを掴んであの距離を受け入れていた事を見ていたのだろう。その事に恥ずかしくなるが、友達という言葉には言い返さなければならない。
「だ、だって、私、アリオンを好きになりたいと思ってるもの。アリオンの想いに、私も応えたいの」
恥ずかしいけれど、ちゃんと兄にも分かってもらわなければ。アリオンは兄には告白に対して私が考える、という事しか伝えていなさそうだった。だから、私がアリオンを好きになりたいと、アリオンの想いに応えたいと思っている事を、知ってもらわなければ。
兄は私の言葉に目を丸くする。
「!ローリー」
アリオンが驚いたように名前を呼んだ。
それから、アリオンが誤解されないように、私がお願いしたことも言わなければ。
「だから、私がアリオンに触って、って頼んだの!」
「おい、ローリー!」
咎めるようなアリオンの声が聞こえた。
兄は私の言葉に目を見開いた後、片手で顔を覆って特大の溜め息を吐く。
「……ちょっと二人共リビングに来なさい」
こめかみを手で抑えるようにしながら、兄は絞り出すような声で命令した。
「はい……」
「う……うん……」
兄の言葉にアリオンは項垂れながら頷いて、私もこれからされるであろうお説教を想像して憂鬱になりながら頷いた。




