97 アンタレスの涙
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夏の小休止。
それは天体の見える位置が、僅かにずれ始めてゆくのを知った時から、始まるのかもしれない。
赤く輝く蠍座のアンタレスが南から去ろうとする動きを見せ始めたのを知った人は、きっと夏が去り行こうとするのを知るかもしれない。
それは天体望遠鏡のレンズ越しにしか見えないことかもしれないけれど、だが、それでも夏が去り行こうとするのだと知る契機だ。
夏が小休止する時、やがて壁時計の針が午前零時を指すのと同じで、後は円の坂を下るように進んでゆく。
真帆とコバやん、彼らを中心に進んでいた夏もまたそうした時期にあった。
神社で猫加藤――、いやモモチの来襲を受けた後、真帆は病院へ行き、そしてコバやんは姿を消した。
それは夏の補講と特区講義が、一旦、休憩に入ったことと照らし合わせての動きではあるが、しかしならが、天体が夏の軌道を外れて動き出そうとしたことと関係がなくもないかもしれない。
つまり少しずつだが二人が夏という軌道からそれぞれ、次の軌道へと進みだし始めたのだという意味と。
だが、確認しておかなければならないことは…
――夏はまだ終わっていないということだ。
蝉が鳴く声が一段と濃く影の隈取をするような強さを感じる頃、再び、夏の補講と特別講義は再開始めた。
このころには大阪市中をパニックにした環境芸術集団「忍」が起こした一連の騒ぎは鳴りを潜め、終息に向かっている感がしていた。
コバやんは久々に見る校舎の正門を、ひどく懐かしく感じながら潜った。潜りながら渡り廊下を見上げた。そこには懐かしいような感覚があった。いや、喪失した何か、かもしれない。
そんなことを思った時だった。
「コバやん」
声がして振り返る。
するとそこに九名鎮が居た。
彼女はこの夏の小休止の間に長い髪を切ったのか、短い髪姿で自分を直視している。ただその眼には力が籠められている。それだけでなく、どこか憮然とした態度で、自分へとむかって歩いてくると、ピタリと止まった。止まってから、コバやんをじろりと睨むように言う。
「…なんやのよ、あんたさ」
コバやんは黙ったままだ。
「チャットにも返事しなくて、無視なん?」
言った九名鎮の声が僅かに変に聞こえたのをコバやんは感じた。それは僅かだが、かすかに擦れたような声。
九名鎮はコバやんが答えず、黙っているのを見て続けて言った。
「ウチさ、大変なんやけど。あんた、全く加害者意識ないんやね」
そこでコバやんはピクリとする。
「分かってるよね。あんたのせいでさ、コバやん。ウチ、声がおかしくなったで」
僅かに怒気を含んだ九名鎮の声は擦れて、いわゆるドスが効いている。
「それに、『あいつ』はどこいったん?一番『あいつ』が悪いやん?」
九名鎮が憎々しく言うとコバやんが反応して言う。
「あいつ…って?」
「あいつやんけ、あいつ」
「いや、誰の事?」
コバやんが首を傾げる。それを見て真帆の眉が吊り上がる。
「しらけるん?」
「いや、全然。しらけてない、しらけてないし九名鎮が言う『あいつ』って僕、知らんかも」
ここで真帆は一気に溜め込んでいた怒気を吐き出した。
「コバやん!!『あいつ』って言ったら、隼人やんか!」
「甲賀君?」
真帆が名前を呼ばず、『あいつ』呼ばわりしていることにすでに彼女の心の中でどのような化学変化が起きたのかをコバやんは心中察した。
だが、コバやんはそのことに驚く風もない。それは最早よく分かり得た結果だった。
「あいつ、全然、返事こないし。どうなってるん?自分等さ、事件を楽しむだけ楽しんだら、後はウチをポイなん?ウチだけ変なことになってもうたやんか!!」
真帆は地団駄踏むように、コバやんに突っかかる。
「今日さ、カマガエルのとこ行ったら、この声じゃ、特別講義は暫く中止やと言われたし、ウチのさ、大事な夏休み、どないしてくれんねん。あんたらが全部悪いわ!!事件に巻きこんで!!」
コバやんはそれを聞いて、静かにおい!と突っ込んだ。
――事件は君が持ち込んだやん
「それで…、声の調子はどうなん九名鎮?」
コバやんは労わるように優し口調で言った。
「言う必要あるん?」
その返しに少しコバやんは苛立った。だからむっとして真帆に背を向けた。そして歩き出す。
真帆が慌ててコバやんの腕を掴む。
「ちょい待ち!逃げるん?」
その言葉にコバやんは真帆の手を握って離すと彼女を見た。その眼差しには僅かばかりの寂寥感があった。
「事件はさ、君が持ち込んだ」
それを言われて真帆はドキリとした。
「それで、確かに結果として君に悪いことが起きたのは…、僕も甲賀君も残念に思ってる」
「なら、なんでウチを無視すんねん!!」
真帆が短い髪を震わして言う。コバやんはそれには少し下を向いて言う。
「僕についてはまだ、事件の中に居るんだ。それに君へ連絡を取らなかったのは、別に君が嫌とかじゃない。もう少しこの事件をはっきりと整えて話をした方が、治療中の君の為にいいと思ったんだ。そうなったのは僕に責任があるから」
真帆はコバやんが言うことを聞いている。その瞼が僅かに濡れているのをコバやんは見た。そしてコバやんはそこで一番言いづらい何かがあるのか、深く息を吸い込み、真帆に言った。
「九名鎮、甲賀君はね、無視をしたんじゃないよ。もう、…此処には居ないんだ。つまり僕が言いたいことは――居ない人にはもう連絡はできないし届かない、分かるよね。その意味が」
「えっ!!」
真帆が声を上げる。上げた時、髪が風に揺れた。
「それってどういう事?」
真帆は何か深い深層に落ちてゆく感じがした。自分の知らない深層へ。
コバやんは寂寥感を濃くして真帆に言う。
「甲賀君は夏休みの途中だけど、…外国へ行ったよ」
真帆はそれを聞いて驚きの為、声が出なかった。
「彼はこの夏が日本での最後だったんだ。そして夏休み学校に来ていたのは、本当は転校の手続きがあったから…。向こうは秋の初めに学校が開始する。つまり甲賀君は…」
言ってからコバやんは鼻頭を掻いた。そして僅かに鼻を摘まむと、鼻奥でツーンとする味を切って、真帆に言った。
「僕等と最後の夏を過ごすために学校に来て一緒にいたんだよ」
言ってから、コバやんが真帆を見る。
「九名鎮、だから甲賀君のことを『あいつ』なんて言うな」
コバやんはきっとして畳みかけるように言う。
「彼は、君の恋人だったんだろ?君はあの時、気絶していたから知らないけど、彼は――いや、加藤は君を助ける為に白狐面を被せて、煙からの被害を少しでも少なくさせる為、懸命に身を挺して守ったんだ」
「…えっ」
真帆は声を小さく、うなだれるように出した。
コバやんは続ける。
「僕は彼から聞いた。病院について君が点滴を打って寝てる間、病院の先生から言われたのは、――後、もう少しでも煙を吸っていたら、声が変調するだけでなく、肺にも影響が出て、暫くは呼吸もきつくなるだろうって。つまり彼は君を懸命に助けたんだ。必死に。なのに、君はそんな彼を『あいつ』呼ばわりするのか」
そこでコバやんは今度は自分の手を伸ばして九名鎮の両腕を握った。
「声の変調ぐらいなんだ。乗り越えろ、九名鎮!!」
「コバやん!!」
真帆は涙で声が詰まりそうにながら友人を見た。
「甲賀君は言ってた――僕等二人を校舎の窓越しに見た時、本当に楽しそうに歩いてるのを見て、外国から来た孤独を感じていたけど…友達に、仲間になりたかったと。だから好きでもない未希ちゃんを出して、僕に接近したんだ」
真帆は流れる涙を抑えきれないまま、コバやんを見ていた瞼を閉じた。その閉じた世界で友人の言葉が響く。
「彼は僕に言った――君が好きだと。初めて林間学校のオリエンテーションで絡んでくれた屈託のない笑顔の君が。いつも誰にも分け隔てなく接してくれた君が好きだった。でも、もう彼はここには居ない」
言うとコバやんは力を籠めた腕を緩めた。緩めて、まるで――そこに居ない彼の気持ちを込めて言った。
「声の変調ぐらいなんだ。乗り越えろ、九名鎮。何よりも本当にそのことを喜んでくれた甲賀君の為に」
言うとコバやんは背を再び向けて歩き出す。歩きながら彼は言った。
「行くよ。九名鎮。補講があるから」
それから大歩きになると彼は歩みを止めず、その場を去った。その場に残された真帆の涙が零れ落ちてゆくの顧みることなく。




