92 また、いつか会いましょう。
(92)
何かが空へ放り込まれた、そう思った時には飛び加藤は反応して走り出していた。
放り出された何かと猫が境内を走るのはほぼ同時だった。そして空から真帆の方へ放り込まれたものが正確に落下し始めた時、加藤には初めて放り込まれたものが何か分かった。
それは
――煙!?
瞬時に危険を判断して、手を伸ばすとバスケットボールでリングに球が入るのを叩き落とすような素早い仕草で、地面に叩き落とした。落とされたものが煙を巻きながら地面を転がるとより鮮明にそれが何か分かった。
見えたのは筒状の物体。
――発煙筒!?
だが、飛び加藤は認識できていなかったのかもしれない。その発煙筒はふたつ投げられていたのだ。それも同じ軌道を僅かな時間差で。
飛び加藤が悲鳴と共に振り返るのは、ほぼ同時だった。
「きゃぁああ!!」
真帆の叫び声が響く。
「真帆っ!」
飛び加藤が叫んだ時だった。急に自身の目が激しく痛んだ。それだけでなく、喉も急激に痺れるような痛みが襲ってきた。飛び加藤は白狐面の下の口を押さえる。煙が辺りに充満していた。
(こいつは…)
痛む目を僅かに涙目になりながら開くと真帆の居た場所は巻き上がる白煙に包まれていた。
煙が充満する白い世界で影が動いている。それはゆっくりと真帆の方へと。
飛び加藤は口を押えるが、面を上げた時、煙を吸い込んだのか、喉と目が一層激しく痛んで動けなかった。
「まぁ大丈夫さ」
煙の世界で声がした。それは猫加藤の声だった。
「こいつは世界中の劇香辛料を混ぜて作ったもので、ちょっとばかり目と喉が痛むんだ。でも大丈夫、僕の田舎の山猿相手に実験済みだから人体には危害がない。すぐに元に戻るよ…ただ、人によっては喉が少しばかり長く痛むけどね」
――喉が痛むだと!?
(真帆っ!!)
飛び加藤は白狐面を被り、煙が入り込まないようにした。そして地面へ顔を寄せて煙の隙間か新鮮な空気を吸い込む。吸い込むと幾分か目の痛みが和らいで、外の世界が見えた。その見えた隙間から煙が包む四方世界で猫加藤の歩む影が止まったのが見えた。
それは蹲る二つの影の前で。
「…小林さん」
猫加藤の声がした。
「お見事です。でもどうやって加藤君を裏切らせたんです?」
…ごほっ、ごほっ。
コバやんが背を揺らしている。
返事が出来ず、咳き込むだけが精一杯だ。
「ああ、そうですね。話せませんよね。となれば…これは僕の推測ですが、おそらく、加藤君と九名鎮さん、できちゃったんじゃないですか?それで二人の間で恋心が出来てしまって…」
猫加藤の首が飛び加藤を向く。
「加藤君が裏切ったんだ。恋人を守りたくて」
…ごほっ、ごほっ。
返事は無く、咳き込む声がする。
それから真帆の方へ、猫加藤が歩みを寄せた。
「九名鎮さん、あなたはやっぱり、五線譜の独唱者としては…ちょっと僕は気に食わない。確かに努力はされていますが、でもね、僕から見たら全然。音程は常に一定じゃないし、その日の気分によって不安定だし。だからむしろ学科は違うけど、西条未希さんのほうが独唱者にふさわしいと僕は思っています」
猫加藤の足元から煙が上がってゆくのが飛び加藤には見えた。だがその足元が再び煙に巻かれた。
(まさか…!?)
飛び加藤が体を起こす。
――まだ発煙筒があるのか!
「これ最後の発煙筒です。九名鎮さんにはもう少し煙を吸ってもらって喉を駄目にしてもらわないと独唱者を辞退してくれなさそう」
「おい!!やめるんだ!!」
飛び加藤が煙を吸わないように這いずって猫加藤の元へ進んでゆく。
「やだね。やめないよ」
ぽいと発煙筒が投げ出されて真帆の側で煙が上がった。
「…さて。加藤君」
猫加藤が言った。
「僕等、これで解散する。環境芸術集団「忍(SHINOBI)」はこれでお終い。でもね…最後に特大のやつを見舞わせて大阪中を驚かせる。君が調べてくれたデータに基づいて…特大のやつをね」
言うと猫加藤がコバやんの方を向いた。
「小林さん、ありがとう。これで僕の大事な人が独唱者になれそうだよ」
その時、猫加藤は足首を掴まれた。それはとてつもない力で。
「待て!!」
コバやんが力を込めて、涙目を上げる。
「…どうして、こんな酷いことを君はできるんだ!!」
コバやんが怒りに震えて、力を込めて猫加藤の足を放り上げた。それで猫加藤がバランスを崩して地面にどうと倒れた。
「小林君!!」
それと同時の這って起き上がろうとする飛び加藤の声がした。
反射的にコバやんが声を上げる。
「九名鎮をっ!!」
その声と同時に飛び加藤が煙に身をまかれないよう身を屈めて真帆めがけて一目散に走り出す。そして倒れて蹲っている真帆の顔を自分に向けると、被っていた白狐面を被せた。
それから自分の身体で巻き上がる新しい煙から真帆をかばうようにすると迫る煙の中で、飛び加藤――、いや甲賀隼人は白狐面を強く自分の頬と唇で押さえて、真帆に煙を吸い込ませぬようにした。白煙混じる世界で見える二人の姿はまるで抱擁してキスする恋人に見えた。
(真帆っ!!煙は残らず俺が吸ってやる!!)
彼は真帆の身体を自分の身体を盾にして護っている。これが恋人として最後だとしても、それでも懸命に愚かかもしれないが、必死に考えられる自分の精一杯の誠実さで。
地面に倒れた猫加藤がゆっくり立ち上がるとパンと砂を払った。その払った瞬間、風が吹いた。吹いて白煙をゆっくりと彼方へと運んで行く。
白煙が去ろうとする世界で猫加藤がじっと立っている。
コバやんと甲賀は目と喉の痛みを押さえて、そんな猫加藤を見ている。
すると猫加藤が言った。
「立ち去る前に解けそうもない謎を残しておく。――ふたつね」
猫加藤は指を二本立てる。
「ひとつは――イカズチ。それはここにはない。それこそ五線譜がその場所だよ」
「えっ!」
コバやんが驚きの声を上げる。
「そして僕の正体は君達が思っている人物とは違う」
言うなり彼は白狐面を取って、その素顔を陽光の下に晒した。煙幕が風に靡いて消えてゆく中で、コバやんと甲賀が見た猫加藤の素顔、――それは彼等二人がそうあるべきだと思っていた人物の顔ではなく…
なんと目も口も鼻もない人間の顔だった。
驚愕する二人の前で猫加藤は二人に言った。
――僕の名はモモチ。
正体が分かるといいね、小林さん。
ではまた、いつか会いましょう。




