83 蛙跳び
(83)
げこっ、げっこ
カエルの鳴き声の様な声はカマガエルが喉に唾を飲みこんだ時にむせた音だった。
(『加藤』に反応したのかな…)
真帆はさも興味なさげな所作で続けて言う。
「加藤君て…先生、知ってます?」
――そして次はそう聞いて欲しい。
それもコバやんの指示だ。
真帆は止めていた指を動かして譜面を捲る。
その瞬間、ちらりと真帆はカマガエルを見た。見れば、カマガエルは首を軽く振ってそれから顎に手を遣るのが見えた。
「知ってます?」
真帆が念を押す。
するとカマガエルが顎に遣った手を摘まむ様にして離すと言った。
「いや、知らないな…」
カマガエルの表情には何も浮かんでいない。もしかすると本当に知らないのかもしれない。だが、それはもしかすると知っていて知らぬふりを懸命にしているのかもしれない。
真帆はカマガエルに言った。
「今日はこの曲を?」
ごく自然に言う。
譜面台には練習曲の譜面があったが、真帆は何を思ったのか、自分のバッグに駆け寄り、そこから天鵞絨ファイルの五線譜を取り出して譜面台に置いた。
「…先生、今日はこの曲にしたいんですけど」
真帆が言うとカマガエルはうん?と言う表情をした。
これもコバやんの指示なのだ。
しかし、指示内容は端的だ。
そう、それは…
「この独唱部分だけ練習したいんです。だって秘密があるみたいなんで」
真帆はその一言を放つと蛙飛びのように勢いよくカマガエルの心中へ飛び込んで行った。




