82 鎌蛙
(82)
特別講義はいつも通りピアノの音階に沿っての発声から始まる。
――九名鎮、普段通りに頼むよ。
(了解、探偵殿)
大きく声をピアノの音階に合わせて発声してゆく。腹部に添えた手がその声に僅かに震える。不思議だが、ややいつもより声が高く出ている気がする。それは僅かに押さえて気持ちの昂ぶりが出てくるのかもしれない。
だが、それを押し消すようには真帆はしなかった。
もしそんなことを僅かにでもすれば、きっとカマガエルには寸時に変化を獲られてしまうだろう。
「こらっ、声出すぎ、九名鎮。先生がいつも言ってるでしょう?まずは低く、強く出しなさいって」
(へぃへぃ…)
これこそが普段通りだ。
要するにいつも自分はスタートから完ぺきではない。徐々に仕上げて行くのだ。
高い声を押さえるように次は喉を引いて声を低く出す。
「そぅ、それ」
鎌田先生のピアノの音が強く響く。鍵盤を強く押したのだろう。それは二人に間での『OK』の合図だ。
「さぁ、続けて」
もう一度音階を弾き直す。
真帆はそれに合わせて低く声を出してゆく。
ピアノの鍵盤を押す指先が一オクターブ上へと移動するのが見えた。
それで真帆は今度こそ、高い声を出す。
鍵盤を移動して音を鳴らすカマガエルを追いかけて行く。
この練習は正に音と声の追っかけっこだ。真帆は追いかける度に息を止め、腹部に力を籠める。
この練習を例えれば水泳選手が僅かの酸素を吸って息を止め、深く潜水して距離を伸ばす練習と変わらない。吸い込むべき息は直ぐに吐き出される声になり、本当に窒息しそうになる。
だが、真帆はついて行く。
背に汗が流れて行くのも気にせず。
やがて最後の音に声が届いた時、カマガエルが振り返った。
「…へぇ、昨日休みで今日はちょっとどうかなと思ったけど。ちゃんとついて来たね」
腹部を揺らして真帆にカマガエルが言った。
真帆は息を吐く。
(まぁ、苦しいけどね)
それから真帆は譜面台を開く。
此処からは歌だ。
だが、真帆は譜面を開く指を止めた。
「先生」
カマガエルを呼ぶ。
ん?とした表情でカマガエルが真帆を見る。
「先生、図書館の田中さんとご親戚なんですね」
真帆の問いかけにカマガエルは顎に手を遣って答えた。
「へぇ、良く知ってるねぇ?聞いたの誰かに?」
そこで真帆は大きく吸った。
――九名鎮、そう言われたらこう答えてよ
真帆が無意識に友人に頷く。頷くと指示された通り、真帆ははっきりと言った。
「はい、加藤君に」
その瞬間、カマガエルが「げこっ」と鳴く声が真帆には聞こえた気がした。




