71 悪魔
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――その日、私は出来上がった詩を抱えて信濃橋の伯母の所に夜遊びに行った。そしてその夜、あの災厄に見舞われたのだ。
それは悪魔の軍団と言って良いだろう、アメリカ軍の空襲。
彼等の出現で世界は瞬時に紅蓮の炎に燃え上がり、多くの人間の阿鼻叫喚の叫びが鼓膜に突き刺さる。
面前に現れたのは私が読んだ北欧神話の『ラグナロク』の終末世界。
呆然とする私の手を握って伯母が走り出す。その時、背後で何かが光った。
吹き飛ばされて私は顔を上げた。
あぁ…何という事だろう。
見れば伯母の背には頭が吹き飛ばされた乳飲み子が、鮮血を吹き上げて背負われている。
伯母はそれを知っているのか、分からないのか、私の手を取ると懸命に走り出した。私と伯母は乳飲み子を弔うことなく炎燃え上がる焼夷弾の降る中、必死で逃げるしかない。
私は伯母と共に焼夷弾の中を逃げた。
途中、信濃橋が見えた。
河岸に飛び込む人や浮かんでいる人が見えたが、どこからか低空飛行して来たアメリカ軍機が大型の焼夷弾を落として人間を木っ端微塵にした。
それはまるで高い所から落とされた木綿豆腐が飛び散る様で、人間の肉体が瞬時に散華した。
私は逃げた。
どこへ逃げたか分からないが、かなり遠くまで逃げた。
爆撃機は常に私の背を抜けていく。私はまるで背に死神を背負っていて、それが背をするりとすり抜ける際に生死の賽子を振られて生き残れるか試されているようだった。
事実、私は爆風で飛ばされた大きな神社の木立の中に入った時、面前で大きな死神が落ちて来るのを見た。
――死ぬ
瞬時に思って地に伏せたが、その死神は私の肉体と魂を鎌で切り離すことは無かった。
私はもうそこで体力が失われ逃げるのを止めた。
やがて悪魔どもは去り、夜が明けた。
私は初めて興奮状態から抜け出て木立の中から朝陽に染まる世界を見た。
そこには、
もう、私の知る何もかもが無かった。
見聞きするのは生き残った人々のすすり泣きと、骸となった我が子を抱いて咽び泣く伯母の姿だった。
私は呆然とした中で唯、自分の血みどろ混じりの肉体に触れた。
生き残った。
その思いが脳天から爪先まで走ると、失われた世界を見渡しながら、人間は興奮状態から覚めて初めて悲しみを知る生き物なのだと私は思った。
私は記録すべきだ。
生きた私が記録するのは自分が逃げた道、そして今自分が居る場所、いや、それ以上に自分が感じた全て。
それこそ私が生き残った道理でもあり、ましてやこんなことが許されるべきことでは無いという事を語り継がなければならない。
1945年、三月十四日
私は決してこの日の事を忘れないだろう。
やがてこの街は復讐する。
それは誰にでもない。
それは人間の歴史の中に再び燦然と輝くのだ。
――やがて此処に眠る『神の雷鳴』と共に




