51 夏恋
(51)
――おっす、足のほうは少し腫れてるけど昨日ほどじゃない。学校明日から再開みたいだね。まぁ、行けるかどうかわかんないけどね。
真帆は涙を手の甲で拭くと返信する。
――うん、良かった。隼人。今さ、話しできる?話したい事あんねん。
真帆は素直に心情を吐露するように文字を打ち込む。返信が来た。
――いいよ。
真帆はもう一度涙を手で拭いて、それから甲賀に電話を入れた。数秒コール音がして、電話向うで隼人の声がした。
「よっ!九名鎮。どうした?」
甲賀の呼びかけに真帆は声を出そうとしたが、声が出ない。涙で声が押しつぶされたのだ。電話口の真帆の異変に甲賀は気付いたのか、優しい口調で真帆に呼びかけた。
「…どうした…何か…あったのか?…いや、あったんじゃないか」
甲賀の呼びかけに真帆は頷きながら、どうしようも無くなり、唯々ぽろぽろと涙を流した。
流れる涙が頬を伝い、唇から喉に入る。
何とも言えない程、しょっぱくて苦くて、それでいて温かい味が広がって、そこで初めて声が出た。
「…隼人」
「どうした?」
甲賀が訊く。
「…やられた?」
「何を?」
此処で少し間を措いて真帆が言う。
「五線譜…加藤に盗られた」
「えっ!?マジか」
驚きの声が真帆のスマホを振動させる。
「…うん、ウチが55アイスクリームでトイレに行った時に、バッグごとすり替えられて盗られたみたい」
「…バッグごと?」
甲賀の戸惑いの声がする。
そうかもしれない。現実的な光景を視野に入れていない彼からすれば、それは手品の様な想像ごとに過ぎず、現実感が湧かなくてしょうがないだろう。
真帆はそんな甲賀の為に自分がまき戻した盗まれた瞬間であろう記憶的情景を甲賀に涙声で話した。
その話を聞くと甲賀は理解をして、それから彼は九名鎮に一言、言った。
「すまない」
真帆が言う。
「隼人が謝る事じゃないよ」
「いや、九名鎮に辛い思いをさせて涙を流させてしまった」
「いいねん、ウチのミスやから」
互いの電話口で沈黙があって、甲賀が声を出す。
「話は分かった。九名鎮、それは残念だった。でもさ、僕は思うよ。きっと五線譜を加藤は無下にはしない。心配ない、絶対真帆の手元に五線譜は戻って来る。僕が保証する」
甲賀の声を聞いて真帆は再び涙が溢れて電話口で嗚咽を漏らした。
それを静かに聞いている甲賀の体温混じりの息が沈黙を纏って真帆の鼓膜奥に響く。
真帆はそれが自分の孤独を優しく包んでくれる毛布の様に感じないではいられなかった。
甲賀は真帆が涙を拭いて気持ちを落ち着けるまで唯静かに待っていてくれた。孤独が毛布の中で温かくなり、やがて真帆の中から消え去る時迄まで甲賀は唯、寄り添ってくれた。
真帆は甲賀に甘えたかったのかもしれないと自覚した。
それは自分自身が失敗して生んだ孤独という甘いアイスクリームを舐めている自分を、どうかごめんなさい許してほしいというどこか自己肯定的な甘え。
五線譜を盗まれた自分の心に心の中で卑屈さと素直さとが入り混じっている。どうしようもない――自分は今素直に彼に甘えるしか、孤独を溶かせない。
だから甲賀の声が聞こえた時、真帆は素直にうんと頷くしかなかった。
「九名鎮、今日から真帆って呼んでいいか?」
「うん」
真帆が頷く。
頷くと間髪入れず甲賀が強い口調で言った。
「じゃぁさ、付き合ってくれるか?僕と」
「…えっ……うん」
真帆は素直に言った。答えた意味も勿論自分で分かっている。例え心に卑屈さが入り混じろうと。
そしてそれは同時にアフロヘアのコバやんが――これからの自分の人生でどんな立ち位置の席に座るのかという事も…。
その瞬間、真帆の中で孤独が溶けた。溶けて、やがて不思議だが真帆の心の中に甘美な味覚が溢れて来た。それは甲賀も同じかもしれない。
――孤独が溶けた世界に何が生まれたのか。
真帆は新しい自分が生まれた気がした。新しい自分の中で彼女は彼に言った。
「コバやんにも言わなきゃ」
電話口で甲賀が頷いて言った。
「真帆。小林君、さっき僕チャットしたんだ。今何してる?って」
「うん。それでコバやん、何て?」
「何でもさ、ほら。例の玉造の稲荷神社の夏祭りあるだろ。そこで久々に昔からの友達に会うから、これから行くんだって」
「…そう、行くんや。祭りに」
「見たいだね。どう?真帆。行かない?祭りに。僕も用事があって外に出るんだ。まぁ自転車だから、足に負担は無いけど」
少し考えてから真帆は甲賀に言った。
「…うん。ありがとう、隼人。誘ってくれて。でも今夜はちょっと疲れた」
「そうか、そうだよな」
甲賀は彼女をいたわる様に声を掛ける。
「ありがとう、隼人。今夜は気持ちだけ貰ってく」
「分かった、真帆」
それを聞いて真帆が彼に言う。
「隼人、また明日」
「うん、また明日」
彼の声を聞いてから、真帆は電話を切った。
切ってから真帆は躰をベッドに投げ出すと息を吐いた。それは色んな感情が押し混じる深い溜息だった。




