104 美しい終わり
(104)
悔やんでいる人もいるだろう。
いや、
希望にあふれている人いがるかもしれないし、過ぎた日々に満足している人も、していない人もいるかもしれない。
卒業というのは、過去のある時点から確実に未来へと進むべきポイントになることは変わりない。そこに立ち過去を振り返った時、初めてその意味が分かるのが――卒業というのかもしれない。
チャットアプリが鳴った。
コバやんは学園の正門前でアプリを見る。そこには一通の着信がある。コバやんはメッセージを開いた。そしてそれを見ると思わず、満面の笑みになった。
――コバ、卒業おめでとう。
次はいよいよ大学かな。
また次のステージで会うのを楽しみにしてるよ。
佐山サトル。
(サーチん、ありがとう)
コバやんは嬉しそうに頷く。そしてスマホを閉じて辺りを見渡せば多くの学生達が互いの記念に写真を撮りあっている。今日この場で明日からは別々の道を歩む友人達との細やか惜別の輪が広がっている。
――学園の卒業式。
コバやんは卒業生の一人として、真帆の歌を聴いた。夏の惜別以来、初めて聞く彼女の独唱。
コバやんは素直に感動した。
彼女は苦難を乗り越え、そして見事に突破したのだ。彼女の声は響き渡り、来賓したアズマエンタープライズの役員から拍手喝采を受けた。
彼女の歌声が終わった時、コバやんは初めて自分の人生に本当の喜びと悲しみを感じた気がした。
そして今、自分は学園の正門に居る。
ここが最後の別れの場所だ。
コバやんは振り返る。
そこには自分が通った学舎があった。それだけじゃない。壁画の描かれた壁や、渡り廊下も見えた。
様々な友人の顏と共に思い出が心に去来する。
コバやんはそれから周りで燥いでいる同級生達を見て思った。
(僕達は本当に沢山の話をしただろうか)
すると突如肩を叩かれて、コバやんが振り返った。
そこに西条未希が居た。彼女は長い髪を後ろに束ねて、眼鏡をしていた。ちょっとした変装である。
「…あ、未希ちゃん」
西条未希はコバやんに言った。
「卒業、おめでとう。コバる」
コバやんはそれを訊いて慌てて彼女に言った。
「いや、それは未希ちゃんこそ。テレビに勉強と大変だったのに」
コバやんは彼女に言われてアフロヘアを掻いて照れてしまった。そして素直に彼女に言った。
「未希ちゃんも、卒業おめでとう」
西条未希はうんと頷くと笑顔になった。それからコバやんを引き寄せて言った。
「…聞いてるわよ。あの例の事件、コバる、色々自分の胸に仕舞ったみたいね。爆弾のことも…さ」
最後は小声になって耳元で言った。それを聞いたコバやんが鼻を掻く。
コバやんは未希から聞いている。爆弾の事を聞いて微笑を含んだ東珠子の言葉を。
――時代の色んな物をあれは仕舞いこんでるのよ。それは悲しみや恋、そして未来への警告、まぁ色々ね。でもあれは大丈夫、ちゃんと調べたら爆弾は爆発する大事な部分が無いの。
…でも、誰かがあれの事を知れば、また事件が起きるかもね。
東珠子の言葉にコバやんが追随する。
(事件ねぇ…)
コバやんはそこでそれ以上のことを忘れることにした。
それでいいのだ。
(もう事件は起きないさ。だって…)
コバやんは頭を掻いた。
――実は不思議なことだが、芸術団体『忍(SHINOBI)』が行ったあの爆破事件は意外な方向へと進んでしまった。
確かにあの事件は、行政に対して爆弾を威嚇として行ったある意味恐喝事件だったのだが、実害が無かったという点もさることながら、実は大阪市民の多くが突如街を彩った色んな芸術に対する評価は高く、犯罪性というよりも、そうしたものがこれからのメトロポリスとして大阪にはより必要ではないかという議論が湧きあがった。
そればかりか、唯一、この事件で捕まったのはゴエモンという人物に対しても市民の芸術家としての期待は高くなり、結局のところ、彼は大阪市民が期待する現代アーティストとして活躍することになった。
但し、彼の裏の側面がどういう決着をつけたのかは、警察しか知らないところである。
(――『イカズチ』は誰かの夢の中で生きればいい、そしてやがて平和の中で静かに腐り朽ち果てるんだ)
コバやんが未希を見る。
「…せやね」
コバやんが未希に答えたのが、この件についての総括かもしれない。彼女はそれを訊いて眼鏡の奥でくすくすと笑い、やがて言った。
「コバる。これから私らも自分達の道へ頑張って行こうね。でも…もしね、私の道で何か起きたらさ…私、絶対コバるに助けてもらうわ」
「えっ、ちょっと。僕、探偵とかそんなちゃうで」
「分かってる。でもね、助けてもらう」
言ってから未希は誰かに手を振った。どうもアズマエンタープライズの誰かのようだ。
コバやんは感じている。同じ役者を目指す自分と彼女の現実的な差を。だが、彼女がそれを内面に感じているかどうかは分からない。ただ、今から学園を去ろうと正門を出ようとした時、彼女はコバやんを振り返って言った。
「…だって、コバる。優しいやん」
そしてコバやんに手を目一杯振ると彼女は正門で待っていた車に乗り込んで、学園を去った。
――事実、コバやんは後年、ある事件で彼女から助力を求められるのだが、それはまだ少し先の事である。
去った彼女を見送った後、コバやんは一人正門で、去るべき時を互いに感じるべき人物を待った。
勿論、それは…
「コバやん」
自分を呼ぶ真帆の声がした。
それにコバやんは振り返る。
そこに短髪姿の彼女が居た。
「九名鎮」
コバやんが応えて、互いに歩み寄る。
そして互いに今の二人に相応しい距離で止まった。止まった二人の心の距離にどんな意味があるのだろう。
共に輝いた夏は去り、そして季節は廻り、春になった。
無言で互いを見ている二人。だが真帆が堪え切れなくなってコバやんに言った。
「…どう?独唱、どうやった?」
コバやんは答えず、大きな背を伸ばして真帆の面前へ腕を真っ直ぐ伸ばすと、親指を力強くピンと立てた。
それを見て真帆が破顔する。
彼女もまたあの事件以来、喉を悪くして声がおかしくなったのだが、彼女はそれから自分を鍛え直したのだ。
それは声を取り戻すという事ではない、自分という心の鋼を鍛え直したのだ。
だから満足げに彼女はコバやんに言った。
「今はこれがベスト。まぁ大学受験には失敗したけどね」
笑う真帆にコバやんが言う。
「それは僕もだよ。これから予備校に行かなきゃ」
言ってから互いに笑う。笑うとコバやんが言った。
「九名鎮も行くの予備校に?」
言うと真帆が答える。
「いや、行かない」
「えっ!!じゃ、まさか速攻で佃煮屋継ぐの?」
コバやんが背をのけぞらせて声を上げた。それを見てムッとして真帆が言う。
「阿保かっ、そちらでもないわ」
「ほんなら、何?」
コバやんに訊かれて、彼女は少し下を見たが、やがて顔を上げるとコバやんをじっと力強く見た。
「ウチな、アメリカに行く」
「アメリカ?」
意外なことにコバやんは驚きを隠せなかった。
「どういう事?」
コバやんが訊く。
「うん、ジャズの本場でいきなり自分を試してみるわ。だからこれからバイトして旅費貯めんねん」
「そうなんや」
言ってからコバやんが真帆に言った。
「九名鎮」
「何?」
真帆が微笑している。
「…うん、僕が言わなければならないことがある」
コバやんが頭を掻いた。真帆はそんなコバやんを見ている。
「そう、あの夏の事件」
「うん」
「…あれね」
そう言った時、真帆は首を横に振った。
「…いいのよ、コバやん。あの事件はウチも…その事実を秘密にしたい」
「九名鎮…」
コバやんは目を見開くと全身走る毛が立ちそうな感覚に総毛立つ。
「いいの?九名鎮?」
コバやんが言う。
「いいの。コバやん、それが私の青春、そしてコバやんと隼人…」
言うと真帆は首を振った。
「ううん、きっとその時代に生きた皆の青春なんだから――答えを探したくない」
彼女はコバやんから視線を外すことなく見つめている。その視線の力強さに、彼女の強い意志をコバやんは感じた。
彼女の意思を感じるとコバやんは無性に嬉しくなって、いきなり彼女を抱きしめた。真帆は一瞬驚いて躰を硬くしたが、しかし、やがて自分の躰を柔らかくして、抱きつく友人を自分も抱きしめた。
二人の抱き合う光景は巨大なマッチ棒に抱きつくコアラのような感じで滑稽かもしれない。
だが、此処で彼等の青春が終わるのであれば、決してあらゆる面で満足な終わりではないのかもしれないけど、それでも美しい終わりかたではないだろうか。
青春は二度と帰ることがない。
そして誰にでも平等に終わりがやって来る。
それは誰もが持つ、残酷な権利だ。
だがそれをいつか使わないといけない時が来る。
…ならば、
それを彼らの様に美しく使いたいと思う人が居るのであれば、まだこの世の青春は捨てたものではないかもしれない。
かくしてここでコバやんこと――四天王寺ロダンの青春は、美しく終わりを告げた。
その後、彼らがどのように生きるのかを知ることは、きっと誰かが背を叩いて言う筈だ。
――それは、大人として野暮なことだ、と。




