101 忍び寄る影
(101)
デジタル通信設備の完了が意味すること、それは次の学期の始まりであり、そして夏休みの終わりを意味する。
二学期は始まった。
夏休みの間、真帆を始め、コバやん、甲賀隼人、それだけでなく、佐山サトル、たぁ爺やカマガエル等、多くの人が学園の夏に顔を出していたのだが、学期が始まると出していた顔を引っ込めて、過行く夏と共に自分の棲み処へ帰って行った。
それはまるで夏の物の怪と言ってもいいのかもしれない。夏の事件なぞ、元々なかった無かったように語ることなく、次の季節へと向かって歩み始めるのは物の怪しかできまい。
夏に物の怪は付き物だ。ならば真夏の夜に見た白狐夜行もそうであろうか。
やがてそんな何といえない気まずさと淀みを含んだそれぞれの歩みは、夏と秋が手を伸ばして繋ぎ始めた頃迄、再び、誰かによって手元に引き寄せられた。
それは、誰だろうか。
音楽室に歩み寄る靴音がある。
それはとてもしっかりとした足跡で。
残暑の日差しが廊下の窓から差し込んでその人物の影を落とし、やがてその影が音楽室の室内へ進むと、影は幾つかある練習室の一つの前でピタリと止まった。
今日は土曜日。
授業は午前中だけで音楽室は午後に個人練習をする人に解放されている。そんな音楽室のドアを回すと、影がその部屋に入った。
入ると黒いピアノが一台置かれていて、誰かが弾いていた。部屋に入り込んだは、隅に置かれた小さな椅子を引き寄せて、静かにピアノの演奏が邪魔にならないように曲を聞いている。
弾かれている曲は、聞いている人物もよく知っている曲だ。
それは
――滝廉太郎『荒城の月』
曲が最後の音を鳴らして終わると、入り込んだ影が拍手をする。
その拍手は感嘆の気持ちが込められている。
それは演奏者へか。
それとも…、
何かを創り出した者への『憐み』にか。
「いや、お見事」
入り込んだ影は拍手を終えると言った。
演奏者は振り返ることなく、ただ鍵盤に指を置いている。それは演奏者だけが感じている曲への思いがまだ残っているのかもしれない。
「流石でした。モモチさん」
言うと影の頭が揺れた。勿論、鍵盤の指も。
すると影は大きな頭のもじゃもじゃ髪に手を突っ込むと激しく掻いて、やがてぴしゃりと首を叩いた。
「正に加藤君が言っていたように、脳内のシナプスというのは中々認識していない対象に対しては反応せえへんし、反射して動かない。だから正に灯台下暗しとはこのことなんですよ」
鍵盤に置かれた指が膝の上に置かれて、影へ振り返ろうとするが、それを影が止める。
「ああ、ちょい待ち。言っておかないことがありましてね」
「言っておかないこと?」
演奏者が声を出す。
「そうなんよ。モモチさん、いや、モモチ君かな…ほら、あの神社ですがね。不発弾、あそこにもありましたよ。あの後、地下を調べて貰ったんです。かなり奥深くにありました。だから田中イオリさんの日記の記載があった不発弾が眠っていたのは事実です。いずれ、行政が不発弾を取り除く思うけどね。ただ、――『イカヅチ』とは違うけどね」
「そうでしたか。それはよかったですね」
演奏者は振り返らない。
代わりに影が微笑する。
「でしょう?モモチ君。君は本当の事実を上手くフェイクに使って、敵も仲間も騙して『真実』を隠し、未だに自分の懐に潜ませた匕首の様に握りしめている。正に『忍』の棟梁や、モモチ君、君は」
言ってから、髪をもじゃもじゃと音を鳴らして掻く。
「しかし、戦争で亡くなられた方を利用するのは死者への魂の冒涜やと思うね、僕は」
そこでふっと演奏者は笑った。
「中々、きついこと言いますね」
「そうかな?」
影が答える。
「そうですね」
演奏者が答えて笑う。その笑いに対して影が語調を強めて言う。
「でもね、九名鎮は君がしたあんなことぐらいで、くじけへんで。彼女には夢がある。ジャズシンガーになるという夢が。だから今声を何とかしようと猛練習してるんよ」
「知ってますよ。同じ音楽科の後輩ですからね、僕は。猛も、猛。猛練習。声も数段良くなってきてるし、これならあんなことしなけりゃよかったと思いましたよ」
「だよね。勿論、君が好きで追いかけていた未希ちゃんも独唱者には絶対ならないしね」
膝の上に置かれた手が僅かに開いて、それから拳で鳴った。
「…どうしてなんですかね。彼女こそ、一番学園で輝いているのに」
「さぁ…あれやない?君みたいな奴にこれ以上追いかけられたくないからじゃないかな?」
今度は先程よりも激しく音が鳴った。まるで感情のこもった拳。怒りが込められた理不尽な正義がそこにはあった。
「言うなぁ…、あんた」
影が挑発する。
「君さ、僕のこと嫌いやろ」
「ええ、嫌いですよ」
はっきりと演奏者は言った。
「西条さんと幼馴染のあなたが本当に嫌い。それだけじゃない、西条さんではなくこの学園の輝かしい独唱者になった九名鎮真帆も。彼女は絶対、西条さんの為に辞退すべきなんだ」
友人の名を呼び捨てにされて影がついと動いた。そして静かに演奏者の背後に立った。
「…あまりにもこの事件は、知りすぎることができる立場の人がいなきゃ分からないことばかり。不思議だよね――田中イオリのことも九名鎮が独唱者になったことも、外部には普通分からないし、知られちゃいけないことばかり。思わない?そんなこと身内じゃないと分からないよね。だからさ、ひょっとしたら――誰かの身内が学園に居るんじゃないかと思ったわけさ」
影が頭を掻く。掻く影が鍵盤に落ちて動く。
「あっしはね、たぁ爺に訊いたよ。三重県に嫁がれた田中イオリさんの三重県の嫁ぎ先、なんと百地というそうやねん、あまりにも奇遇だよね?。そこでますます身内説が強くなる。つまりモモチのネーミングはそこから来ている。…違うかい?モモチ君、いや…」
言うと影は演奏者の肩に手を置いた。
「…神代護くん」
そこで演奏者は振り返り、影を見た。
前髪が垂れるその中から影、――コバやんを見る黒い瞳。それは混沌を愛する人しか見せない眼差しのようだと、コバやんは察した。
コバやんは言う。
「神代君、いや、モモチ君。君の父さんは何を隠そう――カマガエル。そして君は幼い頃にそのカマガエルが離婚したお母さんの子、カマガエルのオタマジャクシ、つまり実の子さ」




