10 返して欲しいんだよ、僕に
(10)
差し出された手の中に握られている沈黙と言う「無視」。にもかかわらず差し出された手はそんなことに対して健気にも誠実だ。
その誠実はまるで拾い上げた赤子の柔らかい微笑のようにとても蠱惑的に真帆の「無視」の呪文の時間切れを待っている。
だが真帆の「無視」の意志の方が強いかもしれない。
いや強いなんてもんじゃない。
――誰が渡すものか
毅然とした意志がある。その毅然とした真帆の意思に灯る一つの疑問。
何故、私が独唱譜を持っていることを目前に立つ狐の白面が知っているのか?という事だ。
ちなみに鎌田から手渡された独唱譜は群青色の天鵞絨生地のファイルに入っている。独唱譜は校歌の最後の独唱一節が書き込まれている五線譜だ。
戦後に誰かが書き込んだ五線譜のようで今も僅かに酸化の黄身が掛かった状態ではあるが、透明ファイルに閉じ込まれ、且つ天鵞絨ファイルに大事に仕舞われている。
普段は校長室の金庫に保管されているようだが、何か特別な時にはこうして外に出される。
つまり――独唱者が決まった時だ。
だから、それを狐の白面が知っていることがますます真帆に疑惑を持たせ、より毅然な気持ちにさせたとしても無理はない。無理はない上に、断然、真帆の中では面前の狐の白面が誰だか分からないその不明さが相まって、より深く「無視」の姿勢が強くなった。
その真帆の態度に感ずいたのか、狐の白面は言った。
「無視はよくないよ、九名鎮」
狐の白面の声が渡り廊下の天井に響く。続けて言う。
「独唱譜を僕等に渡してほしいんだ。…いや、もっと正確に言えば返して欲しいんだよ、――この僕に」
湧き上がる疑問に符牒する真帆の眉間に皺が寄る。
――僕等?
(違う、そうじゃない)
いや、返して欲しいんだよ、僕に?
(そう言った…)
毅然とした「無視」の意思が風の吹いた林のようにざわつく。ざわつきは葉を擦らせて大きな音になり真帆の心の静寂を揺り動かす。
狐の白面は本当の妖かもしれない。人心を掌握する知性でもあるというのか。
最後に真帆の無視を打ち砕く、一言を放ったのだ。
「そうさ、何せそいつは僕の祖母、田中イオリが作詞した歌詞なんだから」




