伯爵家の執務室 3
しかし、気が付いたところで、すぐに答えが出てくるはずもない。
ローザリンデは、何とか言葉を絞り出した。
「フィンレー様から求婚していただいていると知ったのも、つい先日のことなのです。もう少しだけ、考える時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
結局こうして、またしても答えを先送りすることしか出来ない。
けれど、父親である伯爵は、それを受け入れた。
「分かった。おまえの希望を聞くと決めたのだ。後悔のないように、じっくり考えなさい」
自分と家門が第一の父親が、本当にローザリンデの意見を聞くのだという。
想定外の返答に、内心戸惑いながら、とりあえず素直に感謝をして礼をすると、執務室の扉をそっと閉めた。
その後、レオンの待つ自分の部屋へ、ほんの数十歩しかない廊下の途中で、ローザリンデは足を止める。
部屋に行けばケイティがいるなと考えながら。
出来れば、一人きりで考えをまとめたいと思いつつ、廊下の窓から中庭を見下ろした。
ここに巻き戻って来て、六日が経つ。
たった六日で、一体どれほどのことが前の時と変わってしまっただろうかと思った。
いや、自分の周りだけで考えれば、それこそ何もかも、そう、何もかもが変わって来てしまっている。
自分も、ラーラも、伯爵夫人も、伯爵も、パトリックも、フィンレーも。
他ならぬ、自分の手で変えてしまった。
ゲオルグとラーラが無事に婚姻式を迎え、自分は本来そうであったはずの、平穏だが幸せでもない人生を送る、それだけが目的であったのにもかかわらず。
シャンダウス家で変わらないのは、レオンぐらいかもしれない。
そもそも、巻き戻った人生は、前の時に起こってしまった『間違い』を正し、やり直すためにあるのだとローザリンデは思っていた。
その中で、するべきことをして、してはならないことは絶対にしないと。
するべきことは、愛し合う二人が正式に婚姻できるように万全を期すこと。
そして、してはならないことは、義妹の婚約者に想いを寄せ、略奪する存在にならないこと。
きっと、前の時、何もなければ、ローザリンデはレオンの母代わり兼教育係として、一生独身でいたと思う。結婚したとしても、レオンが王立学院に入学してから、どこぞの老いた貴族の、体の良い介護の役目を負った後添いだと。
だから、今度の人生でも、自分が誰かと結婚をする可能性を、真実、現実として考えたことなどなかった。
確かに、フィンレーから求婚され、ガッデンハイル公爵夫人からそそのかされ、父親から期待されてはいた。
しかし、そのどれもが、どこか現実味を伴わずにふわふわとただ心の中を漂っていた気がする。
なのに、巻き戻って来たこの人生で、また、新たに誰かと結婚して、家族を作っていく?
そこまで考えて、ローザリンデは自分の中で形になりかけていた考えを、強制的に意識から締め出した。
今日は色々なことがありすぎたのだ。
チュラコス公爵家での水晶舎でのこと。
大聖堂の、『隠されたの静寂の部屋』でのこと。
どちらも、たった一日に詰め込まれるには不相応なほど、濃密で忘れがたい時間。
確かに、前の時、使用人同然に貶められ、黄ばんだドレスで大夜会でのデビュタントを迎えた自分が、今度は誰もが羨む公爵令息からの熱心な求婚を受けている事実は、単純に自分の心を沸き立たせていた。
しかもそれが、自分の人生の中で唯一輝いていた時代である、王立学院での尊敬する先輩、フィンレーからのものであるから余計に。
真っ直ぐに伝えられる真剣な想い。
自分を見つめるだけで、琥珀の瞳が黄金に溶けていく時、何もかも忘れてその大きな手に我が身を委ねたくなる。
きっと幸せになれるだろう。
前の時のように、誰かと自分の夫を共有する苦痛に苦しむこともない。
そして何より、『隠された静寂の部屋』で、パトリックから告げられた、いいや、自分も薄々感じていた、あのことを考えれば、フィンレーの求婚への答えを躊躇する理由などどこにもありはしない。
ならなぜ?
自問すれば、さっき締め出したはずの形を取らない何かが、断片的に脳裏によみがえる。
それは、事切れる寸前にまぶたの裏に焼き付いたままの、ゲオルグによく似た面差しの、赤銅色の髪色の青年の顔。
ルードルフ、クラウディア、ケイン、ハイディ…。
決して忘れられない愛する子どもたち…。
ローザリンデは、激しく頭を振る。
思い出してはいけなかった。
なぜなら、何度も何度も後悔した、ゲオルグとの結婚を避けようとしている以上、考えてはいけないことなのだ。
けれど、そう思う一方で、もう一人の自分がささやく。
前の時、愛し合っていると思っていたゲオルグとラーラは、今どうだ。
そもそも、この二人の間に最初から愛情などあったのだろうか。
前の時の、自分の苦悩は、本当に必要だったのか、と。
その声に、思わずぎゅっと、自分の左腕を右手で握りしめた。
自分の中での『夫』が、いまだにゲオルグであることに狼狽して。
違う…。
前に引きずられてはいけない。
『ここ』に、自分を連れて来てくれたパトリックは、そんなことちっとも望んでいない。
彼は、若くして亡くなってしまった幼馴染を憐れんで、もう一度やり直す機会を与えてくれたのだ。
心に小さな火が灯る。
前の時から、パトリックのことを思えば、いつでも心の奥がほんのり温かくなった。
会えることはなくとも、常に自分のことを頭のどこかに住まわせてくれていると思うだけで、自分が何の価値もない人間ではないと思わせてくれる存在。
そして、そんな時、いつも思い浮かべていたガッデンハイル枢機卿の、銀髪をなびかせた神々しい姿を思い出す。
しかしそれは一瞬で、いつの間にか気付けば、自分の中のパトリックは、ミッドナイトブルーのコートをまとった、十四歳になる少年の姿に変わっていた。
それと同時に、自らの身のそこここにパトリックの気配が、瞬時によみがえる。
優しく口づけされたこめかみに、高い鼻梁をさしこまれた髪に、柔らかい銀の髪が広がって、熱がじんわりと広がった肩に。
神聖なる存在だった『ガッデンハイル枢機卿』が、生身の熱を発する『パトリック』にどんどん上書きされて行く。
ほんの少し、空気に色がついただけのような思いを、ローザリンデはかき消した。
何より、パトリックが望んでいるのは、自分がフィンレーの求婚を受けることのように思えて。
茶会の途中から、突然口数が少なくなってしまったパトリック。
きっと、彼もルゴビック子爵の登場で、ここから始まるかもしれない、前の時の血で血を洗う王権争いへの道が見えてしまったのだろう。
そして、そのことを自分に告げるために、わざわざあそこに連れて行ったのだ。
パトリックは、教皇の指示で『時戻しの術』を執行したと言っていたではないか。
教皇は、ルゴビック子爵の婚約者、マーシャシンク侯爵家の出身。
きっと、このことと無関係のはずはない…。
パトリックの使命が何なのか、それはおぼろげながら形が見えて来た。
それならば、ローザリンデが幼馴染に報いるために、そして自分の幸せのために、成すべきことは一つしかない。
チュラコス公爵令息の求婚を受けるのだ。
『チュラコス家の呪い』に囚われたフィンレーが、王弟派の黒幕へとその身を落とす、その前に。
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