伯爵家の執務室 2
そしてふと、先月行われた、カスペラクス侯爵家との婚約式のことを思い出す。
あの時、デビュタントの翌日早々に送られて来たという、ラーラへの求婚の許しを求める書状を領地で受取り、ほくそ笑んだ。
思った通り、可憐な容姿のラーラは、すぐにもどこぞの家門の子息のお眼鏡に適ったのだと。
しかも、相手は嫡男ではないとはいえ、軍閥として抜群の権勢を誇るカスペラクス侯爵家の、将来有望だと噂される子息。
想像もしていなかったほど有力な家門からの求婚に、喜び勇んで王都へ足を運んだ。
しかし、大夜会の翌日に急ぎ書状を送って来たのが嘘のように、契約式での婚約者の瞳には、ラーラに対する熱量というものが一切感じられなかった。
その深緑色の瞳には、愛情もなければ欲情すら浮かんでいない。
強いて言えば、憐憫にも似た使命感のような感情が、見え隠れするのみ。
それすらも、我が妻である伯爵夫人とその連れ子がしでかす、空気を読まない無知で傲慢な発言に、どんどん消え失せて行くのが目に見えて、内心冷や汗をかいたものだ。
それに引き換え、昨夜、この屋敷のエントランスで、ローザリンデを見つめるチュラコス公爵令息の瞳は、今にも溶けだしそうなほど熱かった。
そして、そんな二人を前にしたガッデンハイル公爵令息は、チュラコス令息に対する隠し切れぬ劣等感に苛まれていた。ローザリンデを中心に、対角に立つ二人の子息の目に見えぬ攻防に目を見張ったものだ。
それを目の当たりにしてしまえば、やはり、ラーラが、そういう意味でカスペラクス侯爵令息から求められていないことは明白に違いない。
しかし、いまさら婚約解消などと言われても困る。
『国王の剣』である、カスペラクス侯爵家とのつながりは、かつて『裏切り者』と後ろ指さされたシャンダウス家にとって大事な今後への足掛かり。
慣例通り、婚約発表から一年後に婚姻をするとしたが、その間に何があるとも限らない。
早々に手でもつけてもらって子でも出来れば、有無を言わさず嫁がせられるのに…と考えたところで、それはないと伯爵自ら打ち消した。
求婚したての令嬢をあんな冷ややかな視線で見る男が、わざわざ婚姻式の前に手を出すはずがない。
それこそ、伯爵夫人がどこぞから取り寄せた、寝台の上で使う薬でもあれば別かもしれないが…。
思いがけず思索にふけってしまった。
その間、文句も言わずに執務室のソファーに座っている娘を見れば、いまだ頬をほんのりと上気させ、なぜか書棚に並べられた書籍の背表紙を眺めている。
「ローザリンデ」
呼べば、ついとこちらを向いた。
こんな暗い部屋でも輝きを損なわないダークブロンドの髪がさらりと流れ、『シャンダウスのヘーゼル』の瞳が、話し手の意を汲もうと理知のきらめきを湛える。
確かに。
今の自分なら、この娘の値打ちが分かる。
妻とは、褥を共にするだけの女ではないのだから…。
「前に、ガッデンハイル公爵令息が国教会に戻らないならば、必ずやお前に求婚するだろうと言ったのを覚えているか?」
つい二日前のことだ。忘れるわけがない。
「覚えております。ですが、その時、そんなことを口になさらないで下さいとお願いしたはずです」
瞬きもせずに、自分とよく似た父の瞳をまっすぐに見ながらそう返答すれば、伯爵は「ふう」と息を吐き出し、珍しくおどけたような表情を見せた。
「まあ、そんな風に怒るな。ご令息がおまえにとって、大事な幼馴染だということは分かっている。ただ、おまえのお陰で突然我が家に舞い込んで来た僥倖に、わたしも浮かれてしまっているんだよ」
こんな顔も出来たのかと、ローザリンデは目を見張る。
だからと言って、父に対する自分の感情が変わるわけではなかったが。
おどけた顔の後、伯爵は執務机の上の自分の手に視線を落とした。
「ただ、今日でチュラコス家からの求婚の書状は三通目だ。しかも、もしかすると、それ以前にも送られて来ていたかもしれない。あの令息が、おまえをチュラコス家の夜会に招待していないわけがない。なのに、その招待状はいまだにどこからも出てこないのだ」
そう言われて、ローザリンデは内心(出てくるはずがない)と、返事をする。
前の時と同じであれば、自分宛の手紙や招待状は、すべて伯爵夫人が握りつぶしているはずだからだ。
どこかで、この屋敷で行われていたローザリンデへの理不尽な行いを、父も察したのかもしれない。
いつしか、三通送られる前に、もう一通、求婚の許しを求める書状が来ていたのではないかという想像は、伯爵の中で確定のこととなっていた。
「しかし、もし送られて来ていたのであれば、四通も求婚状をもらったままで、これ以上返事を保留することは、あまりにもチュラコス公爵令息に対して不敬に当たる…。一度、是か非か、お返事を差し上げるべきだろうかと、考え始めているんだよ」
そう言われて、ローザリンデは動揺した。
と言うことは、ここで一旦、自分の気持ちを鑑みなければならないということ。
だが、フィンレーはゆっくり考えて欲しいと言ってくれていたはずだ。
ローザリンデは膝の上でスカートをぎゅっと握る。
「お父様、フィンレー様からは確かに具体的なお言葉をいただきました。けれど、その直後にゆっくり考えて欲しいともおっしゃって下さったのです。ですから…」
しかし、その言葉は、伯爵の発言によって途中で遮られた。
「言葉通りに受け取りたいのは分かる。しかし、お前なら分かっているはずだ。チュラコス公爵令息が与えてくれる時間の猶予は、『諾』という返事を期待しているからだと」
その通り過ぎて、ローザリンデは何も返せない。
そんな娘を見て、伯爵は言葉を続ける。
「だから、お前の中でご令息の求婚への答えが『否』であるならば、少しでも早く返事をするのが、せめてもの誠意だよ」
スカートを握りしめる手をじっと見て、微動だにしないローザリンデに、伯爵がさらに問いかけた。
「お前の正直な気持ちを聞かせておくれ。わたしは、それを尊重しようと思う」
『正直な気持ち』
そう言われて、何も言葉が出てこない。
前の時の間違いを正すことばかりに必死になり、一体自分がこの人生をどう生きようと思っているのか、まともに考えていないことに、ローザリンデはその時初めて気が付いたのだった。
12時40分に書きあがりました。ぎりぎり。
読んで下さり、ありがとうございます。




