伯爵家の執務室 1
それでも、意識を失ってしまったラーラのために、伯爵は医者を手配した。
後妻に選んだ女の連れ子である、この平民の娘を、自分の手の内にある間、不自由させる気は毛頭ない。
それは個人的な矜持として、当然なすべきことだった。
ただし、その血を自らの家門に加えるなどということは、微塵も考えたことがない。
それが、この父の考え方だった。
(チュラコス家のご令嬢が平民の使用人と結ばれたなんてこと、まったく理解できないでしょうね)
医者の見立ては、感情が昂ぶりすぎたことによるヒステリーだとか。
心配はいらないと、気付け薬だけ置いて帰って行った。
あの薬は苦手だ。
前の時、ゲオルグとの婚姻式で、失神してもいないのに嗅がされた嫌な思い出。
屋敷が落ち着きを見せた頃、改めて父から執務室に呼ばれた。
公爵夫人と同じく、今日の茶会の他の出席者について聞かれる。
「ご令息の学院時代からのご友人でいらっしゃるルゴビック子爵とそのご婚約者である、マーシャシンク侯爵令嬢、そして、ご令息のお従兄妹でいらっしゃるご令嬢がいらっしゃいました。ごく少人数の集まりでしたのよ」
そう答えると、伯爵は公爵夫人とはまったく違う感想を漏らした。
「婚約済みの友人二人に、ご自分の従兄妹。それにローザリンデとガッデンハイル公爵令息。それだけということか?」
父親は、ルゴビック子爵にまったくなんの先入観もない様子。
それもそうだろ。
国中から情報をかき集めている公爵家と、中央に足場もない伯爵家の情報量の差がそこに現れていた。
「その通りでございます」
父親からの問いかけを肯定すると、しばらく考え込んだ後、伯爵が執務机の文箱から一通の書状を取り出してくる。楯と弓の紋章がすぐに目に入った。見覚えのある、角ばった文字も。
「チュラコス公爵令息から、今日、お前が帰って来るまでに、また書状が来た」
そう言って封筒から一枚の便箋を取り出すと、ローザリンデに見えるように広げて見せた。
立ち上がって近づかずとも、遠目のままで内容が大体わかる。
フィンレーの文字は、その体躯と同じで大きく力強い。
「これで、わたしが受け取った求婚の許しを求める書状は三通目となった。もちろんまだ許しの返事を出してはいないが、茶会で直接何かを言われたか?」
そう言われた途端、温かみがあって空気を震わせるような低音の、『番になりたい』と告げられた声が、脳裏で再生される。と同時に、チュラコス家の水晶舎の明るい光の中、黄金色の細められたフィンレーの瞳までもが浮かび、ローザリンデは一瞬にして頬を赤らめた。
それを見て、伯爵が眉を動かす。
「…どうやら、何かは告げられたようだな」
そう言われて、はっと自分の表情を引き締めた。それでも、赤くなった頬が瞬時に収まるわけでもない。
そんな目の前の娘の表情に、伯爵は思いを巡らせた。
この娘を、伯爵家の継嗣にしなくて済んで良かったと。
でなければ、公爵家の嫡男からの求婚を、受けたくとも受けられない。
シャンダウス家の当主として、自分の人生で果たすべき使命は中央政権への返り咲きだった。
そのために、自らの血を分けた娘と、容姿の優れた後妻の連れ子は、婚姻によっていずれかの家門と伯爵家をつなぐ重要な駒だった。
女としての魅力には欠けるであろうローザリンデには、次期伯爵と言う大きな餌をつけて、有力な家門の次男三男を。
血筋は悪いが誰が見ても可憐なラーラは、多額の持参金を持たせて、出来れば有力な家門の嫡男を。
だから、ローザリンデが王立学院で優秀な成績を修めているという報告より、学院の貴族の男子学生から、求婚や交際を申し込まれたことはないという報告の方が気になっていた。
そして、自分で男を惹きつけられないこの娘には、いずれ自分が相手を見繕わなければならないとも。
しかしそんな折、後妻である伯爵夫人が懐妊する。
自分の容色の衰えにより、伯爵の関心が薄れていくことを危惧したのか、ここ数年、伯爵の血を引く子どもを得ようと必死だった。
夫と褥をともにするために、それはそれは様々な要求にこたえ、技巧を凝らし、果ては寝台の上でしか使えない薬を取り寄せるまでしていた。
その甲斐あってか、伯爵にとっても初めての息子であるレオンが誕生する。
正直、この教養がなく多淫な女から産まれる子どもが、本当に自分のタネからかどうか疑ってはいた。しかし、初めて見たその子の瞳が、紛れもない『シャンダウスのヘーゼル』の色合いで、疑いようもなかったことに安堵した。
嫡男が生まれたことで、伯爵はすぐに領地経営に着手する。
中央から弾かれた時与えられた、この穀倉地帯の領地には正直思い入れはなく、常に家令に任せっきりだった。しかし、何もしなくともそれなりの収入を上げるこの地の利益を、もっと上げ、シャンダウス家の財政的な土台を強固にしたくなったのだ。
継嗣の娘で他人に爵位を継がせるのと、自らの血を引く嫡男とで、伯爵の家門復活の熱量がかなり変わったのだ。
それまでも関心が薄かった。しかし、レオン誕生により、さらにローザリンデへの関心は薄れた。
それは、息子を生んで体の線が崩れ、もう用なしになった伯爵夫人に対しても。
そのおまけである、連れ子のラーラに対しても。
もはやローザリンデという存在は、継嗣でもなく、有力な家門の嫡男から求婚されるほどの容姿でもなく、レオンをまともに育てることにしか、存在意義を見出せなくなっていた。
それがどうだ。
今、目の前で頬を赤らめる娘は、確かに蠱惑的な大きな瞳も、妖艶な曲線を描く肢体も持ちはしないのに、その知性や胆力、思いやりや正義感など、様々な内面を埋め尽くすものによって、こんなにも輝きを見せている。
それは、かつて焦がれてやまなかった、今は公爵夫人となってしまったあの人を髣髴とさせるほどの…。
(だから、チュラコス公爵令息はこの娘を欲するのだ)
それだけの男に求められるのは、見てくれだけの女ではダメだ。
かつて、自分も、あの人に恋焦がれている時は、そんな男の端くれだったのだろうか。
まだ、シャンダウス家が、『裏切り者』のレッテルを貼られる前の、王立学院の学生であった頃には…。
(しかも、ガッデンハイル公爵令息も、明らかにこの娘に対して特別な感情を抱いている)
序列一位と二位の公爵家の嫡男から想いを寄せられるのが、我が娘であるという事実に、シャンダウス伯爵は身震いを覚えた。
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