時戻し 3
まさか、この摩訶不思議な巻き戻りが、ガッデンハイル枢機卿、自分の幼馴染パトリックによって為されていたとは。手首につかまってみても、体の震えは止まらなかった。
「リンディ…」
それを見たパトリックは、そのまま腰を落とし、空いている方の手で幼馴染を抱き締める。
地下にあるこの部屋は、それほど冷え切っているわけではなかったが、身の内から起こる震えをどうにかしてあげたかった。
「パトリック…、パトリック…」
ローザリンデは、すがるように目の前の幼馴染の名を呼んだ。
今でも、病に倒れ、事切れた瞬間を覚えている。
あの時、最後、ゲオルグによく似たルードルフの顔の上で、視線が止まったのだった。
ゲオルグに会いたいとか、見送って欲しかったとか、そういう意味ではない。
彼と自分を巡る、様々なすれ違いやボタンの掛け違い、それに巻き込まれた人々。
本当に、自分が歩んできた道筋しか取れなかったのかと、その顔を見て、無念という感情が込み上げたのだ。
その直後、意識が暗転した。
そして、次に目覚めたのは、この十七歳の世界だった。
半地下の使用人部屋で、壁にかけられた金細工の鏡で実感した巻き戻り。
戻って来たのは、何度も何度も夢想した、ゲオルグに出会う前の世界。
『過去を今から変えることは出来ない。けれど、もう一度やり直すことは出来るかもしれない。神は、魂をかけた切実な思いを、見放すことはされない』
あの時、頭に浮かんだパトリックの言葉。
それは、この『特別な秘術』の存在を知っていたから?
様々な思いが巡り、感情が嵐のように吹き荒れる。
その中で、この手の中のぬくもりだけが、遠くに見える灯りのようだった。
どれほどそうしていただろうか。
いつまでも震えが止まりそうもないローザリンデのこめかみに、パトリックが、そっと唇を押し付けた。
びくりと、ダークブロンドの髪が揺れる。
そして再び、そっと押し付ける。
二回、三回、四回…。
こめかみの柔らかな感触と、それと同時に髪へさし込まれる鼻梁の感触に、いつしか、ローザリンデの震えが止まっていた。
まるで、泣きじゃくる幼子だ。
母であった時、何度もこうやってなだめた。
しかし、自分がこうしてもらうことなど、いったい幾度あっただろうか。
それは、八歳で国教会へ囲われたパトリックも同じかもしれない。
「落ち着いた?」
自分の真横にある翡翠色の瞳が、気遣わし気にこちらを見る。
あり得ないほど密着していたことに今更気が付き、ローザリンデは身じろぎした。
それを、パトリックの腕が留める。
「大丈夫。誰も見ていない。リンディが落ち着くのが一番大事なんだ。これほど動揺させると分かっていれば、もう少し違う伝え方をすれば良かった…」
そう言って、口惜し気に顔を伏せると、ローザリンデの肩にかけられたセーブルのショールに頬をうずめた。
「いいえ、パトリック。例え、どんな風に伝えられたとしても、わたしはそれを冷静に受け止めることは出来なかったと思う。だからこうして、誰の耳目もない場所を選んでくれて、ありがとう…。」
そして、手首を掴んでいた手をやっとほどくと、今度はほどかれたパトリックの手の方が、彼女の冷えた指先を捕えて来る。その指先もまたひやりとしていて、ローザリンデは捕らわれたまま、二人の手を掲げ持つと、そこに息をはーっと吹きかけた。
しばしの静寂のあと、口を開く。
「一番やり直したいところに戻って来れたかと聞いてわね。もしかして、そんな『特別な秘術』を、わたしのためにしてくれたというの?」
そんなことを気にするところが幼馴染らしいと思いながら、パトリックは簡単に嘘をついた。
「リンディはおまけだよ。これを執行するには教皇しか所持できない宝璽が必要なんだ。本来の依頼者は、教皇様さ」
教皇という言葉に、ローザリンデが驚く。
「初代ガッデンハイル枢機卿が建国の祖であるオリアニス王の死の際に使ったのが最初とされる秘術中の秘術だよ。そんなものを、ぼくの力だけでできるわけがないだろう?」
パトリックは、そう説明しながら、その時贄となったヒューゲルグ公爵の名前を意図して外した。
今回の『時戻しの術』で、誰が贄となったのか、ローザリンデに知らせる気が全くないからだ。
そして、セーブルのショールに頬をこすりつけると、訥々と言葉を続けた。
「ぼくは、八歳の時に、先々代のガッデンハイル十四世教皇が、次に公爵家から国教会へ来る人物に宛てて書き残していた書簡で、この秘術を知った。」
ビクリと、肩が動く。たった八歳の子どもの時に?幼馴染がそう思ったことがそれで分かる。
その反応すら、彼の心を満たした。
「これは、ガッデンハイル家の血を引く者しか執行できない秘術なんだ。しかも、かつて成功したことは一度しかなく、何度も失敗してきた秘術で、いつしか代々の公爵家出身の教皇たちは、その秘術を執行することが使命のようになっていたんだ」
ローザリンデがいちいちうなずいているのか、しゃらしゃらと音がする。
「今の教皇様はマーシャシンク侯爵家の出身だから、その秘術の具体的な発動条件なんかは知らされていないけど、教皇として宝璽を受け継ぐ以上、この術の存在はご存知だ。教皇様のご容体があまりよろしくないことは、カスペラクス家にいたなら知っていただろう?」
「ええ…。そして、あなたが次代の教皇だと、誰もが思っていたわ」
「はは…。そうだろうね。それに何の疑いも持たず、幼い頃から修練を重ねて来ていたからね」
その自嘲気味な声音に、ローザリンデは不審を抱いた。
「もしかして、何か思うところがあったの?」
思うところはあった。後悔先に立たずとはまさにこのことだと何度も思っていたことが。
しかし、それをこの幼馴染に言うつもりはまったくない。
「でも、結局はその前に教皇様の命により、『時戻しの術』を執行することになったんだ。たまたまその時に、君の死が重なった。君が、前の人生で多くの苦労をしているのは知っていたからね。それに亡くなったばかりのリンディの魂を巻き込んだのさ」
どうやって巻き込んだとか、執行したとか、もし聞かれたとしても、『秘術だから答えられない』で片が付く。
パトリックは耳障りの良い説明を並べた。
ローザリンデは、すぐには返事をしなかった。
彼女も何をか考えているのだろう。
けれど、しばらくして、ポツリと言った。
「ありがとう…。パトリック…」
と。
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