時戻し 2
失敗したなら、再度教皇の命を捧げてもらえば良いのだ。
いや、この男をひとまずどうにかしてやらなければ気が済まない…。
一体どこからこんな醜くエゴイスティックな感情が湧き出て来るのか。
自嘲の笑みを漏らしたその枢機卿の顔は、神々しいばかりに無慈悲だった。
カスペラクス侯爵家の墓所でゲオルグを取り押さえ、聖堂内の懺悔室で話を持ち掛けた。
拒否されるのは織り込み済み。
もし抵抗されたなら、経典より重いものは持ったこともない枢機卿が、剛剣をふるう騎士団長に適うはずがない。
何とか夜の墓所へ誘い出せれば…。
けれど、あっけなく、ゲオルグは喜んでその命を差し出すと言った。
生まれながらにすさまじい神力を持つと言われる枢機卿から、教皇の宝璽まで見せられてされた話に、疑いすら抱いていなかった。
なにより、この男も、間違った人生の分かれ道を歩んでしまった己を責め続けてきたようだ。
そして、妻の死に理性を失っている。
いつからかは知らないが、ローザリンデのことを深く愛しているのは間違いなかった。
だが、「必ずや成功させる」と言ったパトリックの頭の中に、この男にもう一度幼馴染とやり直させる気など、毛頭なかった。
巻き戻るのは最も心残りな人生の岐路だと、成功者は語る。
ならば、ゲオルグが何度も自らの選択を悔いている岐路は、ローザリンデと出会った後にあるに違いない。
けれど、この男がそこに立つことは二度とないだろう。
なぜなら、この男が思う時間よりずっと以前の場所に自分は戻るに違いないからだ。そして、この男が思い浮かべる岐路など消し去ってやる。
戻るべき岐路がなくなれば、この男の魂は、ずっとそれを探してさ迷い続けるのみ…。
日がすっかり暮れた墓所で、ゲオルグがローザリンデの棺を蓋う土を掘り起こす。
そこで自らの命を差し出すために。
そっと棺のふたを外せば、そこには花に埋もれた愛しい顔が。
何度も何度もそれに口づけをして、救国の英雄は花ごと妻を抱き締めるように身を伏せた。
パトリックは、あの日から、何度も何度もそらんじて来た、『時戻しの術』の聖言を謡うように唇に乗せる。
まさか本当にこの聖言を唱える日が来るとは、初めて経典を見た日には思いもしなかった。
最後の一節を唱え、パトリックは大きく長剣を振りかざすと、男がわざわざ狙いを教えてくれた、左の肋骨の隙間を目掛け、飛び掛かるようにそれを突き立てた。
瞬間、真っ白なローブで覆われた神官服の胸元から、金の光が辺り一面に広がる。
懐深く大事にしまった、初代教皇の『神力の玉』が発光していた。
そして、パトリックの体は、数億もの粒に霧散した。
次に目覚めたのは、神学校の寄宿舎の寝台の中。
もう二十年近く前に巣立ったはずの場所。
うるさく鳴る心臓をなだめ、同室の年長の神学生たちに気付かれぬよう、そっと上掛けの中で見下ろした体は、まだ成長期が始まったばかりの少年のものに見えた。
そして、『神力の玉』を抱いていた自らの左の胸をそっと見れば、そこには聖痕とも言うべき星のような痕が。
上からぐっと押せば、その中に硬い感触。
新たな『神力の玉』が、己の体の中に存在していた。
それはすなわち、『時戻しの術』が、成功したということ。
パトリックは、細い指の両の手のひらで、顔を覆う。
自分が取り返しのつく時まで戻ってきたことを、神に感謝して。
そして、ざわついてしようのない心をなだめ、ここで成すべきことを思い浮かべた。
それは、二つ。
ローザリンデを幸せにする。
そして、国内の王権争いを未然に防ぐ。
十三歳の自分に何が出来るのか。
自らローザリンデを幸せに出来るのか。
それはこれからしか分からない…。
一週間後、パトリックは神学校を後にした。
『あの日』を迎える前に、国教会から抜け出す必要があった。
そして、成人前の自分には、単純に公爵家の権力と財力が必要だった。
何より、ローザリンデに会いたかった。
幼馴染が、無事巻き戻ったことを確かめなければならない。
彼女は絶対に、ゲオルグに会う前の地点に戻って来る。
パトリックには確信があった。
そして、時戻しのために自らの命を捧げたゲオルグは、やはり愚かにも、あの最悪なシャンダウス伯爵夫人の連れ子と婚約をしていた。予想通り、あの男の立ち戻りたい岐路はあそこではなかったのだと、胸をなでおろす。
それから毎日、伯爵家の裏門の近くに幌馬車を止め、人の出入りに目を凝らした。
そして見つけた。
バスケットを手に、グレイのデイドレスを身に着けたローザリンデを…。
リンディも巻き戻ってきている。
それは、瞳と瞳が合った時、パトリックにはすぐに分かった。
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「『特別な秘術』が何か、知りたいかい?」
目の前には、十七歳のローザリンデ。
『隠された静寂の部屋』で、ろうそくの灯りに照らされたパトリックが、穏やかに問いかける。
幼馴染は、小さく息を呑んだ。
とても十四歳の少年が浮かべるものではない表情に、ローザリンデは確信を抱く。
問いかけに、幾度も心の中で逡巡しながら、覚悟を決めてうなずいた。
避けて通るべきことではないと、心を決める。
「知りたいわ」
すると、パトリックはやおら立ち上がり、突然、国教会の大礼拝での聖言を、一字一句間違えずに唱えた。
それは、前の時、教皇の隣に立つ『ガッデンハイル枢機卿』が、大礼拝の最初に聖堂の一番後ろまで届くほどの澄んだ声で唱えていた、彼しか音にすることができない、特別な聖言。
ローザリンデは、瞬時に体を震わせた。
目の前のそれに、驚愕して。
聖言が終わる。
そして、ミッドナイトブルーのコートのパトリックが、真っ白なローブのガッデンハイル枢機卿と重なった。
思わず大きな声を上げる。
「パトリック…、いいえ!!ガッデンハイル枢機卿?!あなたも、巻き戻って来たというの?」
するとパトリックは、枢機卿の時と同じ慈悲深い笑みを浮かべ、驚き見上げるローザリンデの冷たい頬を手で包んだ。
そして告げる。
「そうさ。リンディをここに戻したのは、ぼくだ」
と。
ローザリンデは瞬きもせず、目の前の銀の髪に縁どられた翡翠の瞳を見つめることしか出来ない。
「『特別な秘術』の名は、『時戻しの術』。どうだい。一番やり直したいところへ、戻って来れたかい?」
ローザリンデは、自分の頬を包むパトリックの手首を、思わず両手でつかんだ。
何かにすがらないと、どうにかなってしまいそうだった。
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