時戻し 1
翌日、早朝、若き枢機卿はまだ真っ暗な中、教皇の寝室に足を運んだ。
「いつ何時でも、ガッデンハイル枢機卿が訪ねてきたら通すように」
そう言われていたお付きの神官は、すぐに枢機卿を寝室に案内する。
そして半刻ほど経った頃、中から枢機卿が出て来た。
その手に、教皇の宝璽が納められた玻璃の貴箱があるのを目にし、神官がへなへなと床にくずおれる。
教皇が、崩御したと勘違いしたのだ。
「間違うな。猊下はご存命だ。これは、ご下命のため、翌朝までわたしがお預かりする。そして、これは他言無用だ。よいな」
神官は何度もうなずいた。
しかし、教皇の命がいよいよ尽きることも悟った。
宝璽を胸に、ガッデンハイル枢機卿はカスペラクス侯爵家へ向かった。
屋敷の中の祈祷室で最初に会った家族は、新年の祝賀で見たローザリンデの夫にそっくりの青年。
一気に怒りの感情が沸騰しそうになり、何も言わずにその横をすり抜ける。
そして、その奥に、ローザリンデは眠っていた。
思わずかけた言葉は、もう何年も音として口にすることはなかった彼女の呼び名。
「リンディ…」
彼の呼ぶ声が、幼馴染に聞こえただろうか。
けれど、そのまぶたは固く閉じられたまま、開くことはなかった。
手の平を強く握込み、何事もなかったかのように振り向く。葬儀を執り行うために。
しかし、振り返った祈祷室に、いなければならないはずの男の顔は、見当たらなかった。
そして、侯爵家からの帰りの馬車で、今晩『特別な秘術』を執行すると、心に決めた。
大聖堂に戻り、自分の執務室に誰も近づかないよう執務官に言い含めると、そのまま『隠された静寂の部屋』に向かう。
そこで、昨晩何度も読み返した、『特別な秘術』の経典を再び紐解いた。
『特別な秘術』。
それは、『時戻し』。
最初は『時戻し』と呼ばれていたものが、いつしかその名すら秘匿されるようになり、『特別な秘術』とだけ呼ばれるようになった。
経典の一番初めには、『オリアニス王が暗殺され、ガッデンハイル教皇がヒューゲルグ公の命を捧げこの術を執り行う』と書かれていた。
一番最初に行われた『時戻し』。それはこの国の始祖王を、死の淵からよみがえらせるためだった。
そして、それは成功した。
その後も、何度か『時戻し』は試みられた。
外国から侵略を受けた時。
政局が破綻した時。
要人が亡くなった時。
しかし、それはことごとく失敗に終わる。
その度、一人の人間の命を捧げたにもかかわらず。
やがて、この残酷な術は表舞台から姿を消す。
それでも、秘密裏に、『特別な秘術』と名前を変えながら研究が続けられてきたのだ。
この、初代ガッデンハイル枢機卿が設けた『隠された静寂の部屋』の中で、公爵家から輩出された代々の教皇によって。
そして、その研究によって、その秘術の発動条件はどんどん削り出されて行った。
まず、そこには誰かの死が必要だった。
その死を悼む、激しい後悔や悲しみの感情も。
しかも、神が満足しうる贄の命も捧げなければならない。
そしてその術の執行は、神力の器たるガッデンハイル家の直系の子孫しか行うことが出来なかった。
初代教皇が亡くなった時、死に際に授けられた神託によって、その体から取り出された、『神力の玉』が埋め込まれた宝璽をもってして。
その秘術は、代々の教皇とガッデンハイル家出身の神官にのみ語り継がれることとなった。
それは、ガッデンハイル家の持つ神力が弱まり、教皇になるべく子どもを毎代輩出できなくなった近年でも。
しかし、語り継がれるだけで、実行されることのなくなった秘術を、今代の教皇が望んだ。
教皇の願いは、先の王権争いで牢獄につながれたまま亡くなった、ミュクイット辺境伯の『時戻し』。
辺境伯は、教皇の姪の夫。
教皇は、秘かに王弟派とつながっていたのだ。
それは、国教会を尊重せず、一宗教機関と位置づけようとした現国王への反発でもあったし、それにより、国教会の力の復権を狙ったものでもあった。
その企みは上手く行くかに思えた。
チュラコス公爵を派閥に引き入れることに成功したし、それにより多くの貴族が王弟派に名乗りを上げた。
しかも公爵の謀略の才により、ワッツイア城塞陥落という取り返しようのない国防の失態を国王は冒した。
もう少しで、国王派は求心力を失い、この国は内側から瓦解するはずだったのだ。
しかし、結末はまったく異なった。
陥落した城塞は、第一騎士団団長、ゲオルグ・ザン・カスペラクスによって奇跡的に奪還されてしまった。
そこから国王派は一気に情勢を巻き返し、その後のことは、皆が知る通り…。
教皇は言った。
『ミュクイット辺境伯は、地下牢獄でわたしに言った。もう一度やり直せるなら、もっと穏健なやり方で、かつてチュラコス公爵が提唱していたように、まず国民の力を上げるところから始めるのに、と。この国は、まだ王の護りなくして、その形を保つことが出来ない』
『奇跡的な奪還劇によって、外圧からの侵略はひとまず避けられたが、結局長年の王権争いで国力は低下してしまった。今、どこかが本気で侵攻してくれば、この国は無くなってしまう、と』
秘術で時が戻り、巻き戻ったことが分かるのは、復活を願われた本人と、贄となった人物。
そして、術の執行者。
戻る地点は、最も深い後悔の念が焦げ付く、人生の岐路の少し前。
『ミュクイット辺境伯は、必ずや王弟派として旗印を上げる前に戻るはず。そして、わたしは彼を陰で援助する前に。ガッデンハイル枢機卿がどこに戻られるかは、わたしは聞かないことにしておきましょう。わたしでは、贄として足りないだろうか?』
皺が深く刻まれ、垂れたまぶたに塞がれた瞳はあまり見えていないかもしれない。
しかし、教皇はただ亡くなっていく命を有効に使いたいと思ったのか。
自分が国力の低下に加担してしまった、この国の将来への罪悪感に。
役者がそろったと思ったのか。
自分の人生の選択のやり直しを強く願いながら亡くなったミュクイット辺境伯。
神が満足する贄として、教皇自らの命。
そして、久方ぶりに誕生した、すさまじい神力を持つ、ガッデンハイル家出身の神官である枢機卿。
ただ一度しか成功したことのない、『特別な秘術』。
『時戻し』
教皇からそれを持ち掛けられた時、その答えを保留した。
けれど、今はそうした自分を褒めてやりたくなった。
何という、幸運だろう。
ローザリンデの訃報を聞き、パトリックの中にあった躊躇は、一切なくなったのだ。
ミュクイット辺境伯は、記憶を持って巻き戻らない。
しかし、自分が責任を持って、必ずや辺境伯の行動を止めてみせよう。
だから、記憶を持って巻き戻らせるのは、誰より大切な幼馴染。
昨日亡くなってしまった、ローザリンデ。
執行者は自分。
贄は、この国で最も聖なる存在である教皇。
しかし、幼馴染の埋葬の場で、パトリックは己の憎しみの対象と出会う。
ただ一人、黒衣をまとわず深緑色の旅装の男。
ローザリンデの夫、ゲオルグだった。
その時、パトリックの中で、刃を突き立てられ、その贄の役目を負うべき人物が変わる。
それは、この国でもっとも聖なる教皇ではなく、この国の救国の英雄でも良いのではないか、と。
年末年始、忙しくなってまいりました。
毎日、十三時に投稿してきた本作ですが、投稿できない日も出てきそうです。
少しでも更新できるよう、励みます。
読んで下さり、ありがとうございます。




