隠された静寂の部屋 1
「どこへ行くの?」
不安はなかったが、神聖な場所の、一般の信徒は入ることのできない方向へどんどんと歩いて行くパトリックの背中を見つめながら、ローザリンデは声を掛けた。
ミッドナイトブルーのコートは、ふと見逃せば、宵の闇に溶け込んでしまいそうで。
そんな中でも発光するかのような銀の髪を目印に進めば、さっきまでそこにそんなものなど見えていたかと思うような、小さな納屋のような建物の前でパトリックが立ち止まった。
「開くかな…」
そう呟くと、扉に小さく書かれた何かの紋様の上を、パトリックは文字を書くように指でなぞる。
すると、ガチャリ、と鍵の開くような音が聞こえ、扉が勝手に内側に開いた。
驚くローザリンデを、パトリックが手招きする。
覗き込んだ扉の内側は、すぐ地下へ下る階段だけが見えた。
「ここは一体…」
質問は、唇に立てられた一本の指で遮られる。
そして、一段階段を下りたところで手を差し出し、彼女の左手を支えると、そのまま階下へエスコートした。後ろで、扉が手を触れずに閉まり、そして、ガチャリ、と鍵のかかる音が聞こえた気がした。
シルクタフタのドレスの衣擦れの音が鮮明に聞こえるほど静かな階段。
さすがに不安になってかすかに震えると、ローザリンデをなだめるように、パトリックが声を掛ける。
「大丈夫だよ、リンディ。少し、二人きりで話がしたかっただけなんだ」
こくりとうなずくが、納得しているわけではない。
何とか階段を下りきったところは、完全に地下で真っ暗だった。
不意にパトリックの手の熱が無くなり、慌てて辺りを見回すと、シャラシャラと、セーブルのショールの上を髪が転がる音がする。
そして、がさがさ空気が動いたと思った時、ぱっ、と周囲が明るくなった。
そこには手に燭台を持ったパトリックが、やわらかいろうそくの灯りに照らし出されている。
オイルランプとは違うその灯りに、しばしローザリンデは見入ってしまった。
(祝祭の夜に行われるミサのような神々しさだわ…)
そして、ぼんやりと見える辺りを見回す。
そこは、古ぼけた小さな書斎のような部屋だった。
「ここは…?」
神官たちのための何かの部屋なのだろうか。
すべてが古色蒼然としているのに、そこは目立った埃もなく、空気は澄んでいた。
色の褪せた張地に破れはあるものの、恐らく昔は美しいビロード張りだったであろう優美な猫脚の長椅子を、ぽんぽんとパトリックが手で叩いた。
「リンディ、ここに座ろう」
そう言うと、パトリックはポケットからさっとチーフを取り出し、ローザリンデが座る場所にそれを敷いてくれる。そっとその上に座ると、すぐにパトリックが横に腰かけた。
「ここはどういう部屋なの?勝手に使って良いの?」
座るや否や、ローザリンデは問い質す。
今のパトリックは神学校を休学している身。
しかも、神学校は同じ敷地にあるとはいえ、この場所はそこからは遠く離れ、教皇が住まわれる建屋にあまりに近かった。
しかし、平然とパトリックは答える。
「ここは、今はぼく以外、開けることの出来ない部屋だよ」
そう言われて、驚きに目を見開いた。
いくらガッデンハイル家出身の、次代の教皇と期待される身分とは言え、こんな部屋を与えられていることに。
けれど、パトリックは、続けておかしなことを口にした。
「まあ、代々ガッデンハイル家出身の神官に受け継がれてきた、『隠された静寂の部屋』、というやつだ。教皇の居室とも近いしね」
当たり前のように言われ、理解できずに無言になる。
すると、パトリックは突然立ち上がり、書架に並んだ多くの本の中から、古びた巻物を取り出した。
巻かれていた麻の紐を解き、それを両手で持つと、ローザリンデの目の前で広げる。
そこには、古語で『テレニス紀元年、〇月〇日』と記されていた。
さすがのローザリンデも、古語を読むことは出来ないが、元号や数字くらいは読める。
驚き思わずパトリックを見た。
テレニス紀元年とは、この国が建国されたとされる数百年も昔の年。
思わずその巻物に手を触れると、それは紙ではなく、皮の感触。
「羊皮紙…」
そう言ったローザリンデに、パトリックが答える。
「そう。ガッデンハイル公爵家は、この国の建国神話において、国王が神から授けられた強大な神力を有する、器となった家門だ。だから、初代の国教会の教皇は、当時の公爵の弟が務めた。これはその初代教皇の遺した書き物の一つ」
思わず触れていた手を引っ込める。それをかすかに笑う気配がした。
「大丈夫。大したことは書かれていない。えーと…、オリアニスが無茶ばかりするから寿命が縮まるって書いてあるよ」
オリアニスは、この国の建国の始祖である王の名前。
三公と始祖王は主君と家臣ではなく、同じ志の元に集まった仲間であったという。
その時代のことが記されたものが、王宮の数少ない魔法使いによって封印が施された書架ではなく、大聖堂のこんなところに遺されていることに、心から驚いた。
いや、『こんなところ』、ではないのだろう。
今パトリックが言っていた。代々ガッデンハイル家出身の神官だけが受け継いで来た、ここは何か特別な部屋なのだ。
パトリックはその巻物をくるくると麻の紐で巻きなおすと、突然黙り込んでしまったローザリンデに、話しかける。
「ここは、代々我が家門の神力を有していた者たちが、特別な秘術を研究し、それを後代に遺すために設けた部屋だよ」
こともなげに口にされた、『特別な秘術』という言葉に、心臓が大きく鼓動を打った。
そしてその瞬間、頭の中で、何かと何かが急速に真っ直ぐな線で結ばれて行く。
ガッデンハイル公爵家のエントランスで、取り乱していたパトリックの言葉と。
前の時の自分の境遇と。
それによって変わってしまった、幾人もの人間の運命と。
そして、今、訳も分からず、十七歳に巻き戻ってしまった自分と。
わざわざ宵闇の中、一般の信徒が入ることのできないところにある、秘密の部屋に連れて来られたことに、どこか納得できなかった心が、すとんと、腑に落ちた。
思わずパトリックをじっと見つめる。
翡翠色の瞳が、十三歳とは明らかに異なる複雑な感情をそこに浮かべていた。
パトリックも、ローザリンデの『シャンダウスのヘーゼル』の瞳を、瞬きもせずに見つめる。
不安と驚きと、そして、突然与えられた言葉からの予感に、激しく揺れ動くそれを。
ローザリンデは、たった一人の大切な幼馴染。
パトリックは思い出していた。
つい、数か月前、カスペラクス家の礼拝室で見た、幼馴染の死に顔を。
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