水晶舎の二人 3
「また、手紙を書くよ」
チュラコス家の黒御影石の馬車寄せまで、ローザリンデをエスコートしてきたフィンレーが、肘に添えられている彼女の指を右の手のひらで包みながら、名残惜し気にそう言った。
こくりとうなずき、ふと体が近づけば、ゆるぎない大きな体躯の熱を感じる。
彼の横では、この人のこと以外考えてはいけないのではないかと思うほど、まっすぐに向けられる感情。
望む通りに委ねてしまえば、自分はいったいどうなるのだろうか。
思うほどに、頭がぼーっとする。
そんなローザリンデの後ろを、パトリックとアリステアが歩いていた。
銀髪の貴公子の視線は、さっきから目の前で揺れるダークブロンドの髪から、一瞬たりとも離れない。
アリステアが、そんなパトリックを気遣わし気に盗み見ていた。
「パトリック様。お体、お大事になさってくださいね」
そうして、やっとの思いで口にした言葉も、パトリックの耳には入っていないかのよう。
ラーラのように、返事をもらえるまで何度でも繰り返す勇気もないアリステアは、そこで口をつぐんでしまった。
ほのかに芽生えた恋心が、あっと言う間に霧散する。
馬車に乗り込む時、やっとローザリンデの手をフィンレーから取り戻したパトリックは、扉の両脇に控える従者とブリアナを壁にして、さっさと箱の中に幼馴染を詰め込んだ。
そして、自分一人だけフィンレーの前に立つと、「今日は楽しい時間をありがとう」と、まったく感情のこもっていない声で言い放つ。
フィンレーが、思わず吹き出した。
「余裕が無さすぎるぞパトリック殿」
しかしそうかけられた声には、一瞬だけ上目で睨みつけ、間髪入れず、
「貴殿には負けます」
と返すと、飛び乗るようにアザミと長剣の紋の黒塗りの馬車に飛び乗った。
そんな様子を、フィンレーがにやにやと眺める。
もとより、パトリックを好敵手と見据え、長期戦の構えのフィンレーにとって、この反応は想定内。
今日の茶会での目的は、ローザリンデに自分の真剣な気持ちを伝えること。
フィンレーは謀略の才を持つ人物だったが、決してせっかちではなかった。
ましてや、ローザリンデに関しては、絶対に失敗したくはなかったから、慎重に慎重を重ねてしかるべきと肝に銘じている。
そして、彼女を得たいなら、生まれながらの幼馴染である『特別な友人』であるパトリックを、本当の意味での敵には回したくないとも思っていたし、それとは別に、この少年に好感をもっていた。
彼から見れば、パトリックがローザリンデに向ける感情は、時に激しく、時に躊躇い、執着を見せるかと思えば最善を見極めようともする、何とも多種多様で複雑なもの。
それはすなわち、直線的で苛烈な、恋情と呼ぶには他の色がつき過ぎている。
(まるで、幼馴染と兄弟と父親からの愛情に、初恋がのっかったような)
そして、自分と同じく、パトリックもフィンレーのことを嫌ってはいないだろう。
(ローザリンデを妻にして、パトリックを妻の幼馴染として友人に出来れば最高だ)
チュラコス家の下僕が、丁寧な所作でガッデンハイル公爵家の馬車の扉を閉める。
奥に座っているローザリンデを隠すように座ったパトリックが、こちらを睨んでいるのにクスリと笑い、今も左の肘に残る愛しい人の指の感触を確かめるように、そこを右手でふわりと握った。
馬車が動き出し、チュラコス家を後にする。
大門のアイアンで作られた女神が、それを見送った。
********
馬車に乗り込むや、パトリックは口をつぐんでしまった。
フィンレーへの態度を見れば、彼が不機嫌なのはすぐに分かったが、それをローザリンデにも向けるから、どう声を掛けるべきか、考え込んでしまう。
しかも、この馬車にはパトリックの従者とブリアナが同乗していた。
使用人の前で、もし感情を露わにするようなことになれば、パトリックは非常にきまずいだろう。
ローザリンデは、パトリックに話しかけることは諦め、無言の車内の雰囲気を変えるために、ブリアナに話しかけることにした。
「ブリアナ、チュラコス家の控えの間は居心地はどうだったかしら?」
ことさらにっこりとローザリンデから話しかけられ、ブリアナはちらりと主筋である令息を見て答える。
「はい。とても快適に過ごさせていただきました。結局お嬢様の介添えなどは必要なかったので、本当に寛ぐためだけにお供したようで心苦しいです」
「あらそんなことないわ。帰る前に、一通り整えてもらったもの」
パトリックたち一行が帰ることを告げると、何も言わずともローザリンデは化粧室に案内され、そこにはブリアナが控えていた。侍女を連れて外出したことなどないけれど、高位貴族のご婦人方はこうしていちいち身なりを整えているのだろうと感心する。
二人の話声で、多少凍り付いたような車内の雰囲気が和らいできたと思ったところへ、ブリアナが言葉を続けた。
「一通りなんて…。お嬢様でお直しさせていただいたのは、お髪が少々乱れていたのと、お茶会で色々召し上がられたせいか、すっかり紅がなくなってしまわれた唇くらいですわ」
そこを聞いた時、横に座るパトリックの体が瞬時に強張ったのが分かってしまって、ローザリンデは狼狽する。
そして、これは絶対に誤解されていると思った。
「そうね。ご令息の従兄妹でらっしゃるご令嬢が、わざわざ手ずから焼いて下さったお菓子がことのほか美味しくて、たくさんいただいてしまったの。紅がすっかりなくなるなんて、はしたなかったかしら」
誰に何を言い訳しているんだか…。
そう思いながら口にした言葉は、しかしパトリックの耳には入っていないかもしれない。
それからすぐに、馬車が止まった。
シャンダウス家に送られると思っていたローザリンデは、あまりに早い到着に思わず窓の外を見る。
そこは、ガッデンハイル公爵家だった。
「あら?シャンダウス家に送って下さるのではなかったの?」
ローザリンデがパトリックの従者にそう問うと、従者の返答をパトリックが手をあげてさえぎる。
そして、チュラコス家を出発してから、初めて口を開いた。
「二人は先に降りて」
そう言ったのが聞こえたのかどうか。外からガッデンハイル家の下僕が馬車の扉を開けた。
どういうことかとローザリンデはパトリックを見る。けれど、それには構わず、従者とブリアナは「かしこまりました」と言って、さっさと馬車から降りてしまった。
そして、なぜかパトリックの合図一つで、馬車の扉が再び外から下僕によって閉じられる。
気付けば、未婚の男女が箱馬車に二人きりという状況。
それを避けるために、さっきまでブリアナたちが同乗していたのではないのか。
「どうしたの、パトリック?」
ローザリンデが思わず問えば、パトリックは彼女の肩に突然自分の頭を乗せてきた。
「チュラコス家で、フィンレー殿と温室に二人きりだったでしょう?だから、ぼくともちょっと二人きりでいてよ」
拗ねたような口調に一瞬ドキリとしながらも、銀の髪の嗅ぎなれたパトリックの匂いに、「わかったわ」と言いながら、思わず自分も頭を傾げる。
そして、まぶたを閉じた。
どれくらいそうしていたのか。
ポツリと、パトリックが呟く。
「ぼくには、そうやってもたれてしまえるんだ」
いけなかったのだろうか。ローザリンデが身を起こそうとすると、また声が。
「これがフィンレー殿なら、きっとリンディはこんな風に身を預けたりしない」
そう言うなり、頬の下から銀の髪がするりと抜ける。
そして、パトリックがローザリンデに向き合い言った。
「なぜなら、フィンレー殿のことは男性だと思っているから。そして、ぼくのことはそんな風に思っていないからだ」
どうしてだろう。
パトリックの瞳に悲しみが浮かんでいるのが見えて、ローザリンデはどうすればよいか分からなかった。
ガッデンハイル公爵夫人も、自分の父親も、パトリックと自分の婚姻をまるで望んでいるかのような発言をする。しかし、パトリック本人は、そんなことを思っていないはずではなかったのか。
そう思った瞬間脳裏に、前の時の、長い銀の髪をなびかせ、真っ白のローブも神々しい枢機卿の姿のパトリックが浮かぶ。
神の代理者として、近づくことすら憚られたかつての幼馴染の姿が、今でも自分の中の『パトリック』であることに、ローザリンデは無自覚だった。
読んで下さり、ありがとうございます。