水晶舎の二人 2
答えなど分からないのに、ローザリンデは反射的に口を開いた。
しかし、それを見たフィンレーが、かすかに開いた唇の隙間に焼き菓子を押し当てる。
不意のことに、何も出来ずに動きを止めた。
まるでお菓子の口封じ。
言葉を飲み込んだローザリンデを一瞬見つめ、フィンレーはそれを唇から離すと、ぽいと、自分の口に放り込んだ。そして一言、「旨い」と呟く。
ローザリンデは、その一連の出来事を、まるで人形のように微動だにせず眺めていた。
そして、フィンレーがクッキーをもう一欠けら手にしたところで、ぼっと湯気が出そうなほど、顔を赤らめ動揺する。
三十八年の人生など、何の役にも立たないくらいに。
「あ…、何を…、今…、お菓子を…」
何とか口を突いて出た言葉も、まったくもって意味をなさない。
そんな自分を優しい眼差しで見つめる、目の前の琥珀色の瞳が微笑みの形に細められるのだけが、今の世界のすべて。
そして、その瞳の色が金色の変わる頃、やっとフィンレーが口を開いた。
「いますぐ返事が欲しいわけではない。まだお父上から求婚のお許しすらいただいていない。けれど、どうか俺の君に対する想いだけは、嘘偽りなく信じて欲しい」
そう言って、再び指でつまんだクッキーを二つに割ると、一つをローザリンデの口元に運ぶ。
思わず口を開けば、そこに薄いそれが押し込められた。
離れる時指が唇をかすめ、最後にフィンレーは指先についているクッキーのかけらを、ぺろりとなめた。
もはやローザリンデは何も言えずに、ただただ目の前の男を見つめるだけ。
そして、正真正銘、今自分しか映していない『シャンダウスのヘーゼル』の己の残像に、フィンレーはこれまでに覚えがないほど、心が満たされるのを感じていた。
「ゆっくりと考えて欲しい。ただ、良い返事しか聞きたくないとも思っているが。俺のクイーンのピースは、一つだけしかこの世にない」
生まれて初めて捧げられる、真摯な自分自身を求める求婚の言葉に、ローザリンデは打ち震える。
前とは違う。
望まぬ妊娠で、『生まれてくる子供のために婚姻しなければ』と言われた前の時とは、違うのだ。
思わず、ローザリンデはフィンレーを仰ぎ見る。
その金色の切れ長の瞳は、ただ自分だけを映し、蕩けた蜂蜜のように揺れていた。
パトリックとアリステアは、それからほどなく戻って来た。
最初にフィンレーが口にした通り、『少しの時間』、席を外したに過ぎなかった。
それでも、水晶舎に入った瞬間、ほんのわずかな時間にもかかわらず、残された二人が濃密な時間を過ごしたであろうことが容易に推し量れるほど、フィンレーとローザリンデの間には、第三者が割って入っていけない空気が漂っている。
それに気づき、パトリックの表情が一瞬変わったが、彼はすぐさまそれを消した。
アリステアが、すっかり残り少なくなった焼き菓子の皿を片付けるために駆け寄るついでに、フィンレーに向けてにっこりと笑顔を送る。
従兄妹が今日一番大切にしていた任務をクリアできたであろうことに、祝福を込めて。
「わたしたちがお庭を見ている間に、お菓子が無くなってしまいましたわ。新しいお茶も必要でしょう?」
そして、新たなお茶を用意しようとしたところで、突然パトリックが立ち上がった。
「いや、そろそろぼくたちはお暇した方が良い時間ではないかな。ねえ、リンディ」
自分のことに精一杯で、さっきのパトリックの表情の変化に気付かないままのローザリンデは、唐突な幼馴染の発言に戸惑い、思わずその硬い表情を見る。その不安気な顔に、パトリックはすぐさま自身の発言を撤回した。
「いや…、せっかくだから、やはりアリステア嬢が淹れてくれたお茶をいただこう」
立ったり座ったり。
まるで隠せていない動揺。
そんなパトリックに、フィンレーが声を掛ける。
「パトリック殿、アリステアと名前を呼び合うことを?」
そうだ、確かに今、パトリックは彼女のことを名前で呼んだ。
水晶舎を出て行くまでは、『ご令嬢』や『従兄妹殿』と呼んでいたのに。
すると、そばで聞いていたアリステアの方が頬を赤らめた。
「お庭で、『ガッデンハイル公爵令息』と何度もお呼びしていたら、いちいち長いでしょうからと、お名前のお許しいただきましたの。ですから、もちろんわたしのことも…」
「それは、本当によろしいのか?畏れ多いことだが」
聞いたフィンレーも驚き確かめる。
すると、パトリックは「構わないです」と短く返した。
しかし、結局アリステアの方が恐縮したのか、
「今日、今だけのことにいたしましょう?わたしはそそっかしいので、でなければ公の場でもお名前で呼んでしまいそうで心配ですから」
と、慌てて条件を加える。それにもパトリックは、「ではそのように」、とそっけなく答えただけだった。
ほんの少し、アリステアが落胆するのが見て取れた。
ローザリンデは、パトリックが名前を許したことに、さっき二人が並んだ姿を見た時に感じたのと同じ気持ちになりながらも、明らかに様子のおかしい幼馴染のことが気になって、しきりに視線を送った。しかし彼はこちらをまったく見ない。
とうとうローザリンデは、声をあげた。
「パトリック、どうしたの?なんだか様子がいつもと違うわ。もしかして、体の調子が良くないの?」
気遣わし気なその声に、やっとパトリックはローザリンデを見る。
翡翠色の瞳は、目の前のローザリンデではなく、どこか遠くを見ているかのように錯覚をさせた。
「ごめん。大丈夫だよ。空気が冷たかった外から、温かい水晶舎に入って、ちょっとぼんやりしてしまったみたいだ」
その言葉を、ローザリンデは信じない。
けれど、根拠もなく否定することも出来ない。
「では、このお茶をいただいたら、今日はもうお暇しましょう?心配だわ」
そう言われて、パトリックの気持ちは少し浮上する。
しかし、次の言葉で再び空中にさ迷い出すのだ。
「フィンレー様、よろしいですわよね?」
「ああ、ロージィが付き添ってあげて。外との気温の差に、パトリック殿はのぼせたのかもしれない」
退出の許可を取るところが、そして、付き添えと指図をするところが、まるで二人がすでにそういう間柄かのように感じられて。
そんな風に考えてしまう自分を無茶苦茶だと思いながら、フィンレーの発言は、自分をわざと子ども扱いしているせいだと卑屈にまでなる。
ただ、招いてくれた相手に、退出の許しを得ようとしただけ。
ただ、同じ馬車で来ている人物に、体調を崩しているかもしれない自分を託しただけ。
冷静な自分は、分かっているのに…。
十三歳の体だからなのか。
十九歳のフィンレーの余裕を見せつけられたからなのか。
そして、ローザリンデは、息子よりも若い自分を、子どものように思っているのか…。
パトリックは、それでも少しでも早くローザリンデと二人になりたくて、目の前のお茶を一気に飲み干した。
読んで下さり、ありがとうございます。




