水晶舎の二人 1
トレバスたちが帰った後の水晶舎は、思いのほか穏やかな空気が流れていた。
それは、従兄妹の恋路のために頑張ろうとしている、アリステアの努力の賜物でもあった。
フィンレーがローザリンデと親密になる助けになっているかはさておき、いつしかアリステアを中心に、来年の彼女のデビュタントの話で盛り上がり始めていた。
「もう、体の方は本当に大丈夫なのか?」
そして、唐突にフィンレーが尋ねる。
今年十五歳になった彼女は、本来なら今年のチュラコス家の夜会で、成人女性としてお披露目されてしかるべきだった。貴族ではないアリステアは王宮での大夜会には参加できないが、ジェントリ階級や傍系が貴族の夜会でお披露目され、結婚相手を求めるのはよくあることだった。
まして、彼女の母親は現チュラコス公爵の妹。父親も名のある商会を営んでいるとなれば、縁談は降るように来ることだろう。
しかし、アリステアは十三の頃に落馬で腰の骨を折ったことが原因で、長らく一人では歩けない日々が続いていたという。
「大丈夫ですわ。今年の夜会でのデビューは、まだダンスが不安だったから見送ったけれど、来年を今から楽しみにしているんですもの!」
そんな辛い日々を送っていたのが嘘のような、屈託のない笑顔に、ローザリンデはアリステアの芯の強さを感じた。と、同時に、同じ年齢でありながら、実の母親から『男と女のこと』ばかりを教えられていたラーラの、年齢に相応しくない、媚をにじませた笑顔が頭に浮かび、胸が痛くなる。
「…いたんですよね?」
「えっ?!ごめんなさい。もう一度」
他のことを考えていたところへ、突然話しかけられ、ローザリンデは慌てて聞きなおした。
フィンレーが、眉を下げるのが見える。
なにか気まずいことなのだろうか。
「今年のチュラコス家の夜会には、ご令嬢もいらしていたんですよね?」
そう言われて、ローザリンデは口ごもった。
もちろん、出席などしていない。
毎年、社交シーズンの一番初めに催されるチュラコス家の夜会があった日は、ローザリンデがまだここに巻き戻る前のことだ。
それならば、その日にここにいたのは、継母によって使用人同然の扱いをされていた、正真正銘十七歳のローザリンデ。そして、チュラコス家からの招待状は、恐らく伯爵夫人の手によって握りつぶされていたのだろう。
しかし、その事実をそのまま口にすることは出来ない。
それに、それが手元に届いていたとして、着て行くドレスもない自分が、果たして出席したか…。
どう返答すべきか迷っていると、察しよく、フィンレーがその質問を断ち切るように声を上げた。
「アリステア、来年のお前がデビューする夜会で、ロージィはマダム・エシャペロンに請われて、最新のドレスを提供されると教えていたかな?」
その発言に、質問したことなど忘れ、アリステアが即座に反応する。
「本当ですの?!まあ!信じられない!マダムの方から頼まれたのですか?ああ、でもずっとここに来られた時からお聞きしたいと思ってましたの。今日お召しになっているの、マダムの今年の展示会でメインになっていたドレスですわよね?!」
そう言って詰め寄る少女の勢いに、ローザリンデは面食らってあいまいに微笑んだ。
フィンレーとパトリックがそれを見て、声を上げて笑う。
その後は、アリステアに頼まれるままくるりと回ったり、テールの美しい刺繍をじっくりと見せて欲しいと言われたり、来年のデビュタントのドレスの相談を受けたりして、話は尽きない。
それを延々楽し気に、フィンレーとパトリックは焼き菓子をつまみながら見ていた。
それがやっと落ち着いたころ、フィンレーが思い切った顔で、今日終始口数の少ないパトリックに声を掛けた。
「パトリック殿。少しの時間で構わないから、アリステアに庭を案内させたいのだが、良いだろうか」
ドキリとして、ローザリンデはフィンレーを見る。
その真剣な表情に、彼が何をしたいのかすぐに思い至り、さらに心臓が音を立てた。
パトリックをアリステアが庭に連れて行くなら、この水晶舎ではフィンレーとローザリンデが二人きりで残るということだった。
ドキドキとする心臓を抱え、ただ、幼馴染がどう返答するのかに意識が集中させる。
そして、そんな気持ちを知ってか知らずか、ほとんど感情を見せないまま、パトリックは答えた。
「わかりました」
と。しかも言うや否や、即座に席を立ち、アリステアにその左ひじを差し出した。
「もしよろしければ」
「まあ…」
エスコートの意を示され、少女が夢見心地の表情でそこにそっと指を添える。
それを見た瞬間、ローザリンデの中に、言い知れぬ感情が広がった。
それは明らかに負の感情の類。
名前を付けるのを憚られるような。
前の時、パトリックが女性をエスコートすることなど、恐らく一度もなかっただろう。
そして、巻き戻ってからも、パトリックがそんな風にエスコートをするのは、常に自分だけだった。
ずきりと胸が痛み、名前が分からない感情に押し潰されそうになる。
しかし、客観的に見れば、その幼馴染と年の近い令嬢は、誰の目にもパトリックの横に並び立つのにお似合いだった。
まだあどけなさの残る丸い頬。思春期に入ったばかりの薄い体形。
ラーラの言葉がよみがえる。
『お義姉様とパトリック様では、姉と弟にしか見えませんもの』
ああそうだろう。こんな風には見えないだろう…。
「では、少しお庭を拝見させていただきます」
そう言って背を向けるパトリックを、ただぼんやりと見つめる。
下僕が一人、二人に付き添った。
そして水晶舎に残されたのは、完全にフィンレーとローザリンデ、ただ二人きり。
十九歳と十七歳。間違いが起こるならこちらの方だ。
けれど、この公爵家の中でフィンレーのそばにいる限り、自分に不利益な何かが起こることなどないとも確信できる。
それに、きっとローザリンデよりもフィンレーの方が緊張している。
面持ちで、分かる。
「ロージィは、パトリック殿とはいつ頃から親交が?」
突然話しかけられ、動揺を隠せないままフィンレーを見れば、その瞳は優し気に自分を見つめていた。
幼馴染とは言え、他の男を見送っている自分をそんな眼差しで見られていたことに、どこか気まずさを覚える。
「…ご存知かとは思いますが、実母はガッデンハイル公爵夫人と同じ、モンテクロ家門の出身でしたので、パトリック様が物心つかれる前から…ですわ」
そう言うと、フィンレーは一つ空いていた椅子を横にどかし、ローザリンデの真横に席を移す。
その距離の近さに、思わず赤面すれば、くすりと笑う声が聞こえた。
「俺にそんな顔を見せてくれるなら、まだまだ大丈夫そうだ」
そして、おもむろに目の前のスコーンを二つに分けると一つを自分の口に放り込む。
何が大丈夫なのか考える間もなく、残った一つをずいっと差し出された。
「ほとんど何も口にしていないだろう。アリステアの力作だから、どうだ?」
そう言われて拒むことなど出来ない。おずおずと手を差し出すと、ポンと手の平の上に置かれる。
口に含むと、ほろりと崩れて甘みが広がった。
「なかなか旨くないか?ロージィは?」
「美味しいです。すごいわ。わたしはお菓子など作ったことがないので」
そこでフィンレーは、今度は大振りのクッキーを手に取ると、それも二つに割ってローザリンデに渡してきた。
それを幾度か繰り返し、まるで自分がひな鳥になったようだと思った瞬間、吹き出してしまう。
「どうした?」
驚いた顔のフィンレーに問われ、ローザリンデは思ったままを口にする。
「フィンレー様のお菓子を分け与えられて、まるでひな鳥のようだと思ってしまったのです」
すると、「では俺は親鳥か?」と言っておどけた。
その様子にまた笑うと、フィンレーは微笑みながら、手の平で二つに分けた焼き菓子をじっと見ながら呟く。
「俺は、出来れば親鳥ではなく、こうやってなんでも分け合いながらともに歩める番になりたいと思っている」
その言葉に、ローザリンデの心臓が跳ねる。
フィンレーが顔を上げた。
そして、まっすぐに自分を見て言った。
「もちろん、その相手は、君だ」
と。
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