東の棟の衣装室 2
ドレスをはぎ取られた時、この姿で外廊下に出るのかと、ローザリンデはあらぬ声を上げそうになった。
実際には二つの内扉をくぐり抜け、廊下に出ることなくこのバスルームに連れて来られたのだが、その二つの部屋の設えと、見たこともないほど豪華な造りのバスルームの様子から、今、自分がいる場所が、どういった類のものか見当がついてしまったローザリンデは、ただ呆然と肌を磨かれていた。
「ああ…時間が無くて、デコルテまでしか出来ないのが悔しいです」
そう言って、ブリアナがローブの襟元をしっかりと合わせてくれる頃になって初めて、自分の考えが正しいのかを確かめる気になるくらいに動揺して。
「ブリアナ…。もしかしてここは、この館の『主たる方々』が使うお部屋ではなくて…?」
どうにも直截な『夫婦の寝室』という言葉を口にするのは躊躇われ、多少婉曲に言葉を濁す。
その問いに、ブリアナは一瞬口をつぐんだ。ここは以前は先代の公爵夫妻が使っていた部屋。指示されている返答は、「公爵夫人にお尋ねください」だが、この流れでのそれはあまりにも不自然だった。
「…はい。おっしゃる通りです…」
誘導されたように、思わず素直に認めてしまい、ブリアナの背筋を冷や汗がつたう。
やはり…。その答えを聞いて、ローザリンデは目を閉じる。
よくよく考えれば、最初に通された公爵夫人の衣装室と、ここはそっくり左右が反転しただけで同じ設えだった。
となれば、衣装室のすぐ隣のこじんまりとして、繊細な調度が趣味の良い部屋は『妻の居間』だろうし、このバスルームの扉がある、白と銀と薄い紫で整えられた、上品かつどこか艶のある美麗な部屋は『夫婦の寝室』だろう。
カスペラクス家でローザリンデにあてがわれたのは、元々侯爵の妹が使っていた部屋を改装したところだった。
ゲオルグの部屋は近くではあったが、内扉ではつながっておらず、夫は不満を露わにしたが、結局その当時は兄夫婦も王都屋敷に住んでいたことから、色々理由をつけてずっとそのまま過ごした。
なのに、そんな自分が結婚もしていないのにいるのが、よりによってガッデンハイル家の『夫婦のための寝室』だとは。
茶会の後、衣装室に通されて、ここの衣装は今後ローザリンデに合わせて直して行くと告げられていた。
まるで、『この衣装室は今後あなたのものですよ』と言わんばかりに。
そして、その衣装室が『夫婦のための寝室』のものであると知った今、あの時公爵夫人が口にした、『ガッデンハイル公爵夫人になりなさい』と言った言葉が、少なくとも夫人の中では冗談ではなかったのだと思い知らされる。
公爵夫人になるとは、すなわち、パトリックの伴侶になるということ…。
ローザリンデは、目を強く閉じて、ふるふると首を振った。
とんでもないことを考えそうで、何かが頭の中で形になる前に、文字通り振り払う。
目を閉じて咄嗟に思い浮かべるパトリックの姿。それはいまだに、銀髪を短く切りそろえた今の彼ではなく、大聖堂で真っ白な神官服をまとい、長い銀髪をなびかせて歩くガッデンハイル枢機卿の姿なのに。
神々しい枢機卿を、伴侶と想像するなど、畏れ多くて不敬でしかない。
ローザリンデは、動揺したまま、指を一本唇に立てた。
そして、ブリアナに向き合う。
「今の話は、なかったことにしましょう?わたしは何も尋ねなかったし、あなたはなにも答えなかった。いいわね」
ブリアナに否やはなかった。
二人そろって、うなずき合う。
それから、二人は衣装室に戻り、本当にバスルームでのやり取りは何もなかったかのように、仕度を進めた。
衣装室には、ブリアナが呼ばなくとも、『マダム・エシャペロン』のドレスに興味津々の夫人の侍女たちが、入れ代わり立ち代わりやって来て、あっという間にローザリンデは貴婦人に仕立てられていく。
後は帽子を、結った髪に留めるだけ…となったところで、衣装室の内扉が控えめに叩かれた。
「リンディ、もう入っても大丈夫?」
その声に初めて、そう言えば、前の時も、パトリックはあの扉から衣装室に入って来たと思い出す。
あの時、つい幼馴染に見惚れてしまって、あそこから彼が現れたことの理由を確かめなかったのは、自分の落ち度でしかない。
しかし、あそこから現れた以上、パトリックはこの『衣装室』の意味を知っていることにもなるのだ。
『夫の居間』から、きっと彼は『夫婦の寝室』『妻の居間』を抜けてここに来た。
もしかして、パトリックは、日ごろこの部屋を使っているのだろうか?
突然、ローザリンデの頬が、一気に赤くなる。
それを、侍女が開けた扉を抜けて入って来たパトリックが目ざとく見つけた。
「リンディ?どうしたの?顔が真っ赤だよ?この部屋、もしかして熱い?」
そんな見当違いな心配に、侍女たちだけがうっすらと腹の読めないアルカイックスマイルを浮かべて、年若い二人を見つめた。
「だ…大丈夫よ、パトリック。そう、少し、熱いわね、このお部屋」
狼狽えてそう言うや否や、パトリックが、長椅子の上に置かれた扇子を取り上げ、ローザリンデをあおぎだす。
「涼しい?」
顔だけが火照るローザリンデには、それはちょうど良い風だった。
薄目を開けて見れば、ついさっき脳裏に浮かんだ長い銀髪のパトリックよりも、ずいぶん頬の丸い、俗世の芥がまだそこここに感じられる、ただの『パトリック』が、心配そうな顔で目の前にいる。
「涼しいわ…」
なんの思惑もなく、ただ自分を案じておこされる扇子の風の心地よさに、素直に返事をする。
それに、パトリックが満足気に微笑んだ。
よく見れば、幼馴染は今日はいつも下ろしている前髪を後ろに流し、クラバットを襟元に結んでいる。
それだけで、少年から青年に変わったような気がして、また心臓が落ち着かなくなった。
ローザリンデの橙色のジャケットに合わせたような、濃いレンガ色のベストも細身の体の美しいラインを際立たせている。
「パトリック、今日はなんだか大人っぽくて素敵よ」
暴れる心臓を何とかなだめてローザリンデがそう言うと、パトリックは息を飲んで返事もない。
「パトリック?どうしたの?」
再度声を掛けると、彼はうつむいたまま呻くように言葉を発した。
「どうして先にぼくが褒められているんだ。ここに入ってきた時、確かにリンディの美しさに息が止まりそうになったのに、真っ赤な顔をするもんだから、すっかりそれを言葉にするのを忘れてしまった…!!」
だんだん大きくなるその声に、ローザリンデはまたもや赤面した。
侍女たちは、にやにやと締まりのない顔を一瞬した後、きりりと表情を引き締める。
パトリックは、
「もう一度、ここに入るところからやり直させてくれ」
と言って、本当に扉の向こうに行ってしまった。
その後、ローザリンデの顔から火が出るほどの勢いで、パトリックがその姿を褒めそやしたのは言うまでもない。段々興が乗りすぎて、最後の方は『旅役者もかくや』と言うほど、訳の分からない美辞麗句まで並び立てたのは、おまけの話。
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