複雑な思い 1
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帰りの馬車で、パトリックは物憂げに流れる景色を眺めていた。
物思いにふけりながら。
結局、あの後、屋敷を去るフィンレーとともに、パトリックもシャンダウス家を後にした。
帰ると言った時の、ローザリンデのがっかりした顔だけが、今の自分の気分を浮上させてくれる。
それでも、明日のドレス一式をフィンレーが贈ったと聞いた時は、言いようのない敗北感に気持ちが荒んだ。
ローザリンデは、メゾンのマダムと取引をして、結論として金銭のやり取りはないなどと言っていたが、そこにあの令息が絡んでいる以上、無関係ではない。
あのままあそこに残っていたら、何を口走るか。
結局、パトリックは自分で自分を恐れたのだ。
今日シャンダウス家を訪れたのは、明日のことを口実に、領地からやって来た伯爵が、ローザリンデに無理を強いていないか確認するため。
いや、結局は、年上の幼馴染の顔を見たかっただけだ。
屋敷に到着した時、自分がタイミングの悪い来客であることはすぐに察した。
そして、もう一人の来客がチュラコス公爵令息であることも。
茶会の後、家門が管理する鉄鉱山に赴いたと情報は掴んでいたが、まさか今日ここに現れるとは思っていなかった。
きっと、パトリックの知る通りの彼なら、最大限の効果でもって、わざわざ自分が足を運んだ問題を迅速に解決したことだろう…。
先日の茶会で、ローザリンデに関わる人間の中にこの男がいることを最初に知った時、パトリックは心から驚いた。
まったくの想定外だったからだ。
しかも、それは大物も大物。
自分がここにいる理由の、表の大義に関わる、最重要人物にして最も慎重かつ失敗は許されない相手。
それが、自分の本義とも絡み合っていたとは…。
それはある意味好都合だろう。
しかし、そんな人物を相手に、対等に渡り合うことの難しさも分かっている。
だが、震える足を叱咤して、逃げるような真似はしたくない。
かつて、すべてを捧げることで失ってしまったはずの感情は、いまや自分を大きく振り回すほどになっているのだから…。
鼻の奥がツンとして、パトリックは目を閉じた。
そうすれば、シャンダウス家のエントランスで見た光景が、再び脳裏によみがえる。
そこには、もう婚約していると言われても納得するような、お似合いの二人が立っていた。
シャンダウス家のこじんまりしたエントランスホールが舞台では、物足りないほどの。
己の感情を隠す必要もないフィンレーは、かつて見たこともないような誠実な眼差しをローザリンデに注ぎ、ローザリンデは、特別な感情がにじみ出た表情でしみじみとフィンレーを見つめる。
その感情に、恋情が含まれていないのは重々承知の上だが、パトリックは言いようのない焦燥感に襲われた。
理性では、フィンレーとの道筋もあり得るのだとうそぶくのに、心の芯のところでは何があっても認められない自分を見つけて。
チュラコス家のフィンレー。
カスペラクス家のゲオルグ。
いずれも、社交界で噂にならない日はないほど、容姿にも血統にも、そして本人の能力にもケチのつけようがない男たち。
それに引き換え、自分は…。
剣ダコの一つもない、滑らかで白い、ほっそりとした指が並ぶ手をじっと見る。
たった一人の暴漢からも、きっと自分では大切な幼馴染を守れないだろう。
三歳の年の差が、これまで歩んできた己の道が、恨めしかった。
あっと言う間に年は取る。
しかし、今この時、成人すらしていない自分の年齢が、パトリックは口惜しくてどうしようもなかった。
そして、最終的に自分が取るべき道を未だに選びあぐね、理性と願望のはざまで右往左往している自分が滑稽で、苦笑する。
(フィンレー殿が最善の道なのか…。それに、油断は大敵。やつの戻って来る場所がなくなったとは言え、すべてのことに確証などない。もうここは、わたしの知る世界ではない…)
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「ローザリンデ、チュラコス公爵令息にドレスを贈られたのか?」
皆が帰ったのち、伯爵が問うた。
ローザリンデは、緩く首を横に振る。
「いいえ。ご令息は、そのおつもりでいらしたのですが、わたしが躊躇っておりましたら、同道されていたドレスメゾンのマダムから取引を持ち掛けられましたの」
仔細を聞いて、伯爵はうなずく。
ドレスメゾンの名声を維持するためには、斬新なデザインだけではやっていけない。社交界で注目を浴びる貴婦人と持ちつ持たれつの関係をうまく築き、より影響力のあるパトロンを得たところだけが生き残るのだ。
そして、ローザリンデはその『社交界の華』候補と目されたのだろう。
将来のチュラコス公爵夫人なら、それは当然だ。
そして、そう言ったメゾンは、逆に客を選ぶことで、従来の顧客との信頼関係を守っている。
パトロラネ夫人のところに預かりの身とした、『シャンダウス伯爵夫人』の御用達は、『マダム・エルゼ』。
ローザリンデが策定した予算案にも名前が出ていたが、ラーラが身に着けているドレスの品のないデザインから察するに、顧客の中でシャンダウス伯爵家が最上位の可能性すらあるようなメゾンだろう。
恐らく、伯爵自身の口利きもない状態で、顧客に名前を連ねられるのがそこだったのだ。
『マダム・エシャペロン』の名は、伯爵でも耳にしたことがある。ドレスメゾンは、何もドレスだけを作っているわけではない。男性のものも数多く手がけている。今日チュラコス公爵令息が身に着けていた、ツイードの茶のしゃれたジャケットも、きっとそのメゾンが手掛けたものだろう。
そう考えて、伯爵ははたと行き当たった。
その茶のジャケットには、アクセントとして赤糸で刺繍が施されていた。
(あれは、『シャンダウスのヘーゼル』をイメージしているのでは…)
それほどに…。伯爵は、公爵令息の想い入れの強さに気付き、動揺した。
そしてそれほどに想われている、今まで無関心に放置していた、自分の血を分けた娘の横顔をじっと見る。
顔立ちは、どちらかと言えば自分に似ているだろう。
その瞳は言うまでもなく、女性にしては凛とした表情に、すらりとした立ち姿。
しかし、その髪だけは、最初の妻、クリスティナそっくりダークブロンドだった。
誰が見ても、美しいと褒めそやしていたその髪を、果たして自分は褒めたことはあっただろうか…。
クリスティナを見ずに、その血筋だけを見て結んだ婚姻で、一日たりとも幸せを感じさせることが出来なかった。
若い自分が、恋焦がれた女性と結ばれないと知った時の、あの絶望を思い出す。
あげく、代わりに妻とした女性を不幸にし、その後は享楽的な日々を無為に過ごした。
フィンレーのローザリンデに対する情熱は、あの頃の自分より、さらに強いかもしれない。
しかも、この令息は自分など比べ物にならないほどの能力と権力、そして影響力を持っている。
伯爵は、一瞬背筋がぞくりとした。
自分の私見で、ガッデンハイル公爵家の令息を選んで欲しいなどと言ったけれど、そんな思いなど差し挟むべきではなかったかもしれないと、そう思った。
もし、チュラコス公爵令息が恋に破れ、他の男にローザリンデをむざむざと奪われるようなことがあれば、どうなるのか…。
そんなことでと思う人も多くいるだろう。
しかし、かつて身に覚えのある伯爵は、それは軽視し見逃すべきことではないとしか、思えないのだった。
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