王都屋敷の伯爵 5
翌日の朝、自分の母親がもうこの屋敷にいないことを知ってか知らずか、ラーラはマダム・ヘジリテイトの学校へ、きちんと朝から起き出し向かった。
仕えるべき主がいなくなった伯爵夫人のレディスメイドの二人は、そのままラーラ付として雇用することを伯爵は許してくれた。ただし、指示はラーラではなくローザリンデに仰ぐようにとの条件付きだ。
「お前もこれからは社交の場が増える。一人はお前付きとしなさい」
伯爵はそう言ったが、ローザリンデは断った。
実際、今この屋敷に、自分がレディスメイドの手を借りなければならないようなドレスはないし、義母のそばに仕えていた人間を、自分の私室に入れるのに抵抗があった。
コルセットの紐なら、ケイティだってきつく締めることが出来る。
そして、レディスメイドと言われて、公爵家のメイド、ブリアナの顔がちらついたのも事実だった。
「明日の茶会の仕度はどうするのだ?」
当然伯爵はそれを聞いてくる。
ローザリンデはどうせ露見する事実を、そのまま返答した。
「明日は、ガッデンハイル公爵夫人のご厚意で、衣裳を整えて下さることになっています。そのために、パトリック様が朝食後、迎えに来て下さるのです」
その返答に、父は絶句する。
シャンダウス家の、ある程度の内情を知られてしまっていることに対してだろうか。
しかし、説明するにも難しく、なにか言われる前にと言葉を続けた。
「おば様は、可愛がられていた母の代わりに、わたしのことを気にかけて下さっているのだと思います。昨夜身に着けておりましたドレスも、元をただせば、おば様のドレスをわたし用に手直しして下さったものですから」
公爵夫人を『おば様』と呼ぶ娘に、伯爵はちらりと目線を寄越したが、それ以上は言及してこなかった。
そして、代わりに、ローザリンデのグレイのデイドレスをじいっと見る。
「…では、あれがおまえに用意したものは何があるのだ?」
隠す必要はない。庇い立てする必要も。
「デビュタントに着た、古着の白いドレスを。それも、大夜会の後、すぐさまお義母様ご愛用のメゾンが持って帰りましたけれど」
ちょっと嫌味ったらしかっただろうか。いやそんなことはない。
結局は、父自らが招いたことなのだから。
「…お前の母親が遺した、榛色のカーコルネアルの装身具一式は?」
「わたしが身に着けたのは、お母様が遺して下さった、このダークブロンドの髪だけでございます」
父は一瞬黙り込んだ。
そして、ぽつりと口にした。
「婚約契約式で、わたしの瞳の色だと言って、クリスティナが身に着けたものを…」
今、昨日から初めて父が母の名前を口にした。
何を思ってそう呟いたのかは分からない。
けれど、自分が踏みにじって来た様々な結果として、きっとそれは、粗末に扱われ、あげく伯爵夫人の部屋のどこかに転がっているのかもしれない。
随分無言が続いたのち、伯爵が口を開いた。
「…明日、公爵夫人にご相談して、お前に必要なものを揃える手はずを整えなさい。金を惜しむ必要はない…。シャンダウス家の正当な娘として、恥ずかしくないものを…」
ローザリンデは、それに返事をしなかった。
会話はここで終了したのか、伯爵が黙り込む。
朝の家族用の食堂の壁際には、ラーゲンとヘンドリックが、そんな重苦しい空気の中、微動だにせず立っている。
ローザリンデがそちらを見ると、すぐさまラーゲンがそばに来て控えた。
会話が終わったなら、昨夜、伯爵の突然の登場で聞くことが出来なかった報告を、聞く必要がある。
「昨日手配を頼んだ、ラーラの家庭教師の件はどうなったかしら?」
そう問うと、執事からはすぐに返答が帰って来た。
「はい。ユーチャリス子爵家、ケランドル男爵家よりは、いつでも面接に参りますとお返事が来ております。レダス卿は、ウルダス侯爵家の家庭教師が決まっているとのことで、ご辞退の返事が参っておりました」
「そう…。ではまず子爵家へ、本日の午後、ご都合が良ければと使いをやってちょうだい」
そう言いながら、ローザリンデは今の執事の答えにひっかかっていた。
(ウルダス侯爵家は、貴族院の重鎮。それが、軍閥に明るいレダス卿を家庭教師に雇うとは…?)
そう思索する娘の様子を、伯爵がデミタスカップを手に、じっと窺っている。
母親自身が放棄した義妹の教育を、十七歳の娘が考え手はずを整えていることを目の当たりにして、内心驚いていたのだ。しかも、その中身が非常に的確であることにも。
自分の娘が、実は非常に優秀だとの確信は、昨夜執務室でも充分に感じた。
執務室に置かれていた予算書の草案は、過去のものを参考に、今後ある婚姻式や傍系にも配慮したもので目を見張った。そこで交わされた会話も、打てば響くような返答に、感情の出し入れが巧みで、思わぬ本音を引き出された。
しかも、学院を退学してから数カ月の間に、義母を差し置いて、女主人として周りを認めさせたのだろう。矜持の高そうな、他家から雇い入れた上級使用人たちが、常にこの娘からの要求に応えようと、心地よい緊張感を保っていた。
学院入学前、同じ屋敷に暮らしてはいても、昼夜が逆転した生活を送り、この娘と顔を合わせることは滅多になかった。おぼろげな、もっと幼い頃の印象だけが記憶に残る頭で、目の前の、自分が血を分けた娘をじっと見つめる。
その娘が持つのは、聡明な顔つき、使用人の意識を逸らさないよどみない指示力、最後に無意識に浮かぶほんの少しだけ口角を上げた人を惹きつける微笑み。そのどれもが、内面の資質の高さを感じさせる魅力にあふれている。
さらに、最もこの娘を特別な女だと思わせるのは、慎ましやかに見えながら、その実激しい炎を内包していることを見せつける意志の強い眼差しだった。
それは、ある種の男を刺激するだろう。
間違っても、自分に自信がなく、女を自らの下に置くことで満足するような小物ではなく、伴侶には、ともに並び立てるような手応えのある女を求めるような男。
大きな志を持ち、それを叶えうる能力や、生まれながらに人の上に立つ血筋を有する、この国でも数えるほどしかいないような、男だ。
(わたしのような男と、心の弱かったクリスティナの娘が、どうしたらこんな風に育つのだ)
その姿は、かつて自分が王立学院で憧れ、恋焦がれていた女性をほうふつとさせる。その人を選び、そしてその人が選んだのは、この国の序列一位の貴族の嫡男だった。
中央から弾き飛ばされたシャンダウス家の卑屈な自分など、逆立ちしても敵わない相手。だからと言って、いやだからこそ、小物の自分は未だに囚われているのかもしれない。
最初の妻は、その人と同じ血統の女性を。
次の妻は、その人とは真逆の、自分が完全に上に立てる愚かな女を。
しかし、最初の妻は、愛することも出来ず、死に目にそばにいることすらしなかった。
次の妻も、可愛がりはしても愛することはしなかった。しかも、愚かと分かっていたのに、無関心に放置した結果、子どもに害をなされ、病み、家から放逐する結果となった。
朝の光が差し込む明るい食堂で、伯爵は一人、真っ暗な真夜中のような気分で、手にしたカップをテーブルに置く。
領地に残した、年上の苦労人の愛人に、無性に会いたくなった。
かつて領内の荘園の管理を任せていた男の妻だった女性。
その女の助言で農地改革に着手し、充分な収入を蓄えるまでになったし、それを足掛かりに、レオンの代には中央へ返り咲こうとの欲が出て来た。
(あの方ほどではなくとも、わたしもいつの間にか、ともに並び立ってくれる女を得たのかもしれない)
二人の妻を不幸にしたツケは払わねばなるまい。
今の妻が、自分を愛しているのなら、そのもとに戻らなければならないかもしれないが、残念ながら求めているのは自分の愛ではなく、金と肩書だった。
(伯爵夫人を名乗らせ続けるわけにはいかないが、裕福な生活を維持できるだけの信託財産を与え、生活の保障をしよう。そして、生さぬ仲の義娘は、シャンダウスの所縁の者として立派に嫁がせる)
そしてもちろん、血を分けた、二人の子への責任を果たさなければならない。
しかも、その娘は、自分から見ても得難い資質を持つ女性に成長したと、惚れ惚れしてしまうほどだ。
この国の序列一位と二位の公爵家の嫡男を惹きつけてしまうのも、さもありなん。
その娘の父親として恥じぬよう、そして手放したくない女に愛想を尽かされぬよう、シャンダウス家の復権の兆しを逃さぬよう、自分も変わらなければならないと伯爵は強く思う。
そんな父親を、ローザリンデが、胡散臭そうに見つめていた。
読んで下さり、ありがとうございます。




