王都屋敷の伯爵 1
前の時の、自分の婚姻式以降、一度も会っていなかった父は、記憶とまったく違わない姿で現れた。
それもそのはずだ。前の時は、この二ヶ月後に婚姻式があったのだから。
「お父様…」
思わず洩らしたローザリンデの言葉は、しかし横にいるパトリックの声にかき消された。
「夜分遅く失礼いたします。ガッデンハイル公爵家のパトリックと申します。ご令嬢との歓談が楽しく、お送りするのが遅くなってしまい申し訳ございません」
それと同時に、やおら膝を付き、赦しを請う姿勢を執るパトリックに、ローザリンデはぎょっとする。
それは、目の前の伯爵も同じだった。
慌てて大きく腕を広げ、年長者らしく礼を執ると、「お立ち下さい」と声をかける。
「シャンダウス伯爵家の当主、エイダン・ザン・シャンダウスでございます。娘をわざわざ送り届けていただき、お礼申し上げる」
そして、とても四十前とは思えない魅力的な笑みを浮かべ、成人前のパトリックを丁重に扱おうとする姿は、日ごろの家族に対する無関心が嘘のように感じる。
いやしかし、ラーラがゲオルグから求婚された時には、すぐに王都に駆け付けたのだ。
すっかり忘れていたが、そういう時には、嘘のように腰が軽いのが、この父だったと思いなおす。
では、ガッデンハイル公爵家の子息と懇意にしていると、執事辺りから聞き、それでやって来たと言うのだろうか。それにしては、性急すぎるし、必死過ぎる。
ローザリンデは、目の前の自分と同じヘーゼルの瞳の父親を、いぶかしんだ目で見た。
伯爵はそれに気が付いたはずだったが、それには何の反応も見せず、再びパトリックに声を掛ける。
「さあ、外は寒い。帰られる前に、熱い茶をご用意しよう」
しかし、パトリックは帽子を取って一礼すると、「いいえ、今日はもう遅いですから、お暇いたします」と返答した。
そして、ローザリンデの前に進み出ると、帽子を被りなおしながら、おやすみのあいさつをする。
「じゃあ、リンディ、寒いから早く中に入って。明後日は、朝食を摂ったら迎えに来るからね。良い夢を。シャンダウス伯爵、また改めてごあいさつに参ります」
そう言うと、ひらりと幌馬車に乗ってしまった。
伯爵が、社交辞令なのか、本心なのか、名残惜しそうに声を掛けた。
「もう帰られるとは残念です。ですが、明後日に娘とお約束なさっているのですね?ではその時に、また」
すぐに走り出す馬車に、ローザリンデも「良い夢を!」と言って手を振る。
この前は、別れ際、指先に唇がかすかに触れたことを思い出し、今日はなんだか寂しいと思いながら。
いつまでも馬車の去った後を見送るローザリンデに、前の時もまともに会話をした覚えのない父親が声を掛けてきた。
「とりあえず中に入ろう。お前に風邪などひかれては、シャンダウス家再興の希望が遠ざかってしまうからな」
やっぱり父だ。
家族には無関心。けれど、中央から弾かれてしまったシャンダウス家の復権には、前の時から熱心なのだから。
しかし、一体何がこれほど父を突き動かしたのか。
ガッデンハイル公爵家の名前にそれほどの威力があるのだろうか。
父に促され入ったエントランスホールには、執事のラーゲンが一人控えていた。
「ご令息はお帰りになった。茶の仕度は執務室に。ああ、わたしには酒を」
伯爵はそれだけを簡潔に伝える。
そして、ローザリンデにも執務室に来るように言った。
「その前に、着替えてしまってよろしいですか?レオンの様子も見たいですし」
その申し出に、伯爵は一瞬眉を上げ、つまらなさそうに答える。
「わたしより、レオンが優先か」
意外な返答に、ローザリンデは笑いをこらえて返答した。
「お父様は大人。そして、レオンは赤ん坊です。どちらを優先すべきかは、明白でしょう?」
前の時には、こんな風に自分の意見を軽口を交えてこの父に伝えることなどなかったなと思えば、伯爵の方も不思議なものを見るような表情でこちらを見ていた。
「まあ良い。夜は長い。わたしが疲れて眠ってしまう前には来るように」
なんだこれは。まるで普通の父娘のような会話。
ローザリンデはそう思った自分に動揺して、「分かりました」とだけ言うと、階段を急いで登り、レオンが待つ部屋を目指した。
その後ろ姿を、伯爵がじっと見つめている。
「あの子は、あんな子だったか?」
その呟きに、主のそばで控える執事が、「素晴らしいお嬢様でらっしゃいます」と、しれっと返答した。
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レオンの部屋は、相変わらずほんわりとミルクの匂いが満ち、暖炉の火が赤々と燃えている。
「お嬢様!お帰りなさいませ!」
文字の練習をしながら子守をしていたケイティが、すぐさま立ち上がり迎え入れてくれた。
「どう?勉強ははかどっていて?」
着る時も苦労した、ジャケットのボタンを外しながら、頼りになるナニー見習いに声を掛ければ、嬉しそうに今日の勉強の成果を見せて来た。
「今日はレオン坊ちゃまもご機嫌な時間が多くて、こんなに練習出来ました!それよりお嬢様!旦那様にはもう会われましたか?」
どうやら、ケイティも伯爵が突然王都屋敷に来たことを知っているらしい。
「もしかして、レオンに会いに来られた?」
ないだろうなと思いながら問えば、ケイティがゆるく首を横に振る。
レオンだけは特別かもしれないと期待していたが、やはり父らしいと考える。
しかし、ケイティが言葉を続けた。
「たぶん、それどころじゃなかったんだと思います」
ジャケットを脱いだところで、ケイティがローザリンデのコルセットの紐を緩めるのに手を貸してくれる。
「ありがとう。でも、それどころじゃなかったって?」
コルセットから解放され、脱いだマスタードイエローのドレスに、自分でブラシをかけながら尋ねると、ケイティが誰も聞いていないのに、左右をキョロキョロ確認してから、ローザリンデに耳打ちした。
「旦那様がこちらに到着した時、奥様がエントランスに現れないので、バーゼル夫人をお呼びになったらしいんです。そしたら、体調が悪くて伏せってらっしゃるって言い訳したみたいで…。不審に思った旦那様が、領地から連れてらした従者を確かめに行かせたら…、案の定日の明るいうちから酔っぱらって寝てらしたと…」
さもありなん。ローザリンデは洋服ブラシを片付けて、いつものデイドレスに袖を通した。
ケイティの話が続く。
「で、これはさっき奥様のレディスメイドに聞いた話ですけど、その後、奥様は執務室に呼びつけられて、そのままお部屋には帰らず、このお屋敷の中のどこかに連れて行かれたらしいです」
そう聞いて、ローザリンデは不審に思う。
この屋敷の中に、『どこか』などと言えるような場所があっただろうか。
ガッデンハイル公爵家やカスペラクス侯爵家とは、屋敷の規模が違う。迷い込むほどの場所などないのに、と。
それはきっと、この後執務室で知らされるのかもしれない。
ローザリンデはぎゅっと唇を結んだ。
「他に何か聞いているかしら?」
ケイティは、顎に指をあて、斜め上を見る。
うーんとうなり、こちらを向いた。
「それ以外は特に何も…。あ、旦那様が到着された時、真っ先にローザリンデお嬢様がどちらにいらっしゃるか尋ねられたとヘンドリックさんが言っていました。だから、王都に来られたのは、お嬢様に何かご用があったからじゃないでしょうか」
ローザリンデは、身構えた。
そして、レオンの頬を二度つつくと、この世で一番安心できる場所から外に出た。
二つ向こうの扉、執務室へ向かうために。
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