新月の夜
パトリックの幌馬車は、シャンダウス家ともガッデンハイル公爵家とも違う、ミドルヒルズへ向かっていた。
「どこへ行くの?」
晩餐会の後だけあり、あたりはすっかり夜が更けている。
アッパーヒルズでは開けていた幌も、今はしっかりと閉じられていた。
御者の背中は見えるけれど、狭い幌の中で二人きり、ローザリンデはさすがに落ち着かなくなってくる。
それに、あれからずっと手もつないだまま。辺りが静かになればなるほど、自分の心臓が打つ鼓動の音が大きくなり、パトリックにまで聞こえるのではないかと思った。
「うん…」
なのに幼馴染は、さっきからこうやってあいまいな返事しかしないのだ。
もしかして、特にあてもなく、ただ馬車を走らせているだけなのだろうか。
たしか三日前、公爵家の茶会の帰りも、こうして手をつないで、延々パトリックの馬車で遠回りをして帰った。
けれど、あの時は話したいことがあったからで、こんなに互いの存在だけを感じるような沈黙が続くことはなかったのに。
「…どうしたの?」
だから、ローザリンデは質問を変えた。
もしかして、パトリック自身に、帰りたくない理由でもあるのかと思って。
「ん?」
無言になってから初めて、パトリックがこちらを見た。
薄暗がりでも、銀の髪に縁どられたその顔は、ぼんやりと白くその周囲を照らすよう。
「パトリック、今日も遠回りで帰るの?」
そう言ってほほ笑めば、幼馴染は困ったように苦笑した。
「…そうだね。バレたか」
その表情が儚くて、ローザリンデは思わず向き直る。
「もし帰りたくない気分なら、いつまでもお付き合いするわ。さっきまでの雨も上がって、もう少しすれば、きっと月明かりが明るい夜になるでしょう」
何とか元気づけたくて言った言葉に、パトリックはクスリと笑う。
「今日は新月だったんじゃないかな?」
その返答に、ローザリンデは赤面した。
可愛らしいその反応に、パトリックの顔にも熱が集まるのが分かる。
互いに、頬を染めて、その顔を見て笑い合った。
「やはりそろそろ帰ろう。レオンが、きっと君の帰りを待ち侘びている」
そう言って、パトリックがブーツで床を踏み鳴らした。
その合図に、御者は左手を少し上げ、元来た道へと馬車を緩く旋回させる。
初秋の夜は肌寒くて、けれど、二人寄り添うように手をつなげば、じわじわと心地よい温かさに満たされた。
ローザリンデがあくびをする。
やがて、ゆっくりとその額が、パトリックの肩に傾いで来た。
同じ背で良かった。
もし背が高ければ、硬い腕しか幼馴染の枕にしてあげられない。
(リンディが大切だ)
自分にとって、ただひとつの俗世とのつながり。
家も、家族も、一人の男としての生き方も、すべて断ち切り捧げて来たのに、たったひとつだけ、手放すことが出来なかった、この幼馴染。
人間らしい感覚など、とうの昔に忘れたと思っていたのに、ローザリンデを前にして、自分がどんどん変わっていく。
夕刻、会いたくなって訪れたシャンダウス家で行き先を聞き、衝動的に飛び出した。
そして、攫うように、馬車に乗せた。
どうしても、彼女をあの場所に置いておきたくなかった…。
八歳から、母が自らの代わりにパトリックのそばに置く御者は、彼が望めば、すぐに彼を国教会から公爵家に連れ帰るように言われている。そして今は、自分の気持ちを察して、行き先を告げられるまでは、ただ一人の幼馴染との時間を守ってくれているのだろう。
つないだ手のぬくもりが、肩にかかる体温が、自分の中の欠けてしまったものをどんどん埋めていくのだ。
そして、今も、どうにかして、この時間が長く続くようにと、心の中で祈っている。
けれど、成人もしていないこの体に、イラつき焦る気持ちはどうしようもない。
明後日は、チュラコス公爵家の茶会。
きっと、フィンレーは手ぐすね引いて、その日を待ちわびているだろう。
しかも、昨日今日のくそ野郎とは違い、あちらは学院時代の数年間の良い思い出というアドバンテージがある。
当初まったく想定していなかった、この大物の登場に、パトリックは気を引き締めた。
それと同時に、この不完全な自分の力が、もし及ばないと確信したならば、潔く、元いた場所に戻ることを、自らに言い聞かせるのだった。
********
「リンディ、着いたよ」
優しく揺すられ、目を開けた。
そこは、見覚えのある、エントランス。
さっきまでいたカスペラクス家よりも、随分こじんまりとした。
シャンダウス家のエントランスだった。
「まああ!わたし…!ごめんなさい、パトリック…」
ローザリンデは、狼狽した声を上げると、体を預けていたパトリックの半身から身を起こした。
途端に、ぬくもりが消えて寒さを感じ、如何に自分がもたれ切っていたのかを実感する。
パトリックはクスリと笑い、素早く馬車を降りると、すかさず手を差し出した。
「着いたよリンディ。中まで送って行こう」
そう言えば、パトリックは、毎回必ず馬車の乗り降りをエスコートしてくれる。
普通は、外であれば御者、馬車寄せであれば下僕や従者がしてくれるものだが。
「パトリック、ありがとう」
そう思えば、つい感謝の言葉にも気持ちがこもるものだ。
馬車寄せでは、下僕のヘンドリックが出迎えてくれたが、何やら屋敷内がざわざわとしていることに、ローザリンデは気が付いた。
「何かあったのかしら?」
ローザリンデの問いに、ヘンドリックが二人の前に立ち、声をひそめて告げる。
「伯爵様が、ご領地より、さきほどご到着なされたのです。しかも、馬車ではなく、数名の供だけを連れて、騎馬で」
ローザリンデは目を見開いた。
この時期に、父が領地から王都に来るなど、まったくの想定外だ。
父に会うのは、ラーラの婚姻式だろうと考えていたローザリンデの考えは、まったく覆されたことになる。
しかも、騎馬。
確かに馬車よりも到着が一日半は早くなるが、それでも父が騎馬で王都に来たという記憶は、どこをどうひっくり返してもなかった。
一体何が起こっているのか…。
パトリックと二人顔を見合わせ、ごくりと唾を飲む。
「そして、ローザリンデお嬢様のお帰りを、今か今かとお待ちになってらっしゃいます。ご令息の馬車で、侯爵家から帰られたこともご存知です」
そう言われて、パトリックが顔を引き締めた。
「なら、きちんとごあいさつしないとね」
しかしその前に、エントランスの扉が大きく開かれた。
そして、屋敷の灯りは入口に立つ人物を、こうこうと照らす。
もう一つの『シャンダウスのヘーゼル』の持ち主。
シャンダウス伯爵、その人がそこに立っていた。
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