晩餐会後
幌馬車が、慌ただしく立ち去ったカスペラクス家のエントランスで、侯爵はにやりと笑った。
「とりあえず、公爵家の神童殿に、これで貸し一つだ」
確かに。一体、何があの少年を突き動かしたのか。まるで攫うように、シャンダウス家の令嬢を連れ去ってしまった。あっという間に見えなくなった幌馬車が消えた方角を、未だにゲオルグがじっと見つめる。
「どうしたゲオルグ。あのご令嬢に、魂を抜かれたのか?」
父である侯爵に思わぬことを言われ、驚き振り向いた。
そこには、人の悪い笑顔を浮かべた父親が。
「魂を抜かれるなど…。父上は何やら楽しんでおられるご様子」
呆れたように言い捨てて、ゲオルグはくるりと体の向きを変えると、屋敷の中に入っていく。
「はははっ、言い当てられて慌てておる。しかし、楽しいかと言われれば、それはその通りよ。今日は二人も、得難い人間を見出した。積極的につながりを持たねばならない」
『二人』とは、間違いなく、今の二人のことだろう。
ガッデンハイル公爵家の令息パトリックと、シャンダウス伯爵家の令嬢ローザリンデ。
ゲオルグから見ても、彼らが年齢にそぐわない、目を見張る資質を備えている人物である可能性は、認めざるを得ないところだ。目がくらむほどに。
特に、自らの婚約者であるラーラの義姉、ローザリンデとの、晩餐会前のやり取りを思い起こせば、身の内が熱くなるような渇望感が湧いてくる。
あんな令嬢が存在するとは…。
ラーラを虐げる酷い義姉。
そう思っていた。
自分との結婚は、そんなラーラを義姉から救い出すことになるのだと。
しかし、雨の中、馬車寄せの混雑を少しでも解消しようと飛び乗ったシャンダウス家の馬車で、嫌悪を露わにする自分に対して、あの令嬢は怯むことなく正面から視線を合わせて来た。
そして、なぜかそれを自分の方から逸らしてしまった時から、ゲオルグはおかしくなってしまったのかもしれない。
赤味を帯びた不思議な色、『シャンダウスのヘーゼル』の瞳に。
その後のことは、自分で自分が下らな過ぎて、思い出したくもない。あれでご令嬢の自分に対する印象は地に落ちたのは確実で、そう考えると、自分でも不可解なほど落ち込んでしまう。
どうしてあそこまで年下の令嬢を追い詰める必要があったのか。
自分がラーラの大げさな話を鵜呑みにし、求婚までしたバカな男だと気付いてしまったせいか。
馬車を降りる時、そんなバカな男など頼りにならぬと、差し出した手を空気のように扱われてしまったせいか。
それとも、彼女を兄嫁であるイデリーナに似ている、などと思ってしまった自分の気持ちを、打ち消したいがためだったのか。
しかも、そのせいで、無様に返り討ちにあってしまった。
なのに、今となっては、自分を苦しめているのが、そのために自分の面目が一族の目の前で潰されてしまったことではなく、あのヘーゼルの瞳が、今後自分に向けられることはないかもしれないという事実だとは。
あんなに窮状を訴えていたラーラは、実際義姉との関係を目にすれば、あの肩書だけは伯爵夫人のペラペラな実母よりも、よほど頼りにし、甘えてすらいた。それは、唯一この婚姻の意義を見出していた部分までも、自分の思い込みであったことを思い知らせる。
令嬢が言った通り、片方の言い分だけを鵜呑みにした自分の落ち度でしかない。
大切な人生の選択の一つだったというのに。
兄と結婚したイデリーナのような、思慮深く聡明な女性は二人といるまいと決めつけていた。実際、兄嫁は王立学院を優秀な成績で卒業までした稀有な女性。
だから、もう一人のイデリーナを探すような、無謀な結婚相手探しなどやめて、せめてその婚姻に意義を持たせようなどと、下らない近視眼的な視点で婚姻相手を選んでしまった。それは、自分だけでなく、その相手にとっても傲慢で許しがたい求婚理由に違いないのに。
イデリーナのような女性でないなら、せめて厳しい軍閥の家門に耐えられる、若くして苦労をしている女性が良い。そして、自分との結婚で、その苦労から抜け出す手助けが出来れば…。
そう思っていた。
なのに、今日、見つけてしまった。
兄嫁のような、いや、兄嫁よりも、さらに鮮烈で、大胆で、抗うことすらできないような…。
いやそんなこと関係なく、あの赤味を帯びた榛色の瞳を見た瞬間から、自分はおかしくなり始めていたのだ。
すっと伸びた背筋も、知性を湛えた表情も、落ち着いた佇まいも、よく考えれば自分の好みそのものだ。
しかも、その令嬢は、自分が独り善がりな理由で求婚した相手の、義姉だというのに。
「ゲオルグ。少し止まれ」
後ろから、侯爵が呼ぶ。
ゲオルグはぴたりと立ち止まり、自分の横に父が並び立つのを待った。
憂鬱な表情は、隠すことが出来ない。
侯爵が、顎の髭を撫でながら言う。
「お前、ラーラ嬢のことを愛しているのか?」
その問いに、ゲオルグは返答できなかった。
ローザリンデのことばかりを考えて、ラーラのことなどすっかり忘れていたからだ。
「どうやら、違うようだな」
返事は分かっていたとばかりににやりと笑う。
「なら、同じシャンダウスなら、より良い方を求めるべきではないか?」
侯爵が、そう言って、ゲオルグの胸元をこぶしで突く。
「ローザリンデ嬢は、後添いの伯爵夫人から、相当きつい『継子の洗礼』も受けて来たようだから、あの年で立派な苦労人だ。お前の目の色を見ればわかる。あの令嬢が欲しいだろう?」
その言葉に、ゲオルグは天を仰いだ。
なんてことだ、しかも、あの家から救い出すべき令嬢は、ラーラ嬢ではなくローザリンデ嬢だったとは。
自分の愚かしさで、今日何度目かの絶望が自らを襲う。
「わたしの目が、どうだというのですか?!」
つい感情的に発してしまった言葉を、侯爵は父親の顔でにんまり笑って引き受けた。
「大変だなゲオルグ。シャンダウスのご令嬢には、あのガッデンハイルの小倅以外に、お前と同じ年の、チュラコス公爵家の腹黒フィンレーもご執心らしいぞ。義妹と婚約してしまっているお前では、太刀打ちできんかもしれんな」
その言葉に、ゲオルグはまたしても絶望に淵に立たされた。
ガッデンハイル公爵家に、チュラコス公爵家。
そうそうたる序列一位と二位の公爵家を相手に、すでにローザリンデ嬢の中で評価が地に落ちた自分が、一体何が出来るというのだろうか、と。
だからと言って、しっぽを巻いて逃げる気には、到底なれないゲオルグだった。
そのためには、誠実に、まずはラーラ嬢と向き合うべきなのだ。
せめて、義妹の婚約者としてでも、つながりがもちたい。
その足は自然と、婚約者がいるはずの控えの間へと向かう。
侯爵がその後ろ姿を、髭を撫でながら見送っていた。
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