パトリックの迎え 2
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「では侯爵閣下。また機会がありましたら、是非ガッデンハイル家へもお運びください。本日は急な訪問でご迷惑をおかけいたしました。何卒、お許しを」
「わたしもごあいさつを。本日はありがとうございました。中座いたしますことをお許しください。侯爵夫人にも、イデリーナ様にも、よろしくお伝え下さいませ」
結局ローザリンデは、有無を言わさぬ勢いのパトリックに、ラーラやパトロラネ夫人に短い伝言だけを記すことを許され、あっという間にいつもの幌馬車に乗せられた。
しかも、それを侯爵とゲオルグに見送られるというおまけ付き。
終始侯爵は上機嫌で、反してゲオルグは生意気なガキと思っているのか、パトリックを睨みつける。
「また近いうちに会おう。ローザリンデ嬢」
しかし、せっかく侯爵が掛けてくれた言葉は、半分も聞かないうちに遠くなった。
馬車が、まるでそれを遮るように発車したからだ。
「もう!パトリック!侯爵様が、まだお話されていたのよ」
ぐんぐんスピードを上げる馬車は、その抗議の声も風と一緒に後ろに流していく。
そして、さっきまで侯爵相手に浮かべていた作り笑いが嘘のように、パトリックはじっと無言で、どこか一点を睨みつけていた。
不安になったローザリンデが、小さく声を掛ける。
「パトリック?」
それでも、幼馴染はこちらを見てくれない。
そうしているうちに、上着を持たないローザリンデは、冷たい風にくしゃみをしてしまった。
その音で、パトリックの意識がこちらに向いたのか。
慌ててローザリンデの姿を目にとめると、はっとして自らの上着を脱いだ。
「ごめんリンディ。寒かっただろう」
そう言って、その上着を幼馴染の肩にかける。
それは、彼女にぴったりだった。
「あ…ありがとう、パトリック。でも、あなたは寒くないの?」
しかし、その姿を見て、パトリックは眉を歪ませた。
まるで泣き出しそうなその表情に、ローザリンデはその顔を覗き込む。
「どうしたのパトリック?やっぱり寒い?」
その言葉に、パトリックは顔を伏せると、何度も首を横に振った。
「違う…違うんだ…。リンディは、悪くないんだ…」
それでも、そんな言葉一つで、パトリックのこの様子を放っておけるわけがない。
ローザリンデは、意を決して、幼馴染の白くてほっそりとした手を取った。
そして、その手を自分の両の指でぎゅっと包み込む。
「どうしたのパトリック。今日突然カスペラクス侯爵家に来たのも、あなたらしくないわ。でも、なにか考えがあってのことでしょう?ねえパトリック。顔を上げて。わたしを見て?」
パトリックの手を包む、ローザリンデの少し荒れた指先が、もうひとつの彼の手に、上から覆われる。
やっと、パトリックがその顔を上げた。
透き通った翡翠の瞳が、複雑な感情に揺れる。
じっと見つめあい、やがて呼ばれた気がして、ローザリンデは返事をした。
「なあに。パトリック」
心の声が聞こえたの?と、パトリックが薄く笑う。そうして、言った。
「君はぼくのことを、まるで弟のように気遣うんだね。それに、三歳も年下のぼくの上着は、君を大きく包むことも出来ない…」
その言葉に、ローザリンデは驚く。
「どうしたのパトリック。でも、それでもあと数年すれば、あなたはわたしよりうんと大きくなってしまうのに」
前の時の、すらりとした枢機卿の姿のパトリックが、ローザリンデの脳裏に浮かぶ。
神力の象徴のように長く伸ばされた銀の髪に、真っ白な神官服の若い枢機卿は、いつだって若いご令嬢の憧れを集めていた。
神の使徒として、一生婚姻することもないパトリックは、未婚女性がほのかな恋愛感情を抱くのに『安心な男性』だった。
けれど、今目の前のパトリックに、『安心』などという言葉はほど遠いかもしれない。
ほっそりとした指先は、その優美な見た目に反して、ローザリンデの手にしっかり巻き付き、きつく指先をくいこませてくるのだ。
指の間をするりと撫でられ、思わず頬をそめたローザリンデに、パトリックが、再び薄く笑った。
「…あと数年も待たなきゃダメなのが歯痒いんだ。今この時、君の一番の頼りになりたいのに…。カスペラクス家に行ったと聞いて、頭に血が上っているようじゃ、ダメなのに…」
泣き出しそうなその表情に、理由も分からず、ただただ胸が痛む。
けれど、パトリックがローザリンデにとって、欠くべからざる存在であることは、間違いのない事実なのだ。
それを伝えずには、おれなかった。
「パトリック、違うわ!」
思わず放ったローザリンデの強い声に、幼馴染がゆるりと顔を上げる。
「パトリック聞いてちょうだい。そして、これだけは忘れないで。前の時、あなたはいつもわたしの、家門も何も関係ない、ただのローザリンデの心の拠り所だった。そして今、わたしをこうして突き動かしているのは、心に希望を抱かせてくれているのは、あなたなのよ!」
それは、心からの言葉だった。
前の時、誰にも言えない心の葛藤を言葉にできるのは、パトリックと交わす手紙の中だけだった。
そうして、十七歳に巻き戻って来た日の朝に、脳裏に思い浮かべたのは、そのパトリックが書き送ってくれた手紙の中の希望の言葉。
『過去を今から変えることは出来ない。けれど、もう一度やり直すことは出来るかもしれない。神は、魂をかけた切実な思いを、見放すことはされない』
なぐさめだったかもしれない。気休めだったかもしれない。
けれど、それは実際こうして、今この時、ローザリンデが自分の人生をやり直す心の原動力なのだ。
「本当?」
パトリックが、じっと自分を見つめる。
その瞳の熱さに、ローザリンデは自分の頬に熱が集まるのが分かった。
互いの手を握る力が、より強くなった気がした。
ローザリンデは、『頼りになれず歯痒く思う』と泣き出しそうだったパトリックの様子に動揺し、その瞳に力が戻ったことが嬉しかった。
だから、パトリックが口走ったもう一つの言葉を聞き流してしまった。
『カスペラクス侯爵家に行ったと聞いて頭に血が上った』と言った言葉を。
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