シャンダウス伯爵家へ 1
ふと、薄くまぶたを開けば、まだ夜が明けきらない、薄暗い部屋の中。
ぼんやりとした頭で、ローザリンデは、こんなに朝早く目覚めてしまった理由を思い起こそうとしていた。
(何か大きな予定があったかしら?お茶会?司祭様がいらっしゃる?いえ、その前に、わたくし、流行り病がなかなか良くならず、ずっと臥せっていたのだった…!)
そうだ。眠る前、あんなに苦しかった呼吸が、しかし目覚めると、なんとも穏やかなものになっていた。
(やっと、快癒に向かい出したのかしら…。このまま、天国の義母様のところに行くかもしれないと思うほどだったのに…)
もしそうなら、病が癒えて、子どもたちの元気な顔を見られるのは嬉しい。
使用人たちも、安堵させられることだろう。
目を閉じて、穏やかに息を吐き、胸の上に手を組んだ。
しかし、同時に猛烈な違和感がローザリンデを襲った。
(いえ…わたくし、こうして、同じように目を閉じ、胸の上で手を組んで、子どもたちに囲まれたわ…。一人一人朦朧としながらも顔を見て、最後、そこに見たのは、あの人の…)
そのままの姿勢で、ローザリンデは瞳をそっと開け、記憶をなぞるように寝台の周囲をぐるりと見回す。最後に見たと思った、病床でずっと待っていた人の顔を思い出そうとして、小さくため息をついた。
(…ふふ…。馬鹿ね。ルードルフをゲオルグ様と見間違えるなんて…)
日に日に夫の若い頃にそっくりになっていく息子、ルードルフ。
髪の色だけが、漆黒の父親と異なり、前侯爵譲りの赤銅色。
しかし、あの後、確かに自分は事切れたと思ったのに…。
なのに、まだ、こうして生きている。
(もしかして、あの後、一命を取りとめたのかしら…)
けれど、心の底から、なんのひっかかりもなく喜ぶことはできなかった。
それはまた自分にとって、再び苦しい日々の始まり。
(こうしてはいられない。体調が良くなったなら、やらなければならないことは山積みのはず。夜明けまではもうすぐ。少し早いけれど起きてしまおう)
上掛けをそっとめくり、まだ冷たい空気の中、床に足をつけた時、ローザリンデは再びの違和感に見舞われた。
(体が軽い…。それに、いつも痛んでいた胃が、こんなにすっきりしているなんて)
そのまま立ち上がろうとして、薄暗い部屋の中が、まったく自分の記憶と様変わりしていることに気が付く。
いや、様変わりではない。
なぜなら、この部屋には、恐ろしいほど見覚えがある。
そう。それは生家である、シャンダウス伯爵家の、かつての自分の部屋。
半地下の、使用人と同じ階にある、小さく薄暗い部屋。
ローザリンデの動きが完全に止まった。
自分がそこにいることが、どうしてだか分からなかった。
侯爵家に嫁いで以来、ここには一度として足を踏み入れていないはずなのに…。
なぜ…。
がくがくと震えだす足。
飲み込めない事態に、思考が暴走を始める。
(ああ、もしかして、わたしが病に倒れここに戻され、ラーラが侯爵家へ…!)
立っていられず、そのまま寝台に腰を下ろした。
視界の端に、白い顔が見える。
鏡がある。
そう、鏡。あの日、ラーラが割ってしまった…。
そこまで思い出し、ローザリンデは弾かれたように顔を上げた。
割られ、繊細な金細工が折れ曲がってしまったはずの鏡が、そのままの姿で壁にあることに驚く。
あの後、そこに鏡が新しく取り付けられた記憶はない。
しかもあの鏡は、祖母が伯爵家へ嫁ぐときに持参したと言う、この世に一つしかない金細工が施されたものだったのだ。
なのに、何事もなかったかのようにそこにある鏡。
ぞっとして、鏡に映る自分の姿を食い入るように見つめる。
しかし、そこには、これまでの全ての違和感の理由を告げる姿が映っていた。
「…どうして?」
鏡の中には、ダークブロンドの髪をお下げに垂らし、榛色の瞳を目いっぱい見開いた、ローザリンデがこちらを見ていた。
『シャンダウスのはずれの方』と陰口をたたかれていた、娘の頃のローザリンデが。
事態が飲み込めず、とりあえず、ひたすら鏡の中の自分を見つめ続けた。
鏡の向こうのローザリンデも、薄暗い中でも分かるほど、固い表情でこちらを見ている。
やっと右手を動かし、そっとその頬に触れる。
指先には、しっとりとして柔らかい弾力のある肌の感触。
まるで十八歳のクラウディアのような…、
(若い娘の、肌の感触…)
鏡の中だけではなく、今こうして触れているローザリンデ自身が、三十八年の歳月がなかったかのように、若返った姿で存在していた。
ローザリンデも、部屋も、鏡も、すべてが、まだ侯爵家に嫁ぐ前に巻き戻ってしまっていた。
「わたくし…死んだの?これは、わたくしの都合の良い、死後の世界なの?何度も、何度も願ったように、ゲオルグ様と出会う前の世界に戻って来たと言うの?!」
ローザリンデは肌寒さも忘れ、薄いガーゼの夜着のまま部屋の中で小さく跳ねた。
もしかしてこれは、死んでしまった自分がこしらえた、都合の良い楽しい世界なのだろうか。
そんな物語を、死への恐怖で眠れないと泣いた幼い自分に、優しかった祖母が語って聞かせてくれたのを思い出す。
しかし、その考えは即座に打ち消された。
早朝にもかかわらず、激しく繰り返されるノックの音によって。
鍵もない扉は、ローザリンデの返事も待たず開かれた。
そこに立っていたのは、継母の忠実なる家政婦長、バーゼル夫人。
ローザリンデを一瞥すると、有無を言わさぬ声音で告げられる。
「ローザリンデお嬢様。ラーラお嬢様が、昨夜からご気分が優れず、ハチスブクロの蜜が飲みたいとおっしゃっています。九月とはいえまだ日の出は早いですから、今すぐ探しに行って下さい」
それだけで、ここがローザリンデの楽しい死後の世界ではないことを悟った。
自分に都合の良い死後の世界なら、こんな初秋に、初夏にしか花をつけない植物の蜜を取りに行くよう命じられることはないはずだ。
シャンダウス家を出て二十年が経とうとしていても、ローザリンデの身に沁みつく生家での暗黙のルール。
返事も聞かず、バーゼル夫人は踵を返した。
ローザリンデが、従わないはずがないと分かっているから。
きっと一日中、屋敷の外に出ておけと言うことなのだろう。
それはすなわち…。
ローザリンデはもう一度、割れてしまったはずの鏡に映る自分の姿を見た。
先ほどよりも部屋は随分明るくなっている。
もう一度見つめた自分の顔。鼻に散るそばかす。太い眉。普通の高さの鼻梁に、普通の大きさの瞳。
『シャンダウスの妖精』と呼ばれるラーラとは、似ても似つかない…。
ここは都合の良い死後の世界ではない。
けれど、もしかすると、本当に願った通り、ローザリンデがゲオルグと出会う前の現実世界に戻って来たのかもしれない。
枢機卿にまで上り詰めてしまった幼馴染が、まだ神学校に通っている時、辛くて泣くローザリンデにこう言った。
『過去を今から変えることは出来ない。けれど、もう一度やり直すことは出来るかもしれない。神は、魂をかけた切実な思いを、見放すことはされない』と。
とにかく、ローザリンデは死の淵から、望み通りゲオルグと出会う前の世界に戻って来たのだ。
(これが神の御業でも、悪魔の所業でも何でも良い。ゲオルグ様と出会う前なら、きっとやり直せる…)
ローザリンデは壁のフックにつり下がっている、それしか持っていない、古ぼけたデイドレスに袖を通した。
もちろん、ありもしない花の蜜を探すため、一日中この屋敷から離れるため、王都中の庭園や雑木林でハチスブクロを探すためだ。