晩餐会前 2
晩餐会へ出発するまでの束の間、パトロラネ夫人に断りを入れ、ローザリンデはエントランスでラーラにつける家庭教師のリストの確認をしてしまうことにした。
社交術やマナー、家政学に関しては、マダム・ヘジリテイトの学校が、ある程度詰め込んでくれるだろう。
しかし、侯爵家に嫁ぐなら、あと最低でも家計財務と軍閥の基礎知識がいる。
王立学院で財務諸表の読み方などの初歩をかじった自分でも、相当侯爵夫人から指導を受けた。
せめて言われている言葉の意味、そして単純に数字の四則くらいは出来なければ…。
ラーラには、過去の家庭教師たちを、理不尽な理由でことごとく解雇してきたと言う前科があるが、それでも前の時に評判の良い教師と噂された、記憶に残る名前の横に、いくつか印をつけた。
「ラーゲン。こちらの方々に、シャンダウス家の家庭教師の申し入れを。面接はわたしがします」
ぴったりとそばにいる執事にリストを渡し、もう一度パトロラネ夫人に向き直ろうとしたところで、階段の上から響く声が聞こえて来た。
「バーゼル夫人!もっと真珠の粉をかけてって言ったのに!」
そうして、階段に現れたラーラの姿を見て、ぎょっとする。
夜会どころか、ミドルヒルズの怪しげな屋敷で行われる仮面舞踏会にでも行くのかという出で立ちで現れたからだ。
しかも、ゲオルグを意識したのか、全身真緑の装い。
その上、頭のてっぺんから、今流行りの真珠の粉を、これでもかというほどふりかけていて、まるで魚のうろこのように、全体がペカペカと品なくテカっていた。
ローザリンデは、無言でソファーから立ち上がると、執事に命じた。
「ラーラの部屋に行きます。伯爵夫人のレディスメイドに、至急そちらに来るよう、伝えて下さい」
そう言って、ラーラの手を優しくつかむと、にっこり笑ってこう言う。
「昨日、公爵家にいらしていたカスペラクス侯爵夫人と、婚約者様の兄君の細君は、どういった装いをされていたか、そしてどのような装いが好みか、頭を使って考えてみましょう」
ラーラがきょとんとして、しかし、じわじわとその表情が変わり出す。
その様子に、ローザリンデは上出来とばかりに、握る手に力を込めた。
「時間が無いわ。あなたの部屋へ戻りますよ」
しばらくして、エントランスに再び現れたラーラは、パトロラネ夫人が見た中で、最も清楚で可憐で、控えめさがいじらしい令嬢に、化けていた。
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シャンダウス家の馬車には、ラーラとローザリンデ、そしてパトロラネ夫人が乗り込んだ。
実は、ラーラの部屋で再度仕度をしていた時、伯爵夫人がふらりと現れた。
そして、酒臭い息を巻き散らして、侯爵家から自分への招待状が無かったことに関して、散々ローザリンデに毒づいて去って行った。
義母の中では、それもこれも『義娘のせい』、になっているのだろう。
予想を裏切らない反応だが、あの酒量は気がかりだと思う。
前の時は、まだこの時期は酒浸りではなかったはずだが…。
そんなことを考えていれば、所詮は王都のアッパーヒルズ内の移動。あっという間にカスペラクス侯爵家に到着してしまった。
「相変わらず、すごいお屋敷だわ!」
二度目のラーラが感嘆の声を上げる。
見上げるほど背の高い漆黒のアイアンが取り囲む、表に向けた窓の少ない、城塞のようなカスペラクス侯爵家の王都屋敷。
ガッデンハイル公爵家の、緑豊かで開放的な造りとは異なり、大きな石の塊のようなその建物。
しかし、一歩中に入れば、建物がぐるりと取り囲む中庭は、侯爵夫人の愛する樹木と草花で埋め尽くされ、そこに住むものをほっと癒すのだ。
かつてここに、二十年余り暮らしていた。
ローザリンデは、無言でその漆黒の門をくぐりぬけた。
胸には、複雑に絡み合う様々な感情が押し寄せる。
シャンダウス家よりも長く暮らしたこの屋敷に、思い入れが無いと言えば嘘になる。
けれど、ここで夫であるゲオルグと過ごした時間は、一体どれくらいだっただろうか…。
しかしその思考は、御者台から聞こえてくる声で遮られた。
「ローザリンデお嬢様。馬車寄せが混みあっているようですので、順番が回って参りますまで、こちらでお待ちいただけますか?」
窓の布を少し上げて見れば、確かにエントランスに向けて馬車が渋滞している。
カスペラクス一族の人々は皆時間に正確で、前の時もいつもこうなっていたから、ローザリンデが差配するようになってからは、あえて招待状に記す時刻をずらしたものだ。
「わたしたちは大丈夫よ。雨が降っているのに悪いわね、ワイルイジ。後で侯爵家の御者控えで、上着を乾かすようにね」
少々声を張って返事をし、馬車の壁をトントンと叩けば、御者のワイルイジからは承知した合図の音が、これまたカツカツと聞こえて来た。
「ローザリンデお嬢様は、御者の名前を憶えてらっしゃるのですか?」
パトロラネ夫人が、不思議そうに問いかける。
貴族の馬車に同乗するのは、このシャンダウス家のシャペロンに雇われて初めてだった。
しかし、伯爵夫人やラーラが、御者と命令以外の会話を交わすのを見たことが無かったのだ。
「ええ、もちろん。我が家のために働いてくれているのですからね。まあ、わたしの場合、それだけではありませんけれど」
それは、つい先日まで、同じ立場で働いていたことを、暗に示す言葉だった。
パトロラネ夫人は、自分がした質問が無神経っだったことに気付き、顔を伏せた。
ラーラは、窓から屋敷を見るのに夢中で、何にも気付いていなかったけれど。
その自分の興味があるものに対すること以外への無関心さは、ラーラにとって、長所でもあり短所でもある。
あと十カ月でそれを自覚させ、それが自らの首をしめないようにしなくてはならない。
せめて、今夜、数刻だけはしのげますにと、ローザリンデは祈った。
馬車は一向に動かない。
どうせなら、ずっと動かなくても良いのにとも思う。
落ち着きを装ってはいても、シャンダウス家を出発してから、心臓はずっと痛いほど鼓動を打っている。
少しでもゲオルグと顔を合わせるのは、後回しにしたい…。
そう、再び願った時、ラーラががばりと窓に張り付いた。
嫌な予感がした。
「まあ!ゲオルグ様が、こちらに向かっていらしたわ!」
その言葉に、ローザリンデの心臓が、ぎゅっと何者かの見えざる手に掴まれたように痛くなる。
頭が真っ白になった。
そして、指先から血の気が引くような感覚に、意識が頭から抜けそうになった時だった。
馬車の扉が突然外から開かれた。
「ラーラ嬢。裏の馬車寄せに案内する」
相も変わらぬ、用件だけを告げる口調。
そうだ、そういう人だ。
目の端に映るのは、しなやかで真っ黒な肉食獣を思わせる青年の体の輪郭。
狭い馬車の中、その身を小さく屈める、十九歳のゲオルグだった。
ローザリンデは、咄嗟にうつむいた。
彼と視線を合わせる勇気がなかった。
かつて、ルードルフは、父親そっくりになったと思っていた。
しかし、それは姿形だけのことだった。
それ以外は、全然違うではないか。
この早鐘のように打つ心臓は、どうしようもなくローザリンデに、彼が自分の特別であることを思い知らせ、雨の匂いと一緒に流れ込んで来た嗅ぎなれたゲオルグの香りに、頭がくらくらとする。
目を合わせてはダメだ…!
なのに、願いはかなえられなかった。
「ローザリンデお嬢様、侯爵家の方のご指示に従ってよろしいでしょうか?」
そうだ。この馬車で、御者が指示を仰ぐのは、自分。
仕方なく、ローザリンデは顔を上げた。
そして、ゲオルグを見ずに指示を出す。
「ワイルイジ、こちらのご令息のご指示に従ってちょうだい」
そうして、心を決めて、扉から半身を馬車に突っ込んでいる青年に向けて、顔を上げた。
「ご令息、お心遣い感謝いたします。ご指示を」
目の前で、深緑の瞳が自分を見ていた。
けれどその眼差しは、ローザリンデが知るどれとも異なり、侮蔑と嫌悪の色を、隠すことなく浮かべていた。