プロローグ 3
「お母様を埋めちゃダメ!!!!」
ケインが棺に追いすがった。
ハイディは泣きつかれて眠ってしまった。
侯爵家の墓所。前侯爵夫人の墓標がまだ真新しいその奥に、大きな穴が掘られている。
クラウディアがケインを抱き締め、ルードルフとクラウディアの夫であるツェーザル、そしてヨハネスと侯爵家の使用人たちで、優しく優しく土をかけた。
涙が枯れたと思ったクラウディアの頬には、またあまたの涙の筋が流れ、涙も出ないと思ったルードルフの鼻先からは、汗とは違うしずくが、間断なくぽたりぽたりと土に落ちる。
その時だった。
埋葬の場には不似合いな、深緑色の旅装の男が現れた。
短く切りそろえられた癖のある黒髪。
あごにひげをたくわえ、真一文字の眉の下に、緑色の目がぎらぎら光る、鋼のように鍛えられた大きな体躯の男が。
その威厳ある姿からは考えられないほど、感情をあらわにし、目を血走らせ、どこから走って来たのか、肩で息をしながら。
「…父上…」
驚いて涙が引っ込んだケインが呟いた。
しかし、その以外のだれも、その男に背を向けた。
ゲオルグだった。
ゲオルグは棺の上に積まれた土の山に駆け寄ると、素手で土を払い始める。
「ローザリンデ…嘘だ…嘘だ…」
かけられたところの土は柔らかい。みるみるうちに土は取り払われ、棺の上に置いた白百合が姿を現した。
そこでゲオルグは一度顔を上げると、使用人の一人が持つシャベルをひったくり、さらに土を取り去る。
その姿は狂気を帯び、みながその気迫に飲まれ動けなくなっていた。
しかし、あと少しですべての土が取り払われるという時になって、やっと正気を取り戻したルードルフが、墓穴から引きずり出そうとゲオルグの腕をつかむ。
「放せ!」
すぐさまゲオルグは腕を振り払ったが、ルードルフが素払い動きで背後から羽交い絞めにし、咄嗟にツェーザルがその足をつかんだ。
しかし、文官であるツェーザルは簡単に払いのけられ、ルードルフももみ合った末に地面を這わされる。
「貴様ら…、なぜ、わたしに知らせなかった…」
まるで手負いの獣のような瞳で、ゲオルグが唸る。
だが、ルードルフは、素早く地面から立ち上がると、これまでの父に対する敬意が嘘のように、同じ目線から一度も逸らさず返答した。
「お知らせしましたよ。騎士団に」
ゲオルグに負けぬほどの、怒気をはらんだルードルフの答えに、ゲオルグが一層視線を険しくする。
ルードルフは不敵に腕を組むと、さらに続ける。
「ですが、秘書官殿に、副総長殿は、馬車で迎えに来られた『奥方』と、旅行に行かれて休暇中だと言われたのです」
そのやり取りを聞かされていなかった侯爵夫人が、ショックを受けたのかドサリと倒れた。
ヨハネスが慌てて抱き起す。
「休暇明けは明後日だと伺いましたが…、今日旅行から帰って来られたのですか?『奥方』と」
「どけ…」
ゲオルグはルードルフの言葉には一切何も反応せず、棺を隠すように立つ息子に、一言だけ発した。
しかし、ルードルフは一歩も引かず、目を眇めて問う。
「何のために?」
「…その棺の中が本当にローザリンデかどうか、確かめるた…」
「断る!」
ゲオルグがすべてを言い終わらないうちに、ルードルフはそれを拒絶した。
「あなたの『奥方』は、今頃旅装を解いて、あなたの帰りを待っているのだろう?なら、この棺の中の人物を確かめる必要はどこにもない!!!」
ゲオルグは、目をぎらつかせながら、何も答えない。
返答に窮していると判断したルードルフが、間髪入れず言葉を続けた。
「あなたには、旅行を楽しむ『奥方』が、毎日夜を共に過ごす『奥方』がいるのだろう?なら、この棺の中の人物と、あなたは、無関係、だ!」
ルードルフの絶叫が、静かな墓所に響き渡り、鳥が飛び立つ。
沈黙と、息が詰まるような空気が、長くその場を支配した。
「お前に…何が分かる…」
ゲオルグが呟く。しかし、あまりにその声はか細く、眼前に立つルードルフの耳にわずかに届くだけ。
やがてゲオルグが、力なく、その場に頽れた。
かつての戦いで瀕死の重傷を負った時でさえ、誰にも見せなかったほどの弱さを見せて。
そして、力なく、言葉を発する。
「ローザリンデはわたしの妻だ…。ローザリンデだけだ…。ローザリンデの顔を、見せてくれ…。一目で良い…。ローザリンデの…!!!」
しかしルードルフが、気持ちを変えることはない。
「お引き取り下さい。あなたの『奥方』の元へ」
冷たくそう言い放った時、声がした。
「この場はわたしに預けてもらえないだろうか」
涼やかな、凛とした声。
一同が振り返ると、そこには、大聖堂に戻ったはずの、ガッデンハイル枢機卿が夕陽を背に佇んでいた。
咄嗟に返答出来なかったルードルフに視線だけ投げ、枢機卿は護衛の聖騎士に命じ、ゲオルグをそっと立たせると緩く拘束した。
そして、何事かをその耳元にささやく。
すると、ゲオルグはおとなしく聖騎士に付き添われその場を去った。
「ありがとうございます」
母の死。父の裏切り。そして、この愁嘆場。
カスペラクス家の子どもたちは、傷つきすぎている…。
それでも、ルードルフは長男として、なんとか矜持を保とうとしていた。
ふっと、ガッデンハイル枢機卿が微笑む。
埋葬の場には相応しくないかもしれないが、傷ついた心を優しくなでるような微笑み。
「ローザリンデの幼い頃からの友人として、この件を預からせてくれ。君たちには、ローザリンデの死を純粋に悼む時間が必要だ」
伯父が領地から駆け付けるには、もう少し時間がかかる。
そして、この枢機卿の言葉は、ルードルフの心に簡単にしみこみ、従順にさせた。
「わかりました…」
ゲオルグが掘り返した土を、今一度、そっと棺にかけなおす。
優しく…優しく。
母の眠りを、妨げないように。
ガッデンハイル枢機卿が祈りを捧げ、深く、深く頭を垂れながら、母に別れを告げる。
屋敷に戻り、ローザリンデの死を厳かに悼みながら、夜が更ける。
しかし、夜が深くなればなるほど、恐ろしいほどの胸騒ぎにかられ、ルードルフは居ても立っても居られなくなった。
夜中だと言うのに、こっそり馬を駆り、侯爵家の墓所に向かう。
そして、月明かりの中、見つけるのだ。
土が掘り返され開け放たれた棺と、その棺の母に覆いかぶさるように、背中から剣で心臓を一突きにされ事切れる、父、ゲオルグの姿を。
ルードルフは絶叫する。
そして、世界の全ては暗転した。